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四次元ことばブログ

辞書と言葉に関するあれこれを、思いつくままに書き記しておくことにしました。

辞書に「主観」は不要……でも、そもそも「主観」って何?

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海くん「僕たちって矛盾した存在ですよね」

 

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ヒロシ「ああ。語釈に個人的な感情はいりません。しかし」

 

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泉くん「客観的すぎても個性がなくなっちゃう」

 

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リン太「一体どうすりゃいいんだ!」*1

 

一体どうすりゃいいんでしょうか。

 

私事が多忙でえらく久々の更新になってしまいました。忘年会の幹事なんてするもんじゃありません。

 

さて、今回はいつもと趣向を変えて、アニメ『舟を編む』の第7話「信頼」の超人気ミニコーナー「おしえて!じしょたんず!!」で、辞書のみなさんが頭を悩ませていた、辞書における「個人的な感情」と「客観」の問題について掘り下げてみたいと思います。

 

正直なところ、私の手に余る議題なので、なんとなく問題提起で終わってしまったような感がありますが、ご勘弁を。

 

さて、彼らの議論で前提となっているのは

辞書は矛盾した存在である。なぜなら、語釈に個人的な感情は不要である一方、客観的すぎると個性がなくなるからである。

ということのようです。言い換えると、「語釈に個人的な感情を書かなければ辞書は個性的でなくなってしまうが、語釈に個人的な感情を書いてはいけない」ことが、矛盾と感じられているわけですね。

 

大前提となっているのは「辞書は個性的であるべき」ということですが、この是非はここでは論じず受け入れるとして、先の前提はまず

・辞書に個人的な感情は不要か

・辞書は客観的すぎると個性がなくなるか

の2点にわけて考えることができます。

 

辞書に個人的な感情は不要か

かの有名な『新明解国語辞典』(以下、新明国)初版の序文を見てみます(太字は筆者。以下同じ)。

 

辞書は、引き写しの結果ではなく、用例蒐集と思索の産物でなければならぬ。尊厳な人間が一個の人格として扱われるごとく、須らく、一冊の辞書には編者独特の持ち味が なんらかの意味で滲み出なければならぬものと思う。〔中略〕しかしながら、一面から言えば、思索の結果は主観に堕しやすい

 

ここでは「主観」という言葉が使われていますが、「個人的な感情」と読み替えても大意は変わらないものと思います。じしょたんずも、「個人的な感情」と対になる概念として「客観」を挙げていますので、ひとまず「個人的な感情」=「主観」と理解していいでしょう。

 

新明国にとって、主観は「堕す」先であり、好ましくないことなのですね。

 

研究者の間にも「意味といふ観察不可能に近いものを、主観による内省などのあやふやな方法で記述したのでは、正確さが保証出来ない*2という主張があるようだと、『岩波国語辞典』の編者としても知られる水谷静夫は指摘しています*3

 

辞書における「主観」とは何か

辞書における「主観」「客観」の議論でこじれるのが、そもそも「主観」とは何か、という定義の問題です。

 

実は(ということもないでしょうか)、序文で「主観」を否定した新明国は、皮肉なことにしばしば「主観的である」という評価がなされています。新明国にとってはまったく不本意なことでしょう。同情します。

 

たとえば書評サイト「HONZ」代表などを務める成毛眞氏は、新明国について「[桜]には〈一面に美しく咲く〉と、あえて『美しい』という主観的な言葉が使われている」*4と評しています。

 

佐々木健一『辞書になった男』は、新明国の食べ物の語釈に「美味」「おいしい」などとあるのを並べ立て、「グルメレポートさながらの主観解説が綴られている」*5と書きます。

 

「美しい」「おいしい」など、価値判断が伴う記述が「個人的な感情」=「主観」だとみなされているようですね。

 

しかし、価値判断が伴う記述だからといって、主観と決めつけてよいのでしょうか。いろいろな考え方がありますので安易に結論を出すのは避けますが、私自身は今のところそうは思っていません。

 

新明国は、最新第7版で「主観」をこのように語釈しています。

 

しゅ かん【主観】(一)物事を考える われわれの心の働き。「自然は―を離れて存在する」↔客観(二)自分ひとりの(かたよった)考え。「―を捨てる」「―を交えないで(…する)」

 

ここでいう「主観」は(二)の意味ですね。新明国の語釈では丸括弧内は省いて読んでもよいという決まりなので、「自分ひとりの考え。もしくは、自分ひとりのかたよった考え」というふうに読み下せます。「桜が美しいというのは主観ではない。だって、誰もが桜を美しいと思っているのだから、自分ひとりの考えではないだろう」という声が聞こえてきそうです。

 

もし、「誰もが桜を美しいと思っている」というのが根拠のない決めつけならば、「桜」の語釈に「美しい」と書くのは「主観」と言っていいでしょう。しかし、日本人が桜を美しいものととらえ、「桜」という言葉にそういったイメージが共有されているとすれば、これは「主観」ではないと考えられるように思います。これは、「私は桜なんて美しくないと思う」という個人がいることとは別問題です。

 

「美しい」「美味」などといった表現があるからといって、即「主観的だ」と言うのは、ちょっとやめておいたほうがいいかもしれません。「主観」は「堕す」先であると考えている新明国がこういった表現を用いているということに冷静に目を向ける必要がありそうです。

 

新明国だけが「主観的」なのか

「主観」が何なのかは一旦置いておくとしましょう。少なくとも、文化的に共有されていない本当の個人的な感情を語釈に記す必要はないというのは確かだと思われます。

 

さて、新明国は「桜」に「美しい」、食べ物には「美味」と書き、「主観的だ」と言われることが多いというのは先に述べました。しかし、これらは新明国だけの特徴なのでしょうか。

 

食べ物の語釈に「美味」とあるのは新明国に限ったことではないというのは、このブログでも述べてきました。西練馬氏の報告によれば、『新潮現代国語辞典』『岩波国語辞典』『集英社国語辞典』などは、新明国と同等かそれ以上に食べ物をうまいなどと説明しています*6

 

「桜」の美しさに関してはどうでしょうか。現在も流通している主な小型辞書11種で「桜」の項を引き、価値判断の有無をリストアップしてみました。

 

辞書名 価値判断の有無 抜粋
岩波国語辞典第7版新版 美しい花が咲く
旺文社国語辞典第11版 ×  
学研現代新国語辞典改訂第5版 散りぎわの美しいことから
現代国語例解辞典第5版 美しい五弁花で
三省堂現代新国語辞典第5版 ×  
三省堂国語辞典第7版 一面に美しくひらき
集英社国語辞典第3版 ×  
新選国語辞典第9版 ×  
新潮現代国語辞典第2版 美しい花が多数咲く
新明解国語辞典第7版 一面に美しく咲く
明鏡国語辞典第2版 ×  

 

この中では、半数の辞書が「桜」に「美しい」と書いています。これもやはり、「美味」問題同様、新明国独特の特徴とは言いにくそうです。

 

こうして見ても、「桜が美しいかどうかなんて新明国の主観じゃん」というより、「桜というのは、美しい花を咲かせるものと広く共有されているのだな」と理解するほうがすんなりいく気がします(もっとも、これは鶏が先か卵が先かになってしまいますので、本当にそう言えるかは慎重に検証せねばなりません)。

 

辞書は客観的すぎると個性がなくなるか

じしょたんずは「客観的すぎても個性がなくなっちゃう」と愚痴をこぼしていました。そうでしょうか。

 

私はそう思いません。既存の辞書が、すでにわりあい客観的で、じゅうぶん個性的に思えるからです……なんて言っても全く論証になっていませんな。

 

まず、辞書が個性的であるという事実は、辞書ファンにはよく知られています。サンキュータツオ氏の『国語辞典の遊び方』*7では、現行のさまざまな国語辞書が擬人化され、辞書はみな個性にあふれているのだということが楽しく紹介されています。東京カルチャーカルチャーで開催されたイベント「国語辞典ナイト!」「真昼の国語辞典ナイト2」でも、複数の辞書の引き比べを通じて、それぞれの特徴の違いを理解しようという試みがなされています。

 

この個性のもとになっているものが「主観」なのかどうかが問題です。

 

「真昼の国語辞典ナイト2」に参加した毎日新聞の校閲者は、同社のブログで「辞書も人が作る以上、どれだけ客観性の追求を試みようとしても、主観性を排除しようと努めても、そこには何らかの個性がうまれます」と記しています*8。主観性が個性を生んでいるとも解釈できる文ですが、正確な意図はいまひとつわかりません。

 

似たようなことを、『三省堂国語辞典』の編者である飯間浩明先生がインタビューで答えていました。あるいは、先のブログは、この発言を意識しての記述かとも思われます。

 

「いいですか、これは強調しておきますけどね、客観的な記述を心がけていたとしても、編纂者の人生経験や思想、考えていることなどが自ずとにじみ出てくるものなんです。主観的な記述だから表れてくるんじゃない。客観的な記述を試みていても、出てきてしまうものなんです」*9

 

ここでも「主観が個性を生む」と明言されているわけではありません。また、「客観的な記述を心がけていても、主観的になることがある」と言っているわけでもありません。あくまで「編纂者の人生経験や思想、考えていることなどがにじみ出る」のであって、これは客観性と両立し得ます

 

では、客観的な辞書のどこに個性が表れるのか。典型的には、情報の取捨選択でしょう。

 

一例を挙げます。現在のほとんどの辞書は、見出しで和語と漢語を区別できるようにはなっていません。一方、『新潮現代国語辞典』『新選国語辞典』は、かなやフォントによってこれらの見分けがつくようになっています。これは立派な個性ですが、ある語が和語か漢語かというのは客観的に判断できることです。アクセントの情報がある辞書もあります。これも個性ですが、主観とは関係ありません。

 

もっと大きな編集の方針に個性が出ることもあります。たとえば、『三省堂国語辞典』が新語の立項に積極的だという個性を備えていることはよく知られています。11月に発売されたばかりの『現代国語例解辞典』第5版は、コーパスを全面的に活用して手入れがなされたと謳われています。実例を反映した客観主義ということができますが、コーパスを用いた改訂は実に個性的であります。

 

……このまま書き続けると、各辞書の特徴の紹介に突入してしまいそうです。かくも辞書は個性にあふれているのです。

 

‪上記のような編集方針をとった結果、辞書全体に「編纂者の人生経験や思想、考えていることなどがにじみ出てくる」とも言えるでしょう。語釈の本文に編者の思想が反映されることもありましょうが、それは客観的な事実の中からどの情報を書き、どの情報を省くかという考え方によっても表れ出るのであり、必ずしも主観的になることを意味しません。‬

 

客観的すぎると個性がなくなるという心配はしなくてもよさそうです。

 

よかったね、じしょたんず!

 

まとめ

・辞書の語釈に個人的な感情(主観)は不要である。
・『新明解国語辞典』はしばしば語釈が主観的だと言われるが、食べ物に「美味」と書くことや、「桜」に「美しい」と書くことは他の辞書もやっている。
・そもそも、辞書の語釈における「美味」「美しい」などの表現は、必ずしも「主観」とは言えないのではないか。
・辞書が客観的でも、個性は生まれる。

 

*1:以上の画像はアニメ『舟を編む』第7話「信頼」よりキャプチャ。舟を編むAmazonビデオ-プライム・ビデオで https://www.amazon.co.jp/茫洋/dp/B01MEDFUNK/ref=sr_1_1?s=instant-video&ie=UTF8&qid=1476365243&sr=1-1&keywords=舟を編む+アニメ 2016年12月7日閲覧

*2:水谷静夫(1961)「語釈 本格的辞書の論の前座」,国語学会編『国語学』第47集,武蔵野書院 p.22

*3:水谷が主観を排除すべきと主張しているのではありません。念の為。

*4:成毛眞(2015)『教養は「辞典」で磨け ネットではできない「知の技法」』光文社 p.25

*5:佐々木健一(2014)『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』文藝春秋 p.34

*6:西練馬(2016)『グルメな辞書』lexicography101

*7:サンキュータツオ(2013)『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』角川学芸出版

*8:辞書の多様性と面白さを再認識した「真昼の国語辞典ナイト2」 | 毎日ことば http://www.mainichi-kotoba.jp/2016/01/event.html 平成28年12月7日閲覧

*9:前掲・佐々木 p.62