当時、音楽活動を支えるための生計はどうやって立てていたんですか?
いろんなアルバイトをやりましたね。居酒屋、コンビニエンスストア、ビデオショップ、引っ越し屋さん。中でもゴンドラに乗って窓ガラスを拭くビルの清掃は4~5年やりました。危険な仕事なのでわりと収入も良かったし、音楽活動を優先したシフトも組めたんです。NHKホールの窓を拭いたこともありましたね。なので、NHKホールのステージに立った時は感動しました(笑)。
その頃の心の支えというと?
ビートルズみたいな曲を作りたいとか、ストーンズみたいなアンサンブルに近づきたいとか、そういう音楽への憧れが当時の暮らしを支えるぐらいの力になってました。
そこからだんだんお客さんがライブに来てくれるようになって、「馬場さん、次のライブは友だちを連れてくるからよろしく」なんて言われると、せっかく連れてきてくれた友だちの反応が、「そうでもないな」ってことになったら気まずいしショックだと思うんで、よし、顔をつぶさないようにがんばろうと思うんです(笑)。そういうことが意外とやりがいにつながったりするんですよ。大きな志以上に、そういう確実に温度感のある小さな存在は、具体的な力となって前に向かわせてくれるんですよね。
やりがいとは逆に当時悩んでいたことは?
例えば、洋楽のカバーとか人の曲を歌うとすごい上手なんだけど、オリジナルを歌うとちょっとそこが発揮出来ないミュージシャンもいる(一同苦笑)。それって、クリエイターとしての自分とパフォーマーとしての自分が合ってないってことなんですよね。
もともと僕は西城秀樹のような歌手になりたかったけど、実際の自分はそうじゃない。お客さんの思う自分と自分が思う自分もそれぞれ違うし、時代ごとのポジションというものもある。自分の思った通りの自分らしさだけでは進めないということを認めるのは難しかったですね。ミュージシャンの友人や同世代でデビューした方を見てると、みんなそこで苦しんでますよね。そこで出口がなくなって、活動を継続していくメンタルが保てなくなってくる。才能も大事だけど、そこのギャップが我慢出来るかどうかも大事だなと思います。僕もデビューした頃は、「なんでわかってくれないんだ!」という思いでいっぱいでした。表現っていうものは難しいんだなって、悩みながらやってきましたし、今でも悩みます。
でもどんな時も、コンサートでお客さんとひとつになれたなって思えたり、自分でも発散出来たなと思えたらそこでチャラになると言うか。ここ(コンサート)がちゃんと出来ていれば他は関係ないなと思えるんです。