吃ることが「いいこと」だなんて、思えなかったあの頃

第30期(2016年12月-2017年1月)

「君はちゃんと吃ることができるからいい」

そう言われたのはもう5年以上前のこと。
当時は「はぁ…」と頷くしか返事ができなかったが、今でも折に触れて思い出す。

この言葉を僕に言ったのは、西きょうじさん。軽井沢に住んで、東京に通って予備校講師をしている、ちょっと変わった人だ。実際に授業を受けたことはないけれど、ひょんなことから紹介してもらい、以来ちょくちょくお酒を飲む仲になった。

西さんに言われたことは、「実感の伴わない知識まで、さも自分の考えかのように流暢に喋るよりは、下手くそでゆっくりでも、自分の実感から言葉を絞り出そうとできることの方がよっぽどいい」と、そういうニュアンスだったと思う。

だけど当時の僕は、むしろ「そのようにしか話せない」状態の自分にひどく悩んでいた。
流暢に、明瞭に話せる人になりたかった。
臆することなく滑らかに早々と対人コミュニケーションを成立させられる人が羨ましかった。

頭の中と胸の内ではたくさんの思考と気持ちが渦巻くけど、それをうまく言葉に出来ないから吃る。
結果、他人には伝わらない。「何が言いたいのか、お前の話はわかりにくい」とよく言われていた。

まぁコミュニケーション不全が多かったのだよな。幼少期から青年期にかけて。

そんな鬱屈した幼少期を過ごした青年は、とにかく生存上のやむにやまれぬバランス活動として、インターネットに文章を放流するようになったのだろう。

モヤモヤするから書く。
うまく伝えられていない感触が残るから書く。

最初はmixiに日記を書き、そのあとTwitterをはじめ、それからブログを始め…と、とにかくそこにインターネットがあったから書いた。

でもそれはほとんどがチラシの裏みたいなもんで、誰かに向けて贈る文章では到底なかったと思う。
 
書くことが自分にとって楽しいわけではなかったし、仕事として続けられるようになった今でも、決して常に楽しいわけではない(どちらかというと苦しさの方がよほど大きい)。

吃ることが「いいことだ」なんて、言ってもらってもなかなか素直には喜べなかった。
 
 
西さんが言ってくれた言葉が腑に落ちて納得できたのは、それから1年ほど経った後、『自分の仕事をつくる』『かかわり方のまなび方』などの著者である西村佳哲さんによる3日間のワークショップに参加させてもらったときのことだ。

西村さんは、さまざまな生き方、働き方をしている人たちへのインタビューをされてきた方だ。だけどそのワークショップには、インタビューの手法や技術を学ぶという要素はほとんどなく、一人ひとりの「きくこと」に対する解像度を上げていこう、という試みが中心だった。

教わったことは3つ。
「先回りしない」
「相手についていく」
「沈黙を恐れない」

その人が黙っていたり、言いあぐねているときは、待たなきゃいけない。

言葉以前の「気持ち」が言葉になるまでの時間だから。

お腹のなかに手を入れて、自分の気持ちにしっくりくる言葉を、「これかな?」「いいや、これかな?」と探り当てている時間だから。

言葉が花開く瞬間を、聞き手が先回りして奪わないこと。

そんな風なことを西村さんはおっしゃっていた。

 
この考え方を教わったとき、気持ちがずいぶんと楽になったのを覚えている。

吃ることは、自分が自分らしい言葉を紡ぎ出すために”必要”な時間なんだということ。
僕にとって書くことは、自分の中の「気持ち」を確かめる作業だったのだということ。
その場その場ではうまく話せなくても、決して「伝える」ことを諦めていたわけではなかったということ。

「自分のこれまでは、間違っていたわけではなかったんだ!」
「他の人が同じように言葉を探しているときは、その時間を大切にできる人になろう」

ワークショップの終わりには、そう思えるようになっていた。

今では僕も、職業として「ライター」だとか「編集者」だとか名乗って仕事をするようになった。これは色々と紆余曲折あった結果に過ぎなくて、自分から「編集者になろう!」と計画立てて動いていったわけではない。

だけど、人の話を聞いたり、自分が感じたことを伝えたりするプロセスそのものを大事にして働いていきたいなと思ったのは、間違いなくこうした経験が根底にあるからだと思う。

「上手な文章だね」と言われるよりは、
「やさしい文章だね」と言ってもらえるときの方が嬉しい。

「おかげさまで反響が大きいです!」と言われるよりは、
「あなたに書いてもらえて良かった」と言ってもらえるときの方が嬉しい。

いつしか吃りは消えた。

聞くことにも書くことにもテクニカルには段々と習熟していく(たぶん)。

上手で流暢でつまらない文章を書かないように気をつけよう。

—–
“どもりはあともどりではない。前進だ。”
武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』, 1971年, 新潮社
IMG_2678