これまで放送された『NHK大河ドラマ真田丸』では、当主と嫡男という関係にもかかわらず、やる事なす事全てにおいて、ことごとく真田昌幸は信幸の逆の選択をし、それをユーモラスに描いています。
脚本を担当した三谷幸喜さんがこのようなドラマ展開にしたのには訳があるはずです。
このように記しただけで、恐らく多くの真田ファンには歴史上あまりに有名なエピソードを思い浮かべるはずです。
そうです、『犬伏の別れ』ですよね。
『犬伏の別れ』については、いずれドラマの中で描かれるはずですが、簡単に説明します。
慶長5年(1600)6月、 この時 天下は豊臣秀吉によって統一されていましたが、当の秀吉は既に病死し、2代目当主:秀頼の代となっていました。
しかし秀頼はまだ幼く、秀吉の遺言により豊臣家の後見は五大老と五奉行にゆだねられていましたが、五奉行筆頭の前田利家が病死すると、五大老筆頭の徳川家康が実質的な実権を握っていました。 家康は秀吉の死後、豊臣家重臣の七将と次々に姻戚関係を結ぶという秀吉の遺命に背く行為を繰り返したため、五奉行筆頭の前田利家が主となって罪を問う使者を送るなど、家康の台頭を抑制していました。ところが、利家が病死しると、再び豊臣政権内での家康の実権が増大します。 かねてより家康と対立関係にあった五奉行の一人である石田三成と上杉家の家老:直江兼次は、懇意にあったこともあり、上杉は家康の台頭に強い警戒感を持っていました。
そのため上杉景勝は、秀吉の死後、領内諸城の補修を命じ、鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命じます。 これに対し家康は、城の補修や築城の理由を申し開きするよう景勝に対して上洛を命じますが、
何度要請しても応じません。
そこで家康は、上杉のこうした動きを「豊臣家に弓引くもの」として、秀頼の許しを得て上杉家討伐へと動きます。
上杉家討伐の号令は諸将に伝達され、
真田昌幸・幸村は上田城から出陣し、既に本多忠勝の娘を正室に迎えていた信之(信幸改め)は沼田城から出陣し、会津討伐軍に加わります。
昌幸・幸村が下野犬伏(栃木県佐野市)に到着したとき、石田三成の密使が三成の書状を持って現れます。
その書状には、家康の罪状を列挙し家康こそが豊臣家にとって「獅子身中の虫」であること、その家康を討つために挙兵したこと、幸村の岳父・大谷吉継も三成の味方となっていることなどが書かれていました。
これを読んだ昌幸は先行していた信之を犬伏に呼び寄せ、人払いをして今後のことについて父子3人で談合したとされます。
談合は長時間に及び、心配になった家臣が様子をうかがいに来たところ、昌幸は「誰も来るなと言うたではないか!」と履物を投げつけ、顔に履物が当たったその家臣は前歯が折れてしまったといいます。
この場にいたのは3人のみで、その実際の会話内容は不明ですが、関連書籍によると書状を見せられた信之は「真田家は徳川家に特別に恩を受けているわけではないが、ここまで従って来ながら背くのは不義ではないか」と言ったと書かれているそうです。
対して昌幸は「豊臣家・徳川家どちらの恩を受けたわけでもないが、このような時に大望を遂げようと思うのが武士だ」と言ったそうです。
結局信之はそのまま会津討伐に従軍し、昌幸・幸村は三成へ味方するとの返書を使者に渡して犬伏を離れ上田へ帰ります。
父弟と別れた信之は、秀忠本陣に駆けつけ、昌幸・幸村が離反したことと自分には異心はなくこのまま従軍することを告げたのです。
数日後に到着した家康は信之の父弟を敵にまわしてまでの忠誠を賞し、父の領地信濃小県郡(長野県上田市・小県郡)を信之に与えるとの安堵状を与えます。
(一言:昌幸・幸村と、信幸の別れと共に、信幸が昌幸らの離反を報告することで、親子3人が進むべき道を思いのままに貫くことができると同時に、信幸の家康に対する忠誠を家康は必ず評価し、重用するであろうことも、比類なき策士である昌幸は、想定していたのかもしれません。だとすれば、この時点で、真田は家康に勝利していたことになります。)
以上のような真田親子の『犬伏の別れ』については、真田信幸が昌幸・幸村と行動を共にしなかった理由や、経緯について今なお諸説の議論があります。
そのため、三谷幸喜さんは、これまで放送されたドラマの中で、昌幸・幸村と、信之の別れは必然だったという伏線を象徴的に示すため、昌幸はやる事なす事全てにおいて、ことごとく信幸の逆の選択をする親子として描いているのでしょう。
はなっから昌幸と信幸は、親子でありながら反りが合わず、信幸の昌幸に対する不信感は、長きにわたって蓄積して行った。そしてその思いが、親子の別れへとつながったと。
昌幸の言動に戸惑う信幸