紀陽銀行×FM802 The DREAM BANK PROJECT

そもそも馬場さんが音楽に関心を持たれたきっかけは何だったんでしょうか?

小学校の頃、ラジオやテレビの音楽系のランキング番組が好きだったんです。
歌謡曲でもロックでも何でも好きだったんですが、聞くだけじゃなくて、3才上の音楽好きの兄がギターを持ってたんで、それを弾きながら自分でも歌うようになったのがきっかけですね。

ミュージシャンを目指したのはいつ頃?

中3で野球部を引退した頃ですね。最初は野球選手になりたかったんですけど、とにかく当時は音楽に触れるのが楽しくて、歌を作り始めたのもその頃でした。
高校生になっていろんなコンテストに参加するようになったんですが、わりと審査の成績が良かったんで、自分はプロになるんだと思い込んでました(笑)。
東京に出て来て都内のライブハウスに出るようになったんですが……そこからは長かったですね(苦笑)。

馬場俊英さん

当時、音楽活動を支えるための生計はどうやって立てていたんですか?

いろんなアルバイトをやりましたね。居酒屋、コンビニエンスストア、ビデオショップ、引っ越し屋さん。中でもゴンドラに乗って窓ガラスを拭くビルの清掃は4~5年やりました。危険な仕事なのでわりと収入も良かったし、音楽活動を優先したシフトも組めたんです。NHKホールの窓を拭いたこともありましたね。なので、NHKホールのステージに立った時は感動しました(笑)。

その頃の心の支えというと?

ビートルズみたいな曲を作りたいとか、ストーンズみたいなアンサンブルに近づきたいとか、そういう音楽への憧れが当時の暮らしを支えるぐらいの力になってました。
そこからだんだんお客さんがライブに来てくれるようになって、「馬場さん、次のライブは友だちを連れてくるからよろしく」なんて言われると、せっかく連れてきてくれた友だちの反応が、「そうでもないな」ってことになったら気まずいしショックだと思うんで、よし、顔をつぶさないようにがんばろうと思うんです(笑)。そういうことが意外とやりがいにつながったりするんですよ。大きな志以上に、そういう確実に温度感のある小さな存在は、具体的な力となって前に向かわせてくれるんですよね。

やりがいとは逆に当時悩んでいたことは?

例えば、洋楽のカバーとか人の曲を歌うとすごい上手なんだけど、オリジナルを歌うとちょっとそこが発揮出来ないミュージシャンもいる(一同苦笑)。それって、クリエイターとしての自分とパフォーマーとしての自分が合ってないってことなんですよね。
もともと僕は西城秀樹のような歌手になりたかったけど、実際の自分はそうじゃない。お客さんの思う自分と自分が思う自分もそれぞれ違うし、時代ごとのポジションというものもある。自分の思った通りの自分らしさだけでは進めないということを認めるのは難しかったですね。ミュージシャンの友人や同世代でデビューした方を見てると、みんなそこで苦しんでますよね。そこで出口がなくなって、活動を継続していくメンタルが保てなくなってくる。才能も大事だけど、そこのギャップが我慢出来るかどうかも大事だなと思います。僕もデビューした頃は、「なんでわかってくれないんだ!」という思いでいっぱいでした。表現っていうものは難しいんだなって、悩みながらやってきましたし、今でも悩みます。
でもどんな時も、コンサートでお客さんとひとつになれたなって思えたり、自分でも発散出来たなと思えたらそこでチャラになると言うか。ここ(コンサート)がちゃんと出来ていれば他は関係ないなと思えるんです。

馬場俊英さん

20代後半でデビュー後、30代の数年間はインディーズで活動されてましたよね。

客観的に見れば不遇の時代と言えるのかもしれないけど、その時の出会いや人脈や経験はものすごく大きくて。
CDを作るということに関してもいろいろ勉強しました。単純にプレスすることから、ラジオ番組でCDをかけてもらったり、CDショップに商品を並べてもらうにはどうすればいいのかとか。
以前は、取材してもらったり、ラジオで曲がかかるのは当然だと思ってたんです。でもいざ自分で受注書をもってCDショップを回ってみると、なかなか相手にしてもらえない(苦笑)。僕自身、それまでにアルバムを何枚か出してきたという自負もあって、自分を支えてきたものは何だったんだろうと落ち込みました。
でもそんな中にも応援してくださる方はいて、50軒の中で1人ぐらいは歓迎してくれて。そういう人が1人でもいるとがんばれるんですよ。大阪でもFM802のDJ、ヒロ寺平さんだけが全国で唯一、インディーズでの最初の曲「フクロウの唄」をラジオでかけてくれたんです。あれは感動しましたね。

一見、不遇に思える日々の中でも、得るものや学ぶものはたくさんある。

弱ってる時って人とか状況のせいにしちゃうんですよね。
でも誰に頼まれたわけでもなく、音楽をやりたいのは僕自身。改めてそれがわかったからこそ今も音楽を続けられているし、いざとなったら自分1人でやりますという覚悟もある。これからの時代はとくに、音楽業界のシステムがわかっていないと翻弄されると思うんです。だから、必ずしも望まない日々が訪れてもそこに何を見いだすかが大事。どんな経験も、それを生かすも殺すも自分次第、なんですよね。

馬場俊英さん

そういった経験の中で、馬場さん御自身が「夢を実現できた」と実感できた瞬間は?

30代後半に、7thアルバム『人生という名の列車』(2006年)と、8thアルバム『青春映画が好きだった』(2007年)を作った時は、30代で作りたいと思っていた世界観が作れたなと納得出来ました。ただいつも自分ではどこか半信半疑というか、どれほどのことが出来ているのかという気持ちもあるんです。その意味ではお客さんの存在はすごく大きい。
今、全国を回ってるんですけど(*現在、デビューを20周年を記念した全国47都道府県縦断ツアー「BABA TOSHIHIDE 20TH ANNIVERSARY LIVE TOUR 2015『ARIGATO ~君は48番目の街~』開催中)、自分が思う以上の価値を僕の音楽の中に見いだして喜んでくださる方がいるのを見ると、やってて良かったなと思います。

では、これからの「夢」というと?

20周年を記念したセルフカバー・アコースティックアルバム「屋根裏部屋の歌 ~ ACOUSTIC SELF COVER COLLECTION」に収録した曲は、お客さんというか、長く時間をかけてコンサートで必要とされてきた曲ばかりなんです。20代、30代、40代といろんな方に支えられて来ましたけど、とくにお客さんが一生懸命盛り上げてくれたので、これからは僕が音楽で貢献したいというか。
今、FM COCOLOのイベント「風のハミング」の準備中なんですが、ファンの方がほんとに楽しみにしてくれているんです。大げさかもしれないけど、そういう時間って人生の宝物だと思うんです。なのでそういう、自分もお客さんも楽しめるような時間を増やしていくのが音楽活動の中での目標というか、これからの夢ですね。

馬場俊英さん

最後に、今、自分の夢を実現しようとがんばっている方々にぜひエールをお願いします。

月並みですが、「失敗したって何てことはない」。
人生は野球のようにトーナメント戦じゃなく、リーグ戦のようなもの。一回ダメになったらそこで台無しになるんじゃなく、一生懸命やっていればまた次のゲームが待っているから心配しなくていい。全勝しようとするからしんどくなるのであって、またやり直せばいいんです。
そんなことを言ってた出来の悪い先輩がいたなぁって(笑)、思ってもらえればなと思います。

馬場俊英さん