「1人でも多くの人に喜ばれたい」

西城秀樹

2006.09.21 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
これまでとまったく違う新しい、ヒデキの1曲

ヒデキは3年2カ月ぶりにシングルをリリースする。カナダ人ピアニスト、アンドレ・ギャニオンの曲にオリジナル詞をつけたものだ。

一期一会とは、まず、この曲に対する思いである。

「7年前からライブでは歌ってて、いい曲だとは思ってたけど、新曲としてレコーディングするつもりはなかったんです。でも病気した後、一期一会を大事にしようと思うようになって。そんなときにふと聴いてみたら、いまの自分の気持ちとジャストフィットした。“新曲を出さなくちゃ!”なんて思いはまったくなくて、“いま歌いたいのはこの曲なんだ!”っていう、すごく自然な流れだった」

流れが自然に生まれるまで、たまたま3年2カ月かかったのだという。そもそもそれまで、曲を出したい気持ちはなかった。この曲との“再会”がヒデキの再スタートにつながったわけだ。

「レコーディングのときも、正直、クリエイティブなことはまったく考えてなくて。ついでに言うならビジネスの意識もまったくなかった。もう単純に歌っててすごく気持ちいいと思ったし、自分自身が癒されたんです。もちろん、自分のためだけじゃなくて…」

この曲が、ひとつの楽曲に付随するさまざまな要素を差し置いて、それまであまり強く意識することのなかった部分を見せてくれた。

30年以上のキャリアを持ちながら囚われてしまった“何でおれは歌うんだろう”という問いにも答えを与えてくれた。それは…。

「自分はメッセンジャーだということ。今は嘘っぽい時代じゃないから、見せ掛けだけのことなんてやってもしょうがない。すごくシンプルなんですが、ぼくが歌うことで、1人でも多くの人に喜んでもらえたらな、って」

さて、冒頭からヒデキが口にし続けているにもかかわらず、ずっとさらりと流してきたキーワードが文中にある。

病気。

もちろん知っている人もいるだろうが、3年前の6月、西城秀樹は脳梗塞で倒れたのだ。

病気を経て実感したいまは人生の後半

「かきくけこ」と「らりるれろ」が言えなかったという。歌い手としては致命的な、言語障害という後遺症。

顔の筋肉を動かすトレーニングをし、発声練習をし、タバコをやめ、1日3リットルの水を摂取してリハビリに努めた。目の前で語るヒデキは、なにひとつ遜色がない。ここで取り上げたいのは、闘病記ではなく、“その後”。

「ライフワークを意識するようになりました。死を迎えるまで、残された時間をすごくステキに生きたいという願い。前は正直なところ、こんなふうに考えてしまうこともありました。たとえば東京から沖縄に仕事で行く…“ああ疲れたな、でもとりあえずやるか”。それが今は違う。“せっかくここまで来たんだから楽しんでもらおう”。ちゃんと足もとを見つめて、しっかりとした足取りでの一期一会の人生を送りたくなっちゃったんです」

気負いはない。まるで、身にまとった普段着のように語る。

「ここまで流されてきたつもりはもちろんないんですよ。夢を持って、みんなに喜んでもらおうと思ってやってきた。でもやっぱり忘れてきちゃう部分はあるんですよね。実際、いい時期に病気したのかもしれません。年齢を積み重ねて、人はどうして生きて死んでいくのかとか考え始めてたから」

現在51歳、人生の後半戦。でも数年前まで前半だったらしい。病気前まで。

「ぼくは10代から40代までどうすれば成功するかという道を見てきました。でもそれでは成功できないことを実感したんです。大切なのは成功への道を歩くことではなく、もっと大きなものを目指すこと。自分のカラーをきちんと作り出して、自信を持ってそれをやり続けること。認められるか否かは別で、いかに自分で納得できているか」

それはサラリーマンだって同じことだとヒデキは言う。

「会社に自分がいる意味があるという自信を持つためには、みんなに喜んでもらえるには何をすればいいかを考えること。上司が違うっていっても“こうだと思う”という自分の意見を持てるのが理想ですよね。他人に喜ばれるというポジションに立つのは難しい。好きなものならまだしも、みんな必ずしも好きなことを仕事にしているわけではないですよね。だから、とにかく人に必要とされることを意識する」

こういう発言も“他人に喜んでもらおう”という精神の表れ。いまのように無心な状態は、デビューのとき以来だとヒデキは笑った。

いろんな起伏の末に。無駄は何ひとつない

34年前、西城秀樹は「ワイルドな17歳」だった。デビュー当時のキャッチフレーズだ。広島から単身上京。「情熱の嵐」「激しい恋」「傷だらけのローラ」など、おなじみの名曲たちはデビュー後1~2年でリリースされている。

「まだ五感も発達してないし、策略とかクリエイティブとか何もなかったですね。好きでやっていた。そしてみんなに喜んでもらいたいだけ」

郷ひろみ、野口五郎とともに“新・御三家”と呼ばれ、まさにここから日本のアイドル・カルチャーが急激に発展していくことになるのだが、「ぼくは洋楽小僧でした。デビュー前からドラムとギターをやってたんで、ミュージシャンの考え方だったんですね」。

芸能界の申し子かと思いきや、真逆なのであった。日本のポップスを作ってきた自負がある。エルヴィス、ロッド・スチュワート、ジェームス・ブラウンなどから“カッコイイもの”を貪欲に取り入れてきた。

このページの写真はヒデキが25歳のときのジャケット写真である。

「当時の芸能界は完全に“カワイイ路線”が中心でした。でも、納得いかなくて、人に反対されたことを全部やってきました。やんちゃでアウトローな子どもだったからね。“ホントはこういう世界が好きなヤツ多いんだぜ!”なんて言って。とくにライブ。せめてライブではと思ってはじけてましたね」

中央が80年、後楽園でのライブレコードの写真だ。ソフトカーリーがワイルド! アルミのマイクスタンドはロッドに倣い、シルバーのジャンプスーツはクイーン御用達のショップにオーダーしたものだという。

「ちょうどこのとき、雷雨でね。マイクからびりびりびりびり感電しながら歌ってました。本当に“死んでもかまわない”って思いながらやってました」

好きで、無心で始めた音楽の仕事も、徐々にヒット志向になる。音楽を取り巻くビジネスの部分がコアを侵食することにもなる。本人にも物欲が生まれ、我が強く出始めることになる。これらの負の要素をヒデキはあっさり認める。

「そんなにおれは優等生で生きてこられなかったから。そういういろんな起伏があって今の自分があると思うんです。1コ山を越えるとものの見え方が変わる。わがままも言ったけど、勉強もしました。やりたかったからだけどね。ただ、自分がやりたいことを自覚し始めたのは30歳ぐらいから。それまではわかんない世界でしたから。やりたいことがちゃんとできるようになったのは、本当に最近です。時間はかかりましたね」

ヒデキは言う。音楽的に遅れた国がJポップを生み出す過程で忘れたもの、ヒデキ自身がキャリアの中で突っ走って置き去りにしたものがあった、と。

「それを取り戻したと思う。前とは違ってぼくは年を重ねているし、いい形で自分の中で消化された状態でいるときに、今回の曲と出合ったんです」

新曲のタイトルは「めぐり逢い」。両A面のカップリング曲は「Same Old Story~男の生き様~」である…。

1955年4月13日広島市生まれ。小学生のころよりドラムを学び、5年生でエレキバンドを結成。高校時代ジャズ喫茶に出演中をスカウトされ、単身上京。72年「恋する季節」でデビュー。翌年には5枚目のシングル「情熱の嵐」が初のベストテン入り。74年には映画『愛と誠』に主演、日本音楽史上初めてのスタジアムコンサートを実現。ドラマ『寺内貫太郎一家』出演など、活動の幅を広げる。79年には「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が初のミリオンヒットに。日本のみならずアジア全域で押しも押されもせぬ大スターに。今回リリースのニューシングルはなんと通算86枚目

■編集後記

20歳の夏にリリースされた「至上の愛」ではアイドル史上初の喫煙姿でジャケを飾ったやんちゃなアウトローも、デビュー8年目の1980年には25歳。文中で触れたヒデキ初期スタンダード・ナンバーに加え、前年にはあの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が大ヒット。アイドルの枠を超えた大スターになっていた。この年のリリースでは「サンタマリアの祈り」(本文中写真参照)で非アイドル的行為発覚。花束に隠された口元は、ヒゲぼーぼーだったりするのである。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA

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