障がい児の母って満足に働けないって現実をご存知ですか?



 世界には、いえ日本の中にだって・・・福祉が進んだ地域があるでしょう。
 高齢者も障がい者も暮らしやすい地域もあるでしょう。
 でも、私が住んでいる地域は兵庫県の東播地域なのですが、弱者は生きていきにくい地域です。
 弱者だと思っていなかった厚かましい私も、さすがに『もしかして私達って社会的弱者?』と思わざるを得ないほど、福祉後進地域なのです。
 しかも、誰もそのことを自覚していない。
 役人も、地域も、当事者も。

 ぶっちゃけ、障がい児の母親って働けません!!
 私って若いころ!?凄く真面目に勉強したほうだと思いますし、子供を授かるまで、そして授かってからもいろいろな職場で経験を積ませていただいたと思いますし、いわゆる国家資格もたくさん持っていますが、それでも満足に働けない、働く場がない、時間が確保できない。
 それが現実です。
 全部、条件を呑んであげるから・・・と理解があるフリをされて、2年半働いた介護福祉に携わる職場から、ある日突然掌を返され、『公私混同している』という理由で退職に追い込まれました。
 ある程度の公私の混同は呑むって言ったじゃない・・・。
 事情は解っているって言ったじゃない。
 だから激安給料で、恐ろしいほどの管理職の重責を背負って、私だって公私もなく24時間携帯電話を持って働ける時間はすべて使って働いたじゃない。
 それでも、不当解雇に近い形で退職したこともあります。
 世の中、やっぱりこんなもんですか〜と人間不信になり絶望しましたね。(ブログ参照^^)

 児童に関して言えば、障がい者福祉が遅れていても、児童福祉や学校教育が充実していれば救える部分は多いのです。
 高齢者に関して言えば、高齢者福祉が遅れていても、生活福祉が充実していれば救える部分が多いのです。
 介護福祉が補う部分、地域による施策が補う部分、何かしらで救える人はいいのです。
 そこから『スコン!』と抜け落ちてしまった人たちが何故か!?いるのです。
 何故抜け落ちたのか・・・。何故救う手立てがないのか・・・?理由は不明。
 誰もが見ないフリしてきたのか、当事者が泣き寝入りしてきたのか・・・???

・障害者自立支援法による居宅介護支援や地域生活支援事業が児童に対して希薄。
・児童福祉法による保育対策が希薄。
・学校教育法による児童クラブ(学童保育)対策が希薄。
・少子化対策が希薄。

 ここに、『ひとりの身体知的複合障がい児』を育てている母から、世の中の”常識的な!?”方々はこういうことを思っているのかな〜と思うことを列挙させていただこうと思います。
 (以下、あくまでもアンジェルマン症候群のなっちの母の私見です。病気によっても障がいによっても環境因子によっても予後によってもまったく違う見解になると思いますので、あくまでも私見ということでご容赦のほど)

@『障がい児』の育児だって同じ育児でしょ?子供が小さいうちは誰だって手がかかるでしょ?だから取り立てて『障がい者』のための福祉サービスを使わなくていいじゃない。

《私見》
 障がい児も児童福祉の中に入れてもらえれば・・・ね。
 障がい児は保育園にも入れないことが多いし、学童保育にも通えない。
 障がい児にとっての夏休みってナニモノだと思います?せっかく学校で身につけさせていただいた生活習慣を乱すだけの無用の長物。どこかに通える場がないと、お母さんと二人で家で過ごすことになりストレスがたまる子も多いって知っていますか?
 障がい児の放課後って母親にべったりするしかないって事、知ってますか?もしくはテレビ・ビデオ漬け。
 目が離せない子って実は、手がかかる子と同じくらい手間がかかります。
 また、障がい児であるがゆえに、大きくなったって手がかからなくなる日は来ないから、そして親は先に死ぬのだから、できるだけ早期から他者援助を受け慣れてもらいたいという親の切なる願いもあります。
 それが、福祉サービスを児童のうちから利用して『他者援助を受けながら自立して欲しい』と願う親心です。
 これは、いずれ自分で人生の選択をして、自分の事をちゃんと自分で決定して、自立していける健常児との大きな違いです。
A『障がい児』を生んで手がかかるっていいながら何故働くことを考えたりするの?

《私見》
 働くっていうことは、日本国憲法における基本的人権だということをちゃんと知っていて欲しいのです。(基本的人権の社会権の中に、勤労の権利・労働基本権というのがあります。)
 『母親が働かない選択』は自由だけれども『働けない』ことはおかしいことなのだとちゃんとわかって欲しいのです。
 社会参加や世の中のために何かしたいと思うことは、自己実現の欲求です。
 人間が生きていくうえで大切な欲求のひとつです。
 それに、障害者福祉も年金制度も雇用問題も何もかも将来がまったく見えない中で、できるだけ遺してやりたいと思ったり、今できることを十分してやりたいと思ったときに必要なのは、資本主義社会ではやっぱりお金じゃないですか?
 『働きたい』と思うことは『悪』ではないはずです。
 また、@でも述べたように、親が抱え込むことで自立できない子供にしたくないのです。
 うまく自立できないかもしれない子を遺して、いずれ先に逝くことをいつも考えているのが障がい児の親なんです。
 
B『障がい児』を持ったら(そしてその本人も)不幸で気の毒。できないこともいっぱいあるから大変。

《私見》
 大変なのは事実です。手間がかかります。目が離せません。
 でも、不幸でも気の毒でもないケースが多いのも事実です。
 事実、私たち、不幸だと思っていません。世の中の殆どの方々が体験できない幸せを味わえるのです。
 できないことがいっぱいあるのも確かに事実。
 でも、『できない』のはおかしいと思っています。皆さんにできることの殆どは、障がい者本人もその家族も保障される必要があると思います。
 そのために社会福祉があると思っています。
 できないことが当たり前にできる世の中になって欲しいと願うがゆえに闘っている人がたくさんいるのも事実です。
C『障がい児』のお母さんっていつもニコニコしてて明るい人が多いよね。そういう人のところを選んで子供が生まれてくるのでしょうね。

《私見》
 何度もそう言われたことがあります。子供が親を選んで生まれてきたと。
 そうかもしれないけど・・・実際のところは誰にもわからない^^;
 ただ、ひとつ言えるのは、障がい児を育てている親は、ショック期→否認・孤立→怒り→取引→抑うつ→受容に至るどこかしらで「こどもは親の優しい笑顔が大好きなんだ」ということにあるとき突然気づくのです。
 だから、傍から見ればノーテンキなくらいに明るく笑顔な人が多いです。
 なっちのような知的障がい児はピュアな子が多いのです。妬みも企みもないことが多い。だから、たとえ自分(親)が辛くてもそのピュアなハートに同じように辛い思いをさせる権利はないということをちゃんと知っているのです。
 でも、障がい児だから、自分の気持ちを上手に伝えられず、親がアンテナを張っている事しか彼らの気持ちを察することができないからこのことに早く気づくだけです。きっと健常児もお母さんの優しい笑顔が好きに決まってます。
 障がい児だから子供の気持ちが解らなくて、健常児だから解るなんて・・・変です。誰の気持ちも自分と違う人格なんだから・・・解る訳ないのです。解らないから『解りたい』と思うのです。
 ハンディがあるがゆえに、少しでもできたことを誉めてやりたい、少しでも幸せでいてもらいたいと思うから『笑顔が多くなる』。この理論、間違ってないと思うのですが。
Dおじいちゃんおばあちゃんの手を借りて育児ができないの?

《私見》
 できる場合もあります。むしろ祖父母っていうのは何とかして娘や息子夫婦の役に立てないか・・・とやきもきしているものだと思います。障がい児は無理でも、その子にきょうだい児がいたら、そのきょうだい児を過保護極まりない方法で必死に面倒見ようとしたりもします。
 でも、現実には、身体障がい児であっても、知的障がい児であっても、かなり専門的な知識や常識を度外視したものの考え方が必要になってくることが多いのです。
 なっちは高体温になってしまうから着せないで!と言っても重ね着させられていたり、食べ物の食べ方や順番にこだわったり^^;
 汚物で遊んだり、水風呂に入ったり、平気で下に落ちたものを口に入れたりしようもんなら気になって仕方がないものです。
 祖父母っていう世代には受け入れがたい『現実』が多いのもまた事実。
 また、祖父母っていうのは孫を自分の目の前で転ばせることができません。
 危険な目に遭わせることは絶対にあってはならないと思い込んでいます。(もちろん親だってできれば危険な目には遭わせたくはないですが^^;)
 その状況下で、子供が危険な目に遭いそうになったとき、必ず自分の身体を盾にしてでも守ろうとします。その結果待っているのは祖父母の入院です(>_<)
 そのまま転んでいたら、子供は打撲で済んだかもしれなくても、祖父母たちは骨折します。
 親のように手を抜くこともできませんから頑張りすぎて病気にもなります。
 そうなったら、その老人の世話もしなければならなくなるのです。
 だから、障がい児育児の手助けが祖父母であることは、いいことばかりじゃないのです・・・。
Eまず、家族が頑張って当たり前。自分たちだけで頑張っている家族は偉い。

《私見》
 そもそもこれが『社会悪』ではないかとさえ思います。
 親が、家族が抱え込んでどうするのでしょう?
 子供が自立できるっていうことのために必死になってこそ本当の親です、福祉です。
 家族だけで、親だけで、どうやって支えられるというのでしょう?
 しかもこの『社会悪』は世の中全体に対して同じように思っている嫌いがあります。
 自分の健常な子供は、家族だけで大きくしているのでしょうか?
 税金を使わず、迷惑をかけず、自分の子供を大きくしたと本当に思っている人がいたらどうしてそう思うのか教えて欲しい。
F子供を人に預けて働くなんて可哀想なこと。

《私見》
 可哀想だと思う人はその思いに忠実な行動をとればいいと思うのです。
 可哀想だと思いながら、その意に反して子供を預けてまで働くというのは、逆にストレスを生むと思うからです。
 そのストレスは、絶対に子供に伝わってしまいます。
 でも、私は少なくとも、@Aでも述べているように、子供の自立を長い目で見るとき、健常児も障がい児も、小さなときからお友達や愛してくださる方々と共に生きることを可哀想だと思っていません。
 どちらにせよ、それぞれいろんな人のいろんな考え方がある、ということを人間同士尊重する必要があり、自分の価値観だけが正しいのではないと自覚する必要があると思うのですがいかがでしょうか?
G人に迷惑をかけないように生きていくのが素晴らしいこと。

《私見》
 この世の中にそんな人がいたらお目にかかりたい。
 誰もが一人では生きられないはず。
 故意に迷惑をかけることはいけないことだと思うけれど、かけてしまってもいい迷惑ってあると思うし、それは仕方ない。
 そのために人間はみな、認め合い許し合う必要があるのです。
 お互い様、次は自分がどなたかのために・・・なんて巡り巡っているはずです。
 障がい児のなっちは人に迷惑だけをかけているのでしょうか?その親の私たちは、兄のりゅうは迷惑かけているだけの存在でしょうか?
 彼女の屈託のない、嫉妬も企みもない美しい笑顔に癒された人がこれまでに何人いたでしょう?健常児が努力しなくても獲得していくことを、何年もかけて訓練して獲得しなければならないなっちが、それでも笑顔で楽しんでいる姿に学んだ人もいたでしょう。
 普段はおちゃらけて、時に偉そうで、落ち着きのないマイペースな子だけれど、さりげない優しさが当たり前に示せるりゅうに『あ、こういうのが本当の優しさなんだ』って教わったお友達もいるかもしれません。
 私たちだって、こういう生活をしているからこそ抱ける思いがある。気づける痛みがある。
 優しさは巡っていく・・・。必ず生きたように死ぬのです。
 だから、誰にも迷惑をかけずに生きる必要なんて、地球上の動物にはないと思っています。
H困った子は育て方の問題?

 大人から見て『困った子』は実は『自分がどうしたらいいかわからなくて困っている子』なのではないでしょうか?
 家庭環境的に?社会的に?ハンディや病気を背負ったがゆえに?その理由はさまざまでしょうが、困った行動しかできない子はきっと何かに困っているのだと思うのです。
 育て方だけじゃないと思います。
 こんな複雑な社会状況の中で、その理由も多様化していると思います。

 でも、私たち夫婦は、なっちのような障害児を包み込んで共に生きてくれる次代を担う子供たち、世の中のどの子に対しても限りない愛おしさを感じます。
 彼ら、彼女らにとっても幸せな未来であって欲しいと願ってやみません。
 心の奥底にしか本音がなくて、親でさえ気づかないその子の本質が時に私たちには見えることがあります。
 気が強くて、言葉もきつくて、意地悪で・・・地域のお母様方から末恐ろしいとさえ言われていたの女の子(健常児)の心の中に、実は深い淋しさや悲しみがあるのではないかな?と思ったとき、『あなたは美人だし笑顔がとっても素敵。いい子だよ、大切な子だよ、おばちゃん大好きだよ。そのままで十分素敵な子だよ』って伝えたくなります。
 そんな支えはさりげなくでいいのです。親にお礼を言ってもらったり、誰かに気づいてもらうためのものではありません。
 何かをしてあげる、なんていうのは傲慢だと思います。
 気づいてもらうため、お礼を言ってもらうために何かをしているとしたら愚かなことです。
 人の幸せを心から願うということは・・・そういうことではないでしょうか・・・?
 多様な要因で『困っている子』にそっと手を差し延べ、心を寄り添わせ、その子が見ているものと同じものを見ようとすることが、今の私たちには大切なのではないでしょうか?
I子育て中に気分転換やレスパイトなんて親のエゴ?

《私見》
 これもエゴだと思うならやめたほうがいい・・・^^;
 子供が健常児でも、『お母さんには休みがない』なんて思っている方、多いですよね?
 基本的に、日本人は真面目なので、『お母さんには休みがない』ということを当たり前だと思っていたりしませんか?
 その結果、今、大家族でもなくなってしまった日本の世の中で何が起こっているのでしょう?
 虐待やネグレクト、子供を愛せない親がいたり、自分の思うとおりじゃない子供を受け入れられない親がいませんか?
 それって『お母さんに休みがないから』じゃないのでしょうか?
 欧米のように、子供をシッターさんに預けても夫婦でデートしたり、自分の人生をきちんと楽しんで活き活きと生きる必要ってあるのではないかしら?
 私は、大変なことから少しでも逃避(という言葉が適当かどうかはわかりませんが)できる環境って必要だと思います。
 人間、全部抱え込んで頑張って何かいいことが起こります?
 むしろ、頑張ってない人を非難したり、自分はこんなにしているのに!という妬みや攻撃心しか生まれません。
 そんな心の余裕のなさからは本当の優しさや冷静な気持ちは生まれません。
 逃避して、気分を変えたり、少し自分の心の洗濯をして、また元気に笑顔でいられるんだとしたら、逃避大賛成。レスパイトも大賛成。
 そのために施設に預けたりするわけですから障がい児には少し淋しい思いをさせるかもしれない・・・。でも次に会ったときにはしっかりとホンネで愛しいと抱きしめることができるのだとしたら、余裕をなくした親に自分の感情で怒られたり当たられたり虐待されたりするよりはるかに幸せな子供だと・・・思いませんか?


 こんなふうにいろんなことを思うとき、こんな考え方の中に『障がい児のお母さんが働くなんておかしいよ』っていうメッセージがあるような気がします。
 《私見》はそれに挑まざるを得ない私の私見です(^^ゞ
 障害者自立支援法の中に『親の就労支援』を目的とした施策は皆無です。
 親が働くためにはヘルパーさんも使えません。デイサービスも日中一時支援もまったく足りません。
 障がい児の母親って・・・働くことを世の中に否定され、基本的人権を侵されているのです。