世の中には、時間の無い人に本のあらすじをかいつまんで紹介する本がいくつかある。
『絵とあらすじで読む源氏物語』
『あらすじで読む 日本と世界の名作文学40選』
『あらすじで読む日本の古典』
。。。
あるいは、重要箇所や見せ場だけをピックアップしたダイジェスト版、抄本というのがある。確かに便利だと思うが、ダイジェストというのは重要でないと判断された部分は載せられていないということだ。ここで問題なのは、必要でない、重要でないとは誰が判断するのか、ということである。
たとえば、友人、家族でバイキング料理を食べにいったとしよう。皆が銘々に好みの料理を取るから、食卓に戻った時に、誰一人として同じ内容の皿はないであろう。つまり、各人が美味しいと思う料理の判断が異なる訳である。誰かが、栄養バランスを考えるとこの方がよい、とアドバイスしても一般論としては正しいかもしれないが、それでは皆の皿が全く同じになってしまう。人はそれぞれの体調や食習慣に応じて必要とする栄養素が異なり、それを補給しようとその栄養素が入った食品を皿に盛るのではないかとも考えられる。
これと同様、本に関しても、自分が必要、重要と思っている箇所の選択は他人とは当然のことながら異なる。他人からすれば不必要な箇所と思われても、本人にとっては重要だという箇所がある。それは、その本に何を求めているか、という背景、問題意識が異なるからだ。
確かに薄い本であれば、重要な箇所は限られているので、誰がダイジェスト版を作っても似たりよったりになるだろう。しかし、数百ページにもわたる分厚い本では内容が多岐にわたるので、人によって感銘を受けるところや重要と思われる箇所はかなり異なる。
その意味で、逆説的になるが分厚い本こそダイジェスト版でなく、全体を読んで自分自身で重要箇所を見つけることが重要である、と私は考える。本を読むという行為は、試験勉強のように、他人がお膳立てしたダイジェスト版で手っ取り早く重要箇所をもれなく分ればよい、というような安直な効率主義はいけない。あくまでも自分自身の興味本位に徹し、自分が本当に知りたいことを探し出すという主体的行為であるべきだ。
【出典】The Kali Gandaki Gorge from north
一例として河口慧海『チベット旅行記』(全5冊、講談社学術文庫)を取り上げてみよう。
河口慧海(1866 - 1945)は江戸末年に、大阪は堺に生まれた黄檗宗の僧である。日本にある漢訳の仏教経典には不明瞭な箇所があることに不満をもち、質・量ともに優れているチベットの仏教経典を入手するため 1900年7月に鎖国状態のチベットに潜入した。チベット語をほぼ完璧に読み書きできたため、チベット人として暮らしていたが日本人だとばれて1902年5月に脱出した。その脱出劇はまるでスパイ映画もどきのスリル満点で、『セイロン島誌』(平凡社・東洋文庫)の著者、ロバート・ノックスのセイロン島(スリランカ)脱出劇と好一対をなす。
さて、河口はチベット人の暮らしぶりを細部にわたり観察する機会をえた。尾籠な話で恐縮だが、彼らの排便の様子や、街中に糞便が至る所に捨てられている様子、さらには犯罪者処罰の方法の様子が次のように活写されている。
====================================
【2】P.163 彼らは大便に行っても決して尻を拭わない。。。上は法王より下は羊追いに至るまでみなその通りですから。
【2】P.165 (娘は)垢で埋もれて真っ黒けになって白いところは眼だけである。手先でもどこでもが垢でもって黒光りに光っている。
【3】P.140 (重犯者の多くは)手首切断の刑にかかってしまう。。。最も多いのが眼の球を抉り抜かれた乞食、それから耳剃の刑と鼻剃の刑。。。
【3】P.151 (チベット法王の)大小便ともに天下の必要物である。その大便は乾かしていろいろな薬の粉を混ぜて。。。薬に用い。。。
【3】P.165 (ラサ市内)町の真ん中に深い溝が掘ってある。その溝にはラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが大小便を垂れ流すという始末で、その臭いことと言ったら堪らんです。
【3】P.166 屎尿が沢山ある道の傍に井戸があってその井戸から水を汲み出して呑むという。
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現在、世界ではチベットというと中国から過酷な人権弾圧を受け、またダライラマ14世が数十年にわたって亡命を余儀なくされている可哀想な国であるという認識が一般的であろう。とりわけ、ダライラマ14世が英語で直接、情報発信をするため、全世界的にチベットは何か崇高で神秘的な国(Secret Tibet)のように見られている感がする。しかし、河口が書いているようにウンチの後で尻を拭かないというのは、人間がサルから分かれた時の行動パターンをそのまま200万年近くも保ち、つい100年ぐらい前までチベットではそのように生活をしていたのだ。また、チベットでの犯罪者に対する処罰の過酷さ(手首切断、眼球抉り)は日本の比ではないことが分かる。これらの記述によって、ダライラマの演説からは分らないチベットの伝統的な別の面も知ることができる。
河口慧海『チベット旅行記』のダイジェスト版はいくつかあるそうだが、果たしてこのような内容が書かれているのだろうか?
【参照ブログ】
【麻生川語録・13】『名のみ高くして読まれざる書を読む』
百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』
『絵とあらすじで読む源氏物語』
『あらすじで読む 日本と世界の名作文学40選』
『あらすじで読む日本の古典』
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あるいは、重要箇所や見せ場だけをピックアップしたダイジェスト版、抄本というのがある。確かに便利だと思うが、ダイジェストというのは重要でないと判断された部分は載せられていないということだ。ここで問題なのは、必要でない、重要でないとは誰が判断するのか、ということである。
たとえば、友人、家族でバイキング料理を食べにいったとしよう。皆が銘々に好みの料理を取るから、食卓に戻った時に、誰一人として同じ内容の皿はないであろう。つまり、各人が美味しいと思う料理の判断が異なる訳である。誰かが、栄養バランスを考えるとこの方がよい、とアドバイスしても一般論としては正しいかもしれないが、それでは皆の皿が全く同じになってしまう。人はそれぞれの体調や食習慣に応じて必要とする栄養素が異なり、それを補給しようとその栄養素が入った食品を皿に盛るのではないかとも考えられる。
これと同様、本に関しても、自分が必要、重要と思っている箇所の選択は他人とは当然のことながら異なる。他人からすれば不必要な箇所と思われても、本人にとっては重要だという箇所がある。それは、その本に何を求めているか、という背景、問題意識が異なるからだ。
確かに薄い本であれば、重要な箇所は限られているので、誰がダイジェスト版を作っても似たりよったりになるだろう。しかし、数百ページにもわたる分厚い本では内容が多岐にわたるので、人によって感銘を受けるところや重要と思われる箇所はかなり異なる。
その意味で、逆説的になるが分厚い本こそダイジェスト版でなく、全体を読んで自分自身で重要箇所を見つけることが重要である、と私は考える。本を読むという行為は、試験勉強のように、他人がお膳立てしたダイジェスト版で手っ取り早く重要箇所をもれなく分ればよい、というような安直な効率主義はいけない。あくまでも自分自身の興味本位に徹し、自分が本当に知りたいことを探し出すという主体的行為であるべきだ。
【出典】The Kali Gandaki Gorge from north
一例として河口慧海『チベット旅行記』(全5冊、講談社学術文庫)を取り上げてみよう。
河口慧海(1866 - 1945)は江戸末年に、大阪は堺に生まれた黄檗宗の僧である。日本にある漢訳の仏教経典には不明瞭な箇所があることに不満をもち、質・量ともに優れているチベットの仏教経典を入手するため 1900年7月に鎖国状態のチベットに潜入した。チベット語をほぼ完璧に読み書きできたため、チベット人として暮らしていたが日本人だとばれて1902年5月に脱出した。その脱出劇はまるでスパイ映画もどきのスリル満点で、『セイロン島誌』(平凡社・東洋文庫)の著者、ロバート・ノックスのセイロン島(スリランカ)脱出劇と好一対をなす。
さて、河口はチベット人の暮らしぶりを細部にわたり観察する機会をえた。尾籠な話で恐縮だが、彼らの排便の様子や、街中に糞便が至る所に捨てられている様子、さらには犯罪者処罰の方法の様子が次のように活写されている。
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【2】P.163 彼らは大便に行っても決して尻を拭わない。。。上は法王より下は羊追いに至るまでみなその通りですから。
【2】P.165 (娘は)垢で埋もれて真っ黒けになって白いところは眼だけである。手先でもどこでもが垢でもって黒光りに光っている。
【3】P.140 (重犯者の多くは)手首切断の刑にかかってしまう。。。最も多いのが眼の球を抉り抜かれた乞食、それから耳剃の刑と鼻剃の刑。。。
【3】P.151 (チベット法王の)大小便ともに天下の必要物である。その大便は乾かしていろいろな薬の粉を混ぜて。。。薬に用い。。。
【3】P.165 (ラサ市内)町の真ん中に深い溝が掘ってある。その溝にはラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが大小便を垂れ流すという始末で、その臭いことと言ったら堪らんです。
【3】P.166 屎尿が沢山ある道の傍に井戸があってその井戸から水を汲み出して呑むという。
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現在、世界ではチベットというと中国から過酷な人権弾圧を受け、またダライラマ14世が数十年にわたって亡命を余儀なくされている可哀想な国であるという認識が一般的であろう。とりわけ、ダライラマ14世が英語で直接、情報発信をするため、全世界的にチベットは何か崇高で神秘的な国(Secret Tibet)のように見られている感がする。しかし、河口が書いているようにウンチの後で尻を拭かないというのは、人間がサルから分かれた時の行動パターンをそのまま200万年近くも保ち、つい100年ぐらい前までチベットではそのように生活をしていたのだ。また、チベットでの犯罪者に対する処罰の過酷さ(手首切断、眼球抉り)は日本の比ではないことが分かる。これらの記述によって、ダライラマの演説からは分らないチベットの伝統的な別の面も知ることができる。
河口慧海『チベット旅行記』のダイジェスト版はいくつかあるそうだが、果たしてこのような内容が書かれているのだろうか?
【参照ブログ】
【麻生川語録・13】『名のみ高くして読まれざる書を読む』
百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』