何とか救いの手をさしのべようと、地裁や高裁が判例の壁に小さな穴をあける。それを最高裁が埋め戻し、より強固な壁をつくる――。被害者の視点を欠いた「人権のとりで」の姿に、大きな疑問と失望を抱く。

 神奈川・厚木基地の騒音をめぐる裁判で、最高裁は自衛隊機の飛行差し止めを求めた住民の訴えを退けた。やむを得ない場合を除き、夜間早朝の運航を禁じた東京高裁判決を破棄したうえでのゼロ回答である。

 差し止めには大きな壁が立ちはだかる。それでも高裁は、被害の深刻さを受けとめ、法律が定める差し止めの要件を柔軟にとらえて乗り越えようとした。

 これに対し最高裁は、騒音が「重大な損害を生ずるおそれ」があることは認めた。だが自衛隊機をどう飛ばすかは、防衛相の幅広い裁量にゆだねられるとし、運用はその裁量権の範囲におさまっていると述べた。

 「防衛に関することに部外者は口を出すな」との国側の主張をほぼ受けいれた判断である。

 平和と安全の確保はむろん重要だ。だが、やはり大切な日々の生活やだんらんは、判決では後景に追いやられてしまった。

 損害賠償の面でも高裁の踏みこんだ結論ははね返された。

 騒音が続く可能性が高いとして、高裁は15年7月に言い渡した判決で「16年末まで」の被害に対する支払いを国に命じた。将来の損害も救済対象にふくめて注目されたが、これも従来通り「高裁の審理が終わった15年5月まで」に変更された。

 縮められた期間の賠償を得るには新たに裁判を起こさなければならず、負担は大きい。

 かつて別の騒音訴訟の最高裁判決で、2人の判事が「期限や金額を控えめにしつつ、将来分についても賠償を認めることが公平にかなう」などとする見解を示した。こうした考えも手がかりに、住民の苦しみに向き合う判断はできなかったか。

 そして最大の騒音源である米軍機の飛行差し止めは、今回も認められずに終わった。

 「安保条約にも国内の法令にも、国が米軍の活動を制限できる定めがない」との理由で請求を退けた23年前の最高裁判決以降、同じ結果が続いている。

 この間、政府は米側にかけあって「制限できる定め」をつくるなどの努力もせず、「金を払うのだから我慢せよ」という態度を変えようとしない。

 国は守るが住民は守らない。そんな安保・防衛政策に正義はない。「人権」よりも「公共、公益」に傾く司法もまた、その責任を免れることはできない。