空海のタントラ「仏教」とチベット(14)090329 [ 空海のタントラ「仏教」とチベット ]
1.河口慧海和尚(*1)は黄檗宗(*2)の「五百羅漢寺」(*3)の住職だったが、古いお経がチベットにあると聞き、何としても日本にもたらそうと考えた。現代の三蔵法師である。こうして鎖国政策を続けていたチベットに対する初の日本人の入国者となった
(*1:1866-1945。
*2:禅宗の1派。臨済宗の1つに分類されるが、弥勒信仰が強く・念仏禅で知られる。
*3:現在は浄土宗系で東京都目黒区にある。河口和尚の頃までは東京都江東区の本所に在った)。
帰国後、1904年に刊行したのが「西蔵旅行記」である(現在は「チベット旅行記」)。これを読むと色々面白いことが分かる。河口和尚は人格高潔な方で、書かれていることの真実性は疑えない。病気のチベット人の治療をしたのが切っ掛けで、名医として有名になり、患者が続々と押し寄せた。遂には当時のダライ・ラマ13世とも仲良くなり、国の重鎮の方々と友達になり、様々なこの国の事実を知るようになった。
実に面白くて為になる本であり、ご覧になることをお勧めする。内容を全部紹介しては読書の楽しみを奪うことになるのでそれはしないが、今回記事・及び当HPの姉妹編「安岡HP」の
「歴史」分野
で、幾つかご紹介する予定である。
1.さて、今回紹介することは次のようなことである。
「薬といえば、チベットには奇妙な薬がある。・・それは法王とか第二の法王とかの大便を乾かして、いろいろな薬の粉を混ぜ、それを法王あるいは高等ラーマの小便でこねて丸薬にこしらえ、その上を金箔で包むとか赤く塗るとかして、これにツア・チェン・ノルプー(宝玉)という奇態な名をつけ、薬に用いております。・・たとえそれで死んでも、「まことにありがたいことだ、ともかく宝玉を飲んで死んだのだから、あの人もさだめて極楽に行かれるだろう」と言って、誉れのように思っております。しかし、宝玉がこういう材料でできているなどということは、一般人民はほとんど知らず、法王が秘密の法でこしらえたごくありがたいものであると思っているのです。それを知っているのは、宮廷に出入りする官吏官僧その他事情に通じている人だけです」(参考文献p.247)。
と言う訳で麻原彰晃と同じレベルだが、上が上だから下もそうなり、次のように描かれている。チベットでは禿鷲に食わせる「鳥葬」(風葬)と言うものを行っている。これは木が少ないから火葬が出来ず、川に流すと伝染病の危険があるなどの風土的理由があるが、「インド哲学の説明」で万物は「地・水・火・風」で出来ているとし、人々が「地」が最低のもので「風」を最上のものと考えており、従って土葬にすると土に返り、風葬にすると千の風になれると思っている。こうして人々は土葬を忌み嫌っていると言う。
「僧侶はたいていみな鳥に食わせる。私が送っていった葬儀もこの鳥葬です。・・そこが墓場で、墓場のぐるりの山の上あるいは巌の尖端には、恐ろしい目つきをした大きな禿鷲がたくさんいて、死骸を運んでくるのを待っているのです。
まずその死骸の布片を取って巌の上に置き、坊さんが太鼓を叩き鉦を鳴らしてお経を読みかけると、一人の男が大きな刀で死骸の腹を截ち割り、腸を出してしまう。それから首、両手、両足と順々に切り落としてみな別々になると、僧侶もまじったそれを取り扱う多くの人たちが、肉は肉、骨は骨で切り離してしまう。すると峰の上あるいは巌のさきにいる坊主鷲はだんだん下のほうにおりてきて、その墓場の近所に集まってきます。まず最初に太腿のあたりのよい肉をやりますと、たくさんな鷲がみな舞いおりてくる。・・頭蓋骨から脳味噌もいっしょにこまかく叩き砕いて、麦こがし粉を少し入れ、ごたまぜにした団子のようなものをこしらえて鳥にやると、残るのはただ髪の毛だけです。・・
骨を砕くといっても中々暇のかかるものですから、やはりそのあいだに麦こがし粉も食わなければならん。ところが彼らは死骸の脳味噌や肉のはし切れのたくさんついている汚い手を洗いもせず、じかに麦こがし粉をつかんで自分の椀のなかに入れ、その手でこねるのです。だから手についている肉や脳味噌が麦こがし粉といっしょになってしまうけれど、平気で食っている・・。・・
「・・手を一度洗ったらどうか」と言いましたら、
「そんな気の弱いことで坊主の役目がつとまるものか」という挨拶。「実はこれがうまいのだ、汚いなんてきらわずに、こうして食ってやれば、仏も大いに喜ぶのだ」と・・」(同p.244-246)。
そこでこうした風潮が更に下に伝わって、
「チベット人にはじつに不潔な習慣があることで、私のいる家には下僕が二十人ばかりもいますが、その下僕が毎朝チベット茶を持ってくる。その茶碗は宵に飲みほしたままで、「これは前夜あなたがあがったのですから、ごく清浄です」と言う。ほかの下等な種族が飲んだ茶碗であれば、不清浄として洗わなければならないけれど、自分の飲んだものおよび自分と同等の種族の飲んだのは清浄であるといって、けっして洗わんのです。しかしバターの滓がたくさん付いているなどは、見るからにイヤですから、「それをちょっとふいてくれないか」と言うと、「よろしゅうございます」と自分の鼻汁をふいた長い筒袖の先で茶碗をふいて「まことに清浄になりました」といって茶を注ぐ」(同p.222-223)。
中国駐日大使館HPによると、「チベット自治区主席が北京で記者会見、最近の状況説明」(2008/04/09)をした。それによると、「チベットの平均寿命は解放当初の35・5歳から現在は67歳に延びた」という。
つまり、現在のダライ・ラマ14世がチベットを支配していた1959年以前はチベット人の平均寿命は36才だったと言われているのである。これほど寿命が短かったのは以上のような原因があると思われる。
参考文献:
「ノンフィクション全集4」(河口慧海著・河口正編-等/1973/筑摩書房)
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