Latest Entries
「消去」することの多義性について――トーマス・ベルンハルト『消去』
しばしば、トーマス・ベルンハルトの作家活動の集大成とも呼ばれる長篇小説『消去』は、全体として、「電報」と「遺書」の二章よりなっている。
各章には全く改行が存在せず全体としてひとかたまりのパラグラフをなしており、また、「電報」は主人公が両親と兄の死を知らせる電報を受け取ること、「遺書」はその葬儀のために故郷であるヴォルフスエックを訪れること……というように、現在時の出来事として語られるのは、ごく短期間のわずかなことでしかない。全体として、主人公の親族及び故郷に関する軋轢と憎悪の感情が過去の回想とともに奔流のごとく饒舌に語られることにより、この長大な小説を構成している。
『消去』の語りは、主人公であるムーラウの視点にほぼ完全に寄り添っている……しかし、ムーラウの発する「私」という一人称は地の文そのものではなく、ムーラウの発話はあくまでも小説の話者によって引用されたものであることがたびたび示される。小説の本文そのものを統御している話者は、まず間違いなく、さらに後年のムーラウ自身であることだ。にもかかわらず、話者としてのムーラウと主人公としてのムーラウの間には、厳密に断層が引かれることにによって、作品全体の語りが構成されているわけだ。
また、特に「電報」においては、ムーラウが家庭教師として教えているガンベッティが、多くの発話の呼びかけられる対象であることが示されていることも重要である。
そんな特徴を持つ『消去』の本文は、例えば次のように書かれている。
政府は日々私の大事なものを飲み込んでは破壊するとてつもない破砕機を動かしている。故郷の町は見る影もない、と私は言った。故郷の風景は広範囲にわたって、みすぼらしいものにされてしまった。もっとも美しい地域が、新しい野蛮人の金銭欲と権力欲の犠牲になった。美しい巨木が立っていたところでも、その木が切り倒され、壮大な古い建物が立っていたところでは、その建物は取り壊され、素晴らしい小川が谷に流れ込んでいたところでは、その小川がずたずたにされる。いったいどうして、すべての美しいものが踏み躙られてしまうのか。そしていっさいは、社会主義の美名のもと、想像しうるかぎりもっとも下劣な偽善のもとに行なわれているのだ。少しでも文化の匂いのするものはいかがわしいもの扱いをされ、問い詰められやがて消去されるのだ。消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている。私たちが相手にしているのは、消去する者にして殺戮する者であり、彼らは至るところで殺戮の仕事を遂行している。消去する者と殺戮する者は、町を殺して、消去し、風景を殺して、消去する。彼らは、国家の至るところにある何千、何十万という役所の中にでっぷり太った尻をおろしており、消去することと殺戮することしか頭になく、ノイジードラーゼーとボーデンゼーの間にあるすべてをどうやったら完全に消去し、殺戮しつくせるかということしか考えていない。(『消去』、池田信雄訳、旧版・上巻p80)
「消去」とは、ムーラウが憎悪し嫌悪する者どもが、ムーラウが愛し思い入れを持つ対象に対して行なうことのようである。しかしそれと同時に、『消去』という題名の書物を書く計画を立てているムーラウは、ガンベッティに次のように語りもする。
スケッチだけでは十分ではないのだ、と私はガンベッティに言った。私の頭に最終的に残っている唯一のものは、と私はガンベッティに言った、「消去」というタイトルだ。というのも私の報告は、そこに描写されたものを消去するために書かれるからだ。私がヴォルフスエックという名で理解しているすべて、ヴォルフスエックであるすべて、ガンベッティ君、私の言っていることが分かるかね、本当にそして実際にすべてを消去するために書くのだ。この報告の後には、ヴォルフスエックであるものすべてが消去されていなければならない。私の報告は消去以外の何ものでもないのだ、と私はガンベッティに言った。私の報告はヴォルフスエックをあっさり消去する。私は十一時までポポロ広場にガンベッティといっしょに座っていた、と私は机の上の写真を眺めながら思った。私たちはみなヴォルフスエックを引き擦っている。そして自らの救済のためにそれを消去したい、書くことによって滅ぼしたい否定したいという意志をもっている。しかし、私たちがその消去のための力を持ち合わせないときがほとんどなのだ。(同、上巻p144)
私はこの報告を「消去」と名づけるつもりだ、と私はガンベッティに言った。それは私がこの報告の中ですべてを消去するつもりだからだ。私が書き留めることはすべて消去される。私の家族全員がこの中で消去され、彼らの時間もこの中で消去される。ヴォルフスエックは私の報告の中で、私のやり方で消去されるのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p145)
……以上いくつかの引用を照らし合わせてみる限り、もちろん、ムーラウの発言は非常に混乱したものだ。ムーラウは故郷を破壊する者を憎悪しているのか、それとも、故郷そのものを憎悪しているのか。「消去」という行為自体は、肯定されるべきものなのか、それとも否定されるべきものなのか。それは意志的に望まれ選択された行為なのか、それとも、致し方なしに選択された行為なのか。さらには、「政府による消去」と「書くことによる消去」とは、果たして同じものなのか。
もちろん、このような記述の混乱は、一人の人間が持ちうるその内面の矛盾し混沌とした有様をそのまま散文の形に移したことによって生じている者だ。そして、そこにある混乱、正反対であるはずにもかかわらず実際には入り交じり明確な境界も見極め難い愛憎……それら全てを克明に認識し記述した上で、それでもなおその抹消を望むからこそ、「消去」という行為が選ばれることになるのだろう。
ムーラウは、自らの言う「消去」について、ガンベッティに次のように語っている。
私が彼に、どうやったら私の言う意味で世界を変えることができるかを話すと、ガンベッティの注意と熱狂はどんどん大きくなった。それにはまず世界を全面的かつ過激に「破壊」し、無に至らしめるまでに「否定」し、それから自分に耐えられると思える仕方で再生させること、一言で言えば、完全な新世界として再生させることだ。それがどのようなかたちで起こるかは言えないが、再生されるのはまず完全に否定することが必要だということは分かっている。というのも、世界の完全な否定なしに世界の刷新はありえないからだ。(同、上巻p151)
もちろん、私たちがそう考えれば、すべての古いものは私たちに敵対するようになる。つまり私たちはすべてを敵に回すことになるのだ、ガンベッティ君、と私は彼に言った。だからと言って、古いものを私たちの望む新しいものに取り換えるために滅ぼそうという私たちの考えが妨げられるようなことになってはならない。すべてを放棄するのだ、と私はガンベッティに言った。すべてに反発し最終的にはすべてを消去するのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p154)
……なるほど、いざ『消去』の全篇を読み終えてみると、その結末部分でムーラウがなしたとある行為は、確かに、ヴォルフスエックに対する「消去」とも言える行為であるようにみえる。だがそれは、既に引用した部分で言われているような「世界の完全な否定」からはあまりにもかけ離れている。
ムーラウが述べる「消去」と、実際になす「消去」の間には、巨大な懸隔があるーーだが、それ以上に、ここにはより本質的な問題がある。……もし世界の完全な絶滅、その消去を願っているのであれば、なぜムーラウは、自分の考えを詳細にガンベッティに語り伝え、自身の言葉を残そうとする必要があるのか。ガンベッティという人物はと言えば、そもそもがムーラウの教え子なのであり、ムーラウが自身の後継者として育てたがっている節すらある。
全世界の完全な消滅を願う人間が、自身の後継者の育成に励む……これは、あまりにもあからさまな矛盾ではないか?
とはいえ、『消去』でひたすら繰り広げられるムーラウの饒舌な言葉は、自身の言葉に潜む矛盾や自己欺瞞についてすら、なんら隠すことなく語ってみせる。……そこには、例えば、次のような言葉が見られるのだ。
私たちが憎むのはもっぱら私たちが間違ったことをしているときであり、間違ったことをしているからだ。母はいやな人間だ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけは静めなければならなかった。家族の者たちも、私が彼らにしたように、私をけなし、私を晒しものにし、私を性悪に仕立てればいいのだ、実際、私はいつのまにか彼らを性悪にしてしまったのだが、と私はガンベッティに言った。私たち人間は簡単にそしてすぐに、憎んだり、非難したりすることに慣れてしまう。自分の憎しみと非難に、そのとき、ほんのわずかでも正当性があるのかと問うこともしない。(同、上巻p74)
私たちはみな悪魔的本性の持ち主だが、その正体は写真コレクションのような、どうでもいいくだらないものの中に現れる。私たちの下劣さ、卑しさ、厚かましさが、そういうくだらないものによって証明されるのだ。なにもかも私たちの弱さに原因がある。というのも私たちは誠実であるなら、自分より弱いと見たがっている相手より実際はずっと弱く、自分よりおかしいと見たがっている相手よりずっとおかしく、滑稽で、無節操な存在だということを認めざるをえないからである。「私たち」こそ、無節操で、おかしくて、滑稽で、異常な存在であって、ガンベッティ君、相手のほうがそうではないのだ。自分の家の者たちのほかでもないこういう写真だけを保存し、しかもそれをいつでも見ることのできる机の引き出しにし舞うことで、私は自分の卑劣、破廉恥、無節操を証明している。(同、p181)
私たちは時々こんなふうに誇張をはじめるが、と私はだいぶ後でガンベッティに言った、そうなると誇張こそ唯一筋の通った事実に見えてきて、本来の事実はもう全然目に入らず、際限なく繰り返される誇張しか目にとまらなくなる。誇張への熱狂的信奉はいつでも私を癒してくれた、と私はガンベッティに言った。私がこの誇張への熱狂的信奉を誇張の技法に変えてしまったとしたら、それが、私を私の惨めな状況と精神的倦怠から救い出す唯一の方法だったからだ、と私はガンベッティに言った。私は自分こそ私の知るもっとも偉大な誇張芸術家だと言い切れるところまで、誇張の技法を磨き上げた。私は私以外に私のような人間を知らない。いまだかつて誇張の技法をここまで極めた者はいない、と私はガンベッティに言った。そしてそれに続けて、もしいきなり誰かに、私の正体は何なのだと聞かれたら、それに対して、私の知るかぎりもっとも偉大な誇張芸術家だと答えるしかないだろう、と言った。(同、下巻p444~445)
実は、『消去』の作中において、以上のような矛盾した態度にとらわれているのは、ムーラウだけではない。ムーラウと親交のある詩人・マリアもまた、次に引くような態度を見せているのだ。
マリアは私に、「本当はウィーンに戻りたいの」と言ったとしても、その直後の、時には、二、三分も経たないうちに、反対のことを言う。同じくらい確信をこめて「実を言うとウィーンには戻りたくない」と言うのだ、実はローマに残りたい、ローマで死んでもいいくらいに思ってるわ、と。マリアはよく、ローマで死にたいと言った、と私は考えた。マリアはその知性ゆえに、ローマにいること、実際にはウィーンを愛していながらローマにいることを余儀なくされている、と私は考えた。しかしマリアは、住む家の手配をしてくれ、実際、ウィーンの重要な扉をすべて開いてくれたウィーンの知り合い全員にけんつくを食わしてから、二、三週間もすると、ぞろまた、今度こそ最終的に「故郷」であるウィーンに戻るつもりだ、と言いはじめ、それを聞くと私はいつも面と向かって笑うことで話を中断せずにいられなくなるのだ。というのもマリアの口から出る「故郷」という言葉は、私の口から出たのと同じくらいグロテスクに響いたからだ。(中略)ローマ人であろうとしながら同時にウィーン人であるマリアは、こういう危険な感情と精神状態をばねにあの偉大な詩を書くのだ、と私は考えた。(同、p172~173)
……なるほど、ここでのマリアのように平然と矛盾した態度を取ってしまうこと自体は、誰しも多かれ少なかれ犯してしまうことではあるだろう。そして、ムーラウは、そのような矛盾・自己欺瞞、人間の混乱した本質を直視することが、ある種の文学的達成をもたらすと考えているようである。
そして、『消去』に書き込まれた散文、そこに人間の愚かさや欺瞞が混沌としたままに活写されているのに接すると、確かに高度な文学的達成があるのも事実である。……しかし、『消去』の全体を改めて確認した上で、私はこう述べなければならない。……ムーラウの言う「消去」とは、言語そのものの水準においては決してなされていないのだ、と。
『消去』という小説の作中における「消去」という言葉は、様々な水準での様々な意味を同時に担わされているものである。政府による開発・環境破壊の類も「消去」であり、ムーラウが法律上の権利を持ってヴォルフスエックに対してなす行為も「消去」である。
そして、「世界の完全な否定」に向けて「書く」こともまた、「消去」であるとされる……だがこれは、具体的にはいかなることなのか。書くことこそが「消去」であるのだと述べるムーラウは、しかし、実際に行う行為として「消去」を実践するとき、言葉とはほぼ無関係な水準にある、行動の人となる。一方、ムーラウが実際に発する言葉のほとんどは、自らの教え子に語りかけ、自分自身の後継者を育成するという、世界を絶滅させ抹消するなどということとはおよそ対極の水準にあるものだ。
ムーラウは、言葉を発し書く人としての己を最も重要視している一方で、実際に言葉を操る水準においては、なんら「消去」を実行していない。もっと言えば、言語そのものの水準で「消去」がなされるのであれば、語られる対象ではなく、語るための言葉そのものもまた消滅に向かわなければならないはずなのであるが、そのような契機は『消去』という作品には微塵もない。
つまり、ムーラウの散文は、人間が抱え込む愚かさや矛盾や自己欺瞞、そこにある混沌とした有様を直視し散文に写すことに成功してはいるのだが、そこでの検討が、言語そのものの水準での自己言及的な領域にまで到達することは決してない。
……だからこそ、言葉を発する人間としてのムーラウはあらゆる対象の消去を望むと言いながらも、自身の言葉を受け取る存在としてのガンベッティの消滅を望むどころか、そこにガンベッティが不動の存在としてあり続けることを疑うようなそぶりすら見られない。つまり、「語り手としてのムーラウ」と「聞き手としてのガンベッティ」という、作品そのものを構成するフレームは、作品によって自己言及的に反省される対象から無条件に除外されているのである。だからこそ、ムーラウからガンベッティに対して投げかけられた言葉は何ら「消去」されることなどなく、どこまでも饒舌に繁殖し、膨大な量の言葉を内包する長篇小説自体は、安定した語りの構造を備えて自足することになるわけだ。
ムーラウの言葉はなにものも「消去」しないし、それ自体が「消去」されることもない。それこそが、『消去』という小説が抱え込んだ最大の自己欺瞞なのである。
……以上のようなことを別の側面から考えるならば、そこにあるのは、小説を構成する言葉のあり方と、言葉が発せられる元々の起源にある人間の身体とが切り結ぶ関係性との問題であるだろう。
言葉だけを見るならば意味的に矛盾・混乱し、時制の面でも辻褄が合わない……それでもなおそんな言葉の群を一つの作品として構成することができるのは、そもそも矛盾・混乱した言葉が、一人の人間の身体という独立したフレームの内側にも平然と共存しているからだ。
つまり、トーマス・ベルンハルトという小説家は、小説の言葉のあり方が、その言葉を発することになった身体との関係によって規定されるというところにまで、文学的達成を遂げたのである。しかし、そこにある身体というフレームそのものには検討がなされなかったがゆえに、作中に書かれている否定的・破滅的な意味とは裏腹に、長大な作品を平然と書き続けることのできる小説家でありえたわけだ。
例えば、『消去』におけるガンベッティは、ほとんど、ムーラウに呼びかけられムーラウに教えられる対象としてしか存在していない。……だが、ガンベッティがムーラウの言葉を批判的に検討し、時に師の教えを受け入れず時に反論していたら、どうなっていただろう? ……もちろん、『消去』という小説は今ある形では存在しえなかった、言い換えれば、言葉を発する人としてのムーラウの身体が変容する契機があったはずだということだ。
とはいえ、トーマス・ベルンハルトの達成は――ベルンハルトの小説の、ここまで述べてきたような側面での先行者たるルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネとともに――二十世紀の文学理論によっては補足不可能な領域にまで到達したものだったと言える。言葉の表層にあるレトリックが、身体を通した人間の認識と不可分に結びついていることに改めて着目したのは認知言語学であり、これは従来のテクスト論とは根本的に相容れない方向性であるからだ(ついでに言えば、テクスト論は人工知能によって置き換え可能となる可能性があるが、認知能力と結びついたレトリック分析は、完全に人間同様の強い人工知能を搭載したロボットが完成しない限り不可能だろう。そういう意味では、二十一世紀の文学理論はレトリック分析の方向性で発達することはまず間違いないと私は考えているのだが……そうなると、詳細にヴィーコを読み込むところから始めなければならない……ということは、とりあえず二十一世紀も、ジョイスの覇権は生存確定ということにもなるのであった……)。
しかし……ベルンハルトの言う「消去」が、本当に「書くこと」、言葉そのものの水準にまで向けられていたら、どうなっていたのだろうか?
言い換えれば、言葉が担ってしまう否定性までもが突き詰められ、言葉と身体の結びつさえもが解体され、言葉の自壊や身体の変容が実演される水準にまで、文学的追求がなされていたならば?
私が、ベルンハルトの高度な達成を理解しながらも最終的には否定しなければならないのは、ベルンハルトに既に先行する中に、そこまで到達した人々がいたことを知っているからだ。……もちろん、それは、サミュエル・ベケットでありアントナン・アルトーであるのであった。
各章には全く改行が存在せず全体としてひとかたまりのパラグラフをなしており、また、「電報」は主人公が両親と兄の死を知らせる電報を受け取ること、「遺書」はその葬儀のために故郷であるヴォルフスエックを訪れること……というように、現在時の出来事として語られるのは、ごく短期間のわずかなことでしかない。全体として、主人公の親族及び故郷に関する軋轢と憎悪の感情が過去の回想とともに奔流のごとく饒舌に語られることにより、この長大な小説を構成している。
『消去』の語りは、主人公であるムーラウの視点にほぼ完全に寄り添っている……しかし、ムーラウの発する「私」という一人称は地の文そのものではなく、ムーラウの発話はあくまでも小説の話者によって引用されたものであることがたびたび示される。小説の本文そのものを統御している話者は、まず間違いなく、さらに後年のムーラウ自身であることだ。にもかかわらず、話者としてのムーラウと主人公としてのムーラウの間には、厳密に断層が引かれることにによって、作品全体の語りが構成されているわけだ。
また、特に「電報」においては、ムーラウが家庭教師として教えているガンベッティが、多くの発話の呼びかけられる対象であることが示されていることも重要である。
そんな特徴を持つ『消去』の本文は、例えば次のように書かれている。
政府は日々私の大事なものを飲み込んでは破壊するとてつもない破砕機を動かしている。故郷の町は見る影もない、と私は言った。故郷の風景は広範囲にわたって、みすぼらしいものにされてしまった。もっとも美しい地域が、新しい野蛮人の金銭欲と権力欲の犠牲になった。美しい巨木が立っていたところでも、その木が切り倒され、壮大な古い建物が立っていたところでは、その建物は取り壊され、素晴らしい小川が谷に流れ込んでいたところでは、その小川がずたずたにされる。いったいどうして、すべての美しいものが踏み躙られてしまうのか。そしていっさいは、社会主義の美名のもと、想像しうるかぎりもっとも下劣な偽善のもとに行なわれているのだ。少しでも文化の匂いのするものはいかがわしいもの扱いをされ、問い詰められやがて消去されるのだ。消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている。私たちが相手にしているのは、消去する者にして殺戮する者であり、彼らは至るところで殺戮の仕事を遂行している。消去する者と殺戮する者は、町を殺して、消去し、風景を殺して、消去する。彼らは、国家の至るところにある何千、何十万という役所の中にでっぷり太った尻をおろしており、消去することと殺戮することしか頭になく、ノイジードラーゼーとボーデンゼーの間にあるすべてをどうやったら完全に消去し、殺戮しつくせるかということしか考えていない。(『消去』、池田信雄訳、旧版・上巻p80)
「消去」とは、ムーラウが憎悪し嫌悪する者どもが、ムーラウが愛し思い入れを持つ対象に対して行なうことのようである。しかしそれと同時に、『消去』という題名の書物を書く計画を立てているムーラウは、ガンベッティに次のように語りもする。
スケッチだけでは十分ではないのだ、と私はガンベッティに言った。私の頭に最終的に残っている唯一のものは、と私はガンベッティに言った、「消去」というタイトルだ。というのも私の報告は、そこに描写されたものを消去するために書かれるからだ。私がヴォルフスエックという名で理解しているすべて、ヴォルフスエックであるすべて、ガンベッティ君、私の言っていることが分かるかね、本当にそして実際にすべてを消去するために書くのだ。この報告の後には、ヴォルフスエックであるものすべてが消去されていなければならない。私の報告は消去以外の何ものでもないのだ、と私はガンベッティに言った。私の報告はヴォルフスエックをあっさり消去する。私は十一時までポポロ広場にガンベッティといっしょに座っていた、と私は机の上の写真を眺めながら思った。私たちはみなヴォルフスエックを引き擦っている。そして自らの救済のためにそれを消去したい、書くことによって滅ぼしたい否定したいという意志をもっている。しかし、私たちがその消去のための力を持ち合わせないときがほとんどなのだ。(同、上巻p144)
私はこの報告を「消去」と名づけるつもりだ、と私はガンベッティに言った。それは私がこの報告の中ですべてを消去するつもりだからだ。私が書き留めることはすべて消去される。私の家族全員がこの中で消去され、彼らの時間もこの中で消去される。ヴォルフスエックは私の報告の中で、私のやり方で消去されるのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p145)
……以上いくつかの引用を照らし合わせてみる限り、もちろん、ムーラウの発言は非常に混乱したものだ。ムーラウは故郷を破壊する者を憎悪しているのか、それとも、故郷そのものを憎悪しているのか。「消去」という行為自体は、肯定されるべきものなのか、それとも否定されるべきものなのか。それは意志的に望まれ選択された行為なのか、それとも、致し方なしに選択された行為なのか。さらには、「政府による消去」と「書くことによる消去」とは、果たして同じものなのか。
もちろん、このような記述の混乱は、一人の人間が持ちうるその内面の矛盾し混沌とした有様をそのまま散文の形に移したことによって生じている者だ。そして、そこにある混乱、正反対であるはずにもかかわらず実際には入り交じり明確な境界も見極め難い愛憎……それら全てを克明に認識し記述した上で、それでもなおその抹消を望むからこそ、「消去」という行為が選ばれることになるのだろう。
ムーラウは、自らの言う「消去」について、ガンベッティに次のように語っている。
私が彼に、どうやったら私の言う意味で世界を変えることができるかを話すと、ガンベッティの注意と熱狂はどんどん大きくなった。それにはまず世界を全面的かつ過激に「破壊」し、無に至らしめるまでに「否定」し、それから自分に耐えられると思える仕方で再生させること、一言で言えば、完全な新世界として再生させることだ。それがどのようなかたちで起こるかは言えないが、再生されるのはまず完全に否定することが必要だということは分かっている。というのも、世界の完全な否定なしに世界の刷新はありえないからだ。(同、上巻p151)
もちろん、私たちがそう考えれば、すべての古いものは私たちに敵対するようになる。つまり私たちはすべてを敵に回すことになるのだ、ガンベッティ君、と私は彼に言った。だからと言って、古いものを私たちの望む新しいものに取り換えるために滅ぼそうという私たちの考えが妨げられるようなことになってはならない。すべてを放棄するのだ、と私はガンベッティに言った。すべてに反発し最終的にはすべてを消去するのだ、ガンベッティ君。(同、上巻p154)
……なるほど、いざ『消去』の全篇を読み終えてみると、その結末部分でムーラウがなしたとある行為は、確かに、ヴォルフスエックに対する「消去」とも言える行為であるようにみえる。だがそれは、既に引用した部分で言われているような「世界の完全な否定」からはあまりにもかけ離れている。
ムーラウが述べる「消去」と、実際になす「消去」の間には、巨大な懸隔があるーーだが、それ以上に、ここにはより本質的な問題がある。……もし世界の完全な絶滅、その消去を願っているのであれば、なぜムーラウは、自分の考えを詳細にガンベッティに語り伝え、自身の言葉を残そうとする必要があるのか。ガンベッティという人物はと言えば、そもそもがムーラウの教え子なのであり、ムーラウが自身の後継者として育てたがっている節すらある。
全世界の完全な消滅を願う人間が、自身の後継者の育成に励む……これは、あまりにもあからさまな矛盾ではないか?
とはいえ、『消去』でひたすら繰り広げられるムーラウの饒舌な言葉は、自身の言葉に潜む矛盾や自己欺瞞についてすら、なんら隠すことなく語ってみせる。……そこには、例えば、次のような言葉が見られるのだ。
私たちが憎むのはもっぱら私たちが間違ったことをしているときであり、間違ったことをしているからだ。母はいやな人間だ、妹たちもそうだが、そのうえに愚鈍だ、父は軟弱だ、兄は哀れな道化だ、全員が愚か者だ、絶えずこう考え(そして口にすること!)が、私の習慣になってしまった。この習慣は、私にとって、基本的には卑劣極まりないものだが、武器にはなり、その武器でともかくも良心の呵責だけは静めなければならなかった。家族の者たちも、私が彼らにしたように、私をけなし、私を晒しものにし、私を性悪に仕立てればいいのだ、実際、私はいつのまにか彼らを性悪にしてしまったのだが、と私はガンベッティに言った。私たち人間は簡単にそしてすぐに、憎んだり、非難したりすることに慣れてしまう。自分の憎しみと非難に、そのとき、ほんのわずかでも正当性があるのかと問うこともしない。(同、上巻p74)
私たちはみな悪魔的本性の持ち主だが、その正体は写真コレクションのような、どうでもいいくだらないものの中に現れる。私たちの下劣さ、卑しさ、厚かましさが、そういうくだらないものによって証明されるのだ。なにもかも私たちの弱さに原因がある。というのも私たちは誠実であるなら、自分より弱いと見たがっている相手より実際はずっと弱く、自分よりおかしいと見たがっている相手よりずっとおかしく、滑稽で、無節操な存在だということを認めざるをえないからである。「私たち」こそ、無節操で、おかしくて、滑稽で、異常な存在であって、ガンベッティ君、相手のほうがそうではないのだ。自分の家の者たちのほかでもないこういう写真だけを保存し、しかもそれをいつでも見ることのできる机の引き出しにし舞うことで、私は自分の卑劣、破廉恥、無節操を証明している。(同、p181)
私たちは時々こんなふうに誇張をはじめるが、と私はだいぶ後でガンベッティに言った、そうなると誇張こそ唯一筋の通った事実に見えてきて、本来の事実はもう全然目に入らず、際限なく繰り返される誇張しか目にとまらなくなる。誇張への熱狂的信奉はいつでも私を癒してくれた、と私はガンベッティに言った。私がこの誇張への熱狂的信奉を誇張の技法に変えてしまったとしたら、それが、私を私の惨めな状況と精神的倦怠から救い出す唯一の方法だったからだ、と私はガンベッティに言った。私は自分こそ私の知るもっとも偉大な誇張芸術家だと言い切れるところまで、誇張の技法を磨き上げた。私は私以外に私のような人間を知らない。いまだかつて誇張の技法をここまで極めた者はいない、と私はガンベッティに言った。そしてそれに続けて、もしいきなり誰かに、私の正体は何なのだと聞かれたら、それに対して、私の知るかぎりもっとも偉大な誇張芸術家だと答えるしかないだろう、と言った。(同、下巻p444~445)
実は、『消去』の作中において、以上のような矛盾した態度にとらわれているのは、ムーラウだけではない。ムーラウと親交のある詩人・マリアもまた、次に引くような態度を見せているのだ。
マリアは私に、「本当はウィーンに戻りたいの」と言ったとしても、その直後の、時には、二、三分も経たないうちに、反対のことを言う。同じくらい確信をこめて「実を言うとウィーンには戻りたくない」と言うのだ、実はローマに残りたい、ローマで死んでもいいくらいに思ってるわ、と。マリアはよく、ローマで死にたいと言った、と私は考えた。マリアはその知性ゆえに、ローマにいること、実際にはウィーンを愛していながらローマにいることを余儀なくされている、と私は考えた。しかしマリアは、住む家の手配をしてくれ、実際、ウィーンの重要な扉をすべて開いてくれたウィーンの知り合い全員にけんつくを食わしてから、二、三週間もすると、ぞろまた、今度こそ最終的に「故郷」であるウィーンに戻るつもりだ、と言いはじめ、それを聞くと私はいつも面と向かって笑うことで話を中断せずにいられなくなるのだ。というのもマリアの口から出る「故郷」という言葉は、私の口から出たのと同じくらいグロテスクに響いたからだ。(中略)ローマ人であろうとしながら同時にウィーン人であるマリアは、こういう危険な感情と精神状態をばねにあの偉大な詩を書くのだ、と私は考えた。(同、p172~173)
……なるほど、ここでのマリアのように平然と矛盾した態度を取ってしまうこと自体は、誰しも多かれ少なかれ犯してしまうことではあるだろう。そして、ムーラウは、そのような矛盾・自己欺瞞、人間の混乱した本質を直視することが、ある種の文学的達成をもたらすと考えているようである。
そして、『消去』に書き込まれた散文、そこに人間の愚かさや欺瞞が混沌としたままに活写されているのに接すると、確かに高度な文学的達成があるのも事実である。……しかし、『消去』の全体を改めて確認した上で、私はこう述べなければならない。……ムーラウの言う「消去」とは、言語そのものの水準においては決してなされていないのだ、と。
『消去』という小説の作中における「消去」という言葉は、様々な水準での様々な意味を同時に担わされているものである。政府による開発・環境破壊の類も「消去」であり、ムーラウが法律上の権利を持ってヴォルフスエックに対してなす行為も「消去」である。
そして、「世界の完全な否定」に向けて「書く」こともまた、「消去」であるとされる……だがこれは、具体的にはいかなることなのか。書くことこそが「消去」であるのだと述べるムーラウは、しかし、実際に行う行為として「消去」を実践するとき、言葉とはほぼ無関係な水準にある、行動の人となる。一方、ムーラウが実際に発する言葉のほとんどは、自らの教え子に語りかけ、自分自身の後継者を育成するという、世界を絶滅させ抹消するなどということとはおよそ対極の水準にあるものだ。
ムーラウは、言葉を発し書く人としての己を最も重要視している一方で、実際に言葉を操る水準においては、なんら「消去」を実行していない。もっと言えば、言語そのものの水準で「消去」がなされるのであれば、語られる対象ではなく、語るための言葉そのものもまた消滅に向かわなければならないはずなのであるが、そのような契機は『消去』という作品には微塵もない。
つまり、ムーラウの散文は、人間が抱え込む愚かさや矛盾や自己欺瞞、そこにある混沌とした有様を直視し散文に写すことに成功してはいるのだが、そこでの検討が、言語そのものの水準での自己言及的な領域にまで到達することは決してない。
……だからこそ、言葉を発する人間としてのムーラウはあらゆる対象の消去を望むと言いながらも、自身の言葉を受け取る存在としてのガンベッティの消滅を望むどころか、そこにガンベッティが不動の存在としてあり続けることを疑うようなそぶりすら見られない。つまり、「語り手としてのムーラウ」と「聞き手としてのガンベッティ」という、作品そのものを構成するフレームは、作品によって自己言及的に反省される対象から無条件に除外されているのである。だからこそ、ムーラウからガンベッティに対して投げかけられた言葉は何ら「消去」されることなどなく、どこまでも饒舌に繁殖し、膨大な量の言葉を内包する長篇小説自体は、安定した語りの構造を備えて自足することになるわけだ。
ムーラウの言葉はなにものも「消去」しないし、それ自体が「消去」されることもない。それこそが、『消去』という小説が抱え込んだ最大の自己欺瞞なのである。
……以上のようなことを別の側面から考えるならば、そこにあるのは、小説を構成する言葉のあり方と、言葉が発せられる元々の起源にある人間の身体とが切り結ぶ関係性との問題であるだろう。
言葉だけを見るならば意味的に矛盾・混乱し、時制の面でも辻褄が合わない……それでもなおそんな言葉の群を一つの作品として構成することができるのは、そもそも矛盾・混乱した言葉が、一人の人間の身体という独立したフレームの内側にも平然と共存しているからだ。
つまり、トーマス・ベルンハルトという小説家は、小説の言葉のあり方が、その言葉を発することになった身体との関係によって規定されるというところにまで、文学的達成を遂げたのである。しかし、そこにある身体というフレームそのものには検討がなされなかったがゆえに、作中に書かれている否定的・破滅的な意味とは裏腹に、長大な作品を平然と書き続けることのできる小説家でありえたわけだ。
例えば、『消去』におけるガンベッティは、ほとんど、ムーラウに呼びかけられムーラウに教えられる対象としてしか存在していない。……だが、ガンベッティがムーラウの言葉を批判的に検討し、時に師の教えを受け入れず時に反論していたら、どうなっていただろう? ……もちろん、『消去』という小説は今ある形では存在しえなかった、言い換えれば、言葉を発する人としてのムーラウの身体が変容する契機があったはずだということだ。
とはいえ、トーマス・ベルンハルトの達成は――ベルンハルトの小説の、ここまで述べてきたような側面での先行者たるルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネとともに――二十世紀の文学理論によっては補足不可能な領域にまで到達したものだったと言える。言葉の表層にあるレトリックが、身体を通した人間の認識と不可分に結びついていることに改めて着目したのは認知言語学であり、これは従来のテクスト論とは根本的に相容れない方向性であるからだ(ついでに言えば、テクスト論は人工知能によって置き換え可能となる可能性があるが、認知能力と結びついたレトリック分析は、完全に人間同様の強い人工知能を搭載したロボットが完成しない限り不可能だろう。そういう意味では、二十一世紀の文学理論はレトリック分析の方向性で発達することはまず間違いないと私は考えているのだが……そうなると、詳細にヴィーコを読み込むところから始めなければならない……ということは、とりあえず二十一世紀も、ジョイスの覇権は生存確定ということにもなるのであった……)。
しかし……ベルンハルトの言う「消去」が、本当に「書くこと」、言葉そのものの水準にまで向けられていたら、どうなっていたのだろうか?
言い換えれば、言葉が担ってしまう否定性までもが突き詰められ、言葉と身体の結びつさえもが解体され、言葉の自壊や身体の変容が実演される水準にまで、文学的追求がなされていたならば?
私が、ベルンハルトの高度な達成を理解しながらも最終的には否定しなければならないのは、ベルンハルトに既に先行する中に、そこまで到達した人々がいたことを知っているからだ。……もちろん、それは、サミュエル・ベケットでありアントナン・アルトーであるのであった。
過去の記事の削除について
直近一年ぶん程度の記事を残して、それ以前の記事の大半を削除しました(誹謗中傷やデマへの反論などは残してあります)。
もちろん、内容を支持していただいた方が大勢いらっしゃるのも承知しているのですが、なにぶん、過去の記事に何年たっても嫌がらせをするものが継続的にい続けるもので。
一方、逆に、私に無断で全文転載するような輩も、私自身が確認しただけでも複数おり、かなりの分量の長文をネットにアップしておくことにうんざりしてきたところです。
まあ自分が言ったことを取り下げるつもりはありませんので、そのうち、削除した記事は電子書籍にでもするかもしれません。誤字・脱字などがそのままになっている部分も結構あるため、チェックにも時間がかかるぶん、実現したとしてもだいぶ先の話ではありますが……。
もちろん、内容を支持していただいた方が大勢いらっしゃるのも承知しているのですが、なにぶん、過去の記事に何年たっても嫌がらせをするものが継続的にい続けるもので。
一方、逆に、私に無断で全文転載するような輩も、私自身が確認しただけでも複数おり、かなりの分量の長文をネットにアップしておくことにうんざりしてきたところです。
まあ自分が言ったことを取り下げるつもりはありませんので、そのうち、削除した記事は電子書籍にでもするかもしれません。誤字・脱字などがそのままになっている部分も結構あるため、チェックにも時間がかかるぶん、実現したとしてもだいぶ先の話ではありますが……。
11・27両国は「全日本プロレス:リバース」になりうるか?
ここ数年のアメリカン・コミックスの二大出版社の動向を見るにつけ、歯がゆい思いを感じるとともに、奇妙な既視感をも覚え続けざるをえないのであった。……会社の規模という意味でも、その歴史という意味でも群を抜く二つの老舗という勢力図のはずが、いつの間にかその均衡が崩れ……マーヴル・コミックスが勢力を拡大する一方で、DCコミックスは停滞を続ける。そんなことがなぜ起きたのかと言えば、マーヴルがなりふりかまわず新たな路線を打ち出し、それまでヒーローコミックの購読層として大きい数を占めてはいなかった女性読者などの開拓に成功したからだ。
もちろん、マーヴルが新規読者の拡大に成功したこと自体は、喜ばしいことだ。だがマーヴルは、新規読者の拡大に少しでも障害になりそうであるならば、従来の読者が思い入れを持つような対象、それなりに歴史的蓄積があるような対象をも次々に破壊し取り除き排除することをも、なりふりかまわず押し進めたのだ(一応念のために断っておくと、これはあくまでも全体的な編集方針の話なのであって、現場のスタッフがみんなそうだという話ではない)。
DCコミックスが、現在の情勢に合わせて勢力を拡大する方法が何であるのかわかっていても、大胆にマーヴルに追随することが遂にできなかったのは、アメリカン・コミックスの世界で常に保守的な立場を取ってきた会社だったからであろう。それなりに歴史的経緯がある自社のコンテンツを、現在の商売の都合だけで排除することなどできない……これは、DCにおいては、コミック制作の現場上がりの職人的存在が何人も経営陣に名を連ねていることとも無縁ではないだろう。
もちろん、二大出版社の勢力の均衡が崩れることなど過去に幾度もあったわけではあるが、マーヴルのなりふりかまわない方針によってその差が引き離され続ける中、もはやDCが盛り返す目などないように思えた……だが、今年になってDCが大々的に打ち出したのは、マーヴルとは全く異なるヴィジョンを立てることであったのだ。
DCコミックスが新方針の中核に据えたコミック「DCユニヴァース:リバース」において宣言したのは、マーヴルとはむしろ正反対に、過去の歴史の中で積み上げられてきた遺産の全てを全肯定することなのであった。DCの方でも、現代の情勢に合わせて切り捨ててきてしまった要素を全て復活させ、歴史的経緯があるからこそ今があることこそを、DCコミックスがDCコミックスとして成り立つための最も重要な要素として最大限に敬意を表する……マーヴルが決して取ることのなかったこのような方針は、売り上げ的にも内容的にも大成功を収め、DCが一気に盛り返すことになったのであった(……そして、「DCユニヴァース:リバース」の仕掛け人にしてドラマ「フラッシュ」のプロデューサーである、我らDCファンの切り札であるジェフ・ジョンズは、遂に映画版をコントロールする権利を掌握し、来年の『ワンダーウーマン』では遂に脚本にも参加する! 本当の闘いはここからだ~!)。
……ここ数年間というもの、劣勢に立たされるDCコミックスの現状を苦々しく見つめながら、同時に、既視感にとらわれ続けてきたのは、もちろん、その構図が、日本のプロレス業界にもほとんど同じように当てはまることであったからだ。……そして、今にして思うのは、マーヴル・コミックスの「現代社会に合わせた成功の方法論」を完全に無視してDCコミックスが成功を収めたのならば、全日本プロレスに同じことができないはずはないということなのだ。
……というわけで、このブログにはプロレスそのものを単独で扱った文章はほとんどアップしてこなかったのですが、今回ばかりは……今回ばかりは……書かせていただきます! はっきり言っておきますが、私がこの文章を書くのは、ここ数年間というもの、存続そのものを危ぶまれるほどの危機的な状況にあった全日本プロレスが、起死回生のビッグマッチとして久々に進出する両国国技館に駆けつける観客を、一人でも増やしたいからなのであります!
……まあ、そうは言っても、今回のチケットの売り上げ状況を確認してみると、ここ数年の窮状を知る者にしてみれば衝撃的なまでの売れ行きを見せているわけで、そういう意味では、秋山社長が借金を抱えて路頭に迷うような、最悪の窮地は既に脱してはいるわけです。……しかし……しかし……今回の両国は……様々な偶然の状況が重なり合った結果、もはや宿命としか思えない必然に至り……四十年あまりの歴史がある全日本プロレスの過去を振り返り、一度でも思い入れを持ったことがある人間ならば、なんとしてでも駆けつけなければならない、そんな試合が、少なくとも二つは組まれているのです。もしそのことに気づいていない人がいるならば、一人でも多くの人に伝えておかなければ……
その試合として挙げられるのは、まずは、アジアタッグ選手権だ。日本プロレス界の最古のベルトであり、力道山が保持したこともある……しかし、いつからか、若手や中堅のための登竜門的な位置づけとされることが多くなったアジアタッグ。現在保持しているのは青木篤志と佐藤光留なのだが……この二人、第九十九代王者なのである。そして、最後の防衛戦を終えたとき、青木篤志が次なる挑戦者として指名したのは……まさかまさかの、渕正信&大仁田厚組……!
もちろん、この二人をチャンピオンの側が指名したこと自体は、あるはっきりとした意志の元になされた行動であるだろう。しかし、偶然と必然がどこまで絡み合っているのかわからなくなってしまい、そのことに気づいて私が動揺したのは……両国での決戦が行なわれる11月27日が、ハル薗田さんの命日の前日であることに気づいたときのことだった。
もともと全日本プロレスとは、日本プロレス内でのTV中継関連の利権などで発生したもめ事を元に独立したジャイアント馬場が旗揚げした団体だ。とはいえ、その経緯から旗揚げの時点で日本TVのバックアップがついており、日本プロレスから移ってきた多くのレスラーを受け入れることにもなった。
そういう意味では、旗揚げの段階でフレッシュさのようなものはなく日本プロレスの延長上にあるというのが全日本プロレスの実像だったのだろう。そして、そんな状況において、旗揚げ直後の全日本にあくまでも新弟子として入門した最初期の生え抜きにあたるのが、「三羽烏」などと称された渕正信と大仁田厚とハル薗田であったわけだ……(全日ファンであるにもかかわらずこのあたりの事情に関して疎いというような人は、必ず両国までに、渕さんの超・名著『我が愛しの20世紀全日本プロレス史』を読まねばならんのですよ!)。
だが、この三人は、それぞれがそれぞれ、あまりにも異なる命運をたどることになったのであった。若くして飛行機事故で亡くなったハル薗田。膝の怪我によって全日本を引退したものの、デスマッチを売り物をしたFMWを旗揚げし、日本のプロレス界でインディー団体の草分けとなり、信じ難いまでの狂い咲きを見せた大仁田厚。そして、全日本プロレスの度重なる分裂騒動・離脱騒動・トラブルなどの全てを経てもなお残留し続け、旗揚げ当初から現在までを知るただ一人のレスラーとなった、渕正信……。
もはや交わることなどなかったはずの、全日本プロレスの始まりを知る男たちの命運が、日本プロレス界の最古のベルトの第百代王座をかけて、奇跡的にもう一度だけ邂逅する……! こ、こんなことがありうるのか!?
先述した『我が愛しの20世紀全日本プロレス史』において、渕さんが20世紀の全日本プロレスのベストバウトとして挙げていたのは、94年のハンセン・馬場対三沢・小橋なのであった。あの試合は、80年代に激闘を繰り広げたジャイアント馬場とスタン・ハンセンが恩讐を乗り越えてタッグを結成し、現役バリバリの三沢と小橋に挑んでいったのだが……まさか、当の渕さんが、同じような意味合いを持つ試合に挑むことになるとは……(とりあえずリンクを下に張っておくので、見てない人は見ましょう! ……しかし、この試合、リアルタイムで見てた当時は三沢と小橋の側の視点で見てたんだけど、改めて最近になって見直したときには、小橋のパワフルなショルダータックルでなぎ倒された馬場さんが、ひどく痛そうな様子を見せつつ、「しかし、この痛みが嬉しい」というような表情を見せていて、思わず泣きそうになりました……あと、小橋のムーンサルト食らってる時点で、もう、凄いですよ! と言うしかないと思いました)。
https://www.youtube.com/watch?v=GM5Q5Xc2Pqw
私自身は、大仁田が川崎球場で大々的に実施したFMWでの引退試合に駆けつけたクチなので、今の大仁田にはモヤモヤするものがまだあるのも事実ではあるのだが……しかし、今度ばかりは、渕&大仁田組を全力で応援する……というか、今度ばかりはもうホントになんでもいいから、はぐれ全日本軍団を率いるカシンが「大仁田とは対立してたけど、よく考えたらあいつもはぐれ全日本だった!」とかいって乱入してアシストするとかのめちゃくちゃでもいいから、奪取しても防衛不可能で即日返上とか、リマッチ即奪回とかになってもいいから、とにかく、渕&大仁田で百代王座を奪取してくれ~!
……以上のようなことを書いてきたが、ここで勘違いして欲しくないのは、11・27両国は、断じて懐メロなどではないということだ。懐メロというものは、現在の状況がどのようなものであるのかにかかわらず、過去のよい思い出だけを追想することによって可能になるものだろう(一応ここで念のために付け加えておくと、現在の全日本プロレスが名称は引き継ぎつつも会社組織は移行していることを持ち出して、「今の全日本プロレスは全日本プロレスではない」などとこざかしいことをぬかす輩がいろいろなところで見受けられるので、ここではっきりと書いておく。この手の連中は、日本のプロレスのことを完全に全く何もわかっていない。全日本プロレスの本質とは何か? ――それは、PWFなのである。興行組織としての会社が変化していても、実は、「PWFが認定するタイトルを運営する」という意味での連続性は、きちんと保持されているのだ。全日本プロレスの社禝は、PWFなんじゃあ!)。
過去の出来事をふまえて現在につなげるためには、それがどれほど悲惨でありネガティヴであり目を背けたいことであろうとも、その全てをひっくるめて引き受けることしか始めるしかない。そして、現在を開拓して未来への道を切り開くためには、何らかの形で過去と対峙するしかない。
そのような意味では――全日本プロレスが積み上げた歴史に対して、異なる形で責任を果たす異なる世代の二人が、それぞれが積み上げた価値観に決着をつけるために闘わなければならない――そんな今後の全日本プロレスの分岐点としての意味を持つ試合が行なわれるのは、「ジャンボ鶴田対三沢光晴」の一戦以来のことであろう。……すなわち、それこそが、宮原健斗対諏訪魔の三冠戦なのである。
諏訪魔とは、全日本プロレスの負の遺産を全て背負い込んだ男だ。
……そもそもの話として、諏訪魔による一つの決断がなければ、三年前の時点で「全日本プロレス」という団体自体がこの世から消滅しているはずなのであった。……要は、当時全日本プロレスの経営に携わった白石オーナーが、プロレス業内を内部から見て納得のいかない部分を暴露しまくるという掟破りを敢行し、業界中からそっぽを向かれ、所属選手・スタッフは次々に離脱、団体の存続すら危ぶまれる状況で、エースである諏訪魔がいち早く残留を宣言したのであった。
あの当時の私の印象としては……白石オーナーの言動を指示するわけでは全くないが、しかし、この年代の人からこういうことを言う人が出てくるのはわかる、というものだった。と言うのも、白石オーナーは、もともとは新日ファンだったわけだ。昔から新日本プロレスの選手・スタッフ・関係者一同が口をそろえて「全日本は弱いが新日本は強い」「全日本は練習しないが新日本は練習する」などと延々延々延々延々言い続けてきたわけで、遠巻きに眺めている程度の軽めのファンがそれを真に受けたまま業界のバックステージに入り込んだら、実態があまりにも自分の聞いてきたこととかけ離れすぎているのに怒り狂って暴れ出したということなのだから、私なんかにしてみれば「そりゃ暴れるわな」と思ったのだ。
だいたい、あのころ大変なスキャンダルをもたらした白石騒動だったが、新日本のトップレスラーが堂々と諏訪魔とやり合ってボコボコにすれば白石オーナーが完全に黙り込んで一瞬で騒動が終結していたことは間違いなかったのだ。新日本が何十年もの間全日本に対して投げつけ続けてきた誹謗中傷の類に落とし前をつけ、自分たちの言ってきたことが嘘ではなかったことを示すのであればそうするほかなかったはずなのだから、過去の全てをなかったことにし目を背け何の責任もとらないのであれば、少なくとも、もはや新日本プロレスは「新日本プロレス」という団体名を掲げるべきではないと私は思う。
つまり、私としては、白石騒動というのは「新日がなかったことにして切り捨てた昔のファンの残党の怨念が引き起こしたもの」という認識なのだが、なぜそれを全日が食らわなければなかったのだろうか……
スキャンダルの渦中にあり、現在の業界中から見捨てられ、「今のレスラー」からも「今のファン」からも「今のマスコミ」からもほとんど支持を得られなかろうとも、それでも躊躇なく全日本への残留を諏訪魔が決断できたのは、過去の歩みゆえに今があるという強烈な意識を持っていたからだろう。……自分が子供の頃から見てきたプロレスというものに照らし合わせてみれば自分のファイトが間違っているとは思えないし、全日本プロレスとはそれが披露できる場所のはずだ。諏訪魔には、そんなブレない信念があるはずだが、その信念の強さこそが、「今の日本のプロレス業界」のトレンドとの折り合いのつかなさとして表れてしまうことにもなった。
結果として、スキャンダルを経てもなお全日本プロレスを見る、言い換えれば、昔からのプロレスを知る観客からは支持を得ながらも、その絶対数はじりじりと経るばかり……という、負のスパイラルに落ち込んでいくことになったのであった。
そんな、諏訪魔と「今の日本のプロレス業界」とのズレが最悪の形で露呈してしまったのが、昨年の両国国技館で開催された天龍源一郎の引退試合なのであった。80年代の全日本プロレスを牽引しつつも、結果として円満とは言えない形で去った天龍の引退試合に、現在の全日本プロレスのエースであり団体を存続させた張本人である諏訪魔が駆けつける。……ただこれだけのことでも、諏訪魔は既に手放しで賞賛されてしかるべきはずだ。しかし、この日の観客に、諏訪魔に対する敬意は微塵もなかった。
天龍自身の希望によって諏訪魔と対戦することになったのは、アントニオ猪木の秘蔵っ子であり、新日本が方針を転換していなければ今でもその中枢にいたかもしれない、藤田和之である。……そして、この両者の対決に、この日の観客は盛大な罵声を浴びせかけた……なぜなら、両者が、オーソドックスな定石通りにロックアップしてから始める小綺麗にまとまって案客も程良く楽しめる、「ありがちなプロレスのお約束」に従わなかったからだ。
両者のファイトスタイルとこの日までの経緯を知っていれば、そんな風になる試合ではないことは当たり前のことだ(……というか、この日の諏訪魔が披露したのはモロに「80年代の全日本プロレス」以外の何ものでもなかったのだから、天龍引退の日にそれをやる諏訪魔はむしろ正しい)。
天龍源一郎という希代のレスラーが積み上げてきた過去の歩みに敬意を払うための興行の日に、なぜ、「今の観客の嗜好」を無視して過去のために闘う者が罵声を浴びせられなければならないのか。諏訪魔にしろ藤田にせよ、日本のプロレスの歴史が存続するために既に大きな功績を残している男たちなのであるが、なぜ最低限の経緯すら持たない者が、恥ずかしげもなくこんな場にいられるのか。
だいたい、この日の興行は、諏訪魔と藤田が登場する以前から、私としては違和感ばかりが募るものなのであった。……リングから遠ざかっていた北原が天龍引退に合わせて姿を見せ、いいコンディションを整えてきた上でWARスペシャルまで繰り出しているのにたいして反応もせず、「ライガーのロメロスペシャル」やら「越中のヒップアタック」やら、「TVで見たことのある有名なムーヴ」を見たときにだけ、流れなど関係なく突然歓声を上げるクソども。休憩時間のBGMとして突如として「王者の魂」が流れた瞬間に私は動揺してしまったのだが、全く何の反応も示さないクソども。入れ込みすぎて興奮した結果、教科書通りのロックアップから試合を始めない諏訪魔と藤田に罵声を浴びせる一方で、その後レジェンドとして登場したスタン・ハンセンには声援を送るクソども。……ハンセンの試合なんて「そんなんばっか」だったんだから、ハンセンにも罵声を浴びせるんでなけりゃあ、テメーらのやってることの筋は通らんだろうが!
だいたい、日本のプロレスの過去の歩みを本気で尊重する気があるなら、秋山と大森がシングルで闘う時には必ず会場に駆けつけろ! そして、秋山が初めてエクスプロイダーを公開した、あのあすなろ杯決勝を思い出して涙を流せ!
過去を踏まえて今があるのではなくて、今のトレンド、今すぐに何となくその場で楽しめるノリが先にあって、過去の歴史は、現在から見て都合のいいところだけを切り張りし捏造する。それが「今の日本のプロレス業界」のトレンドなら、もうそんなもんはどうでもいい! 全日だけギリギリ存続すればいい! むしろWWEはプロレスの本質はリスペクトしてきちんと継承しようとしてるんだから、WWEが日本侵攻してくれて全然かまわない! ジョニーさん、全日だけは勘弁してそれ以外は全部滅ぼしてくれ~! ……などと、全日原理主義者じみた態度に染まっていってしまったのが、昨年の私なのであった。
まあそれはともかく、「今の日本のプロレス」との折り合いのつかなさが極限にまで表れてしまったのが、昨年の諏訪魔なのであった。年が明けるとともに三冠王座を奪回し、ここからどんなスタンスで自分のプロレスを見せていくのか……と思いきや、その三冠戦の終盤でアキレス腱を完全断裂したまま戦い抜いていたことが発覚。王座を返上し、諏訪魔は長期欠場に入る……。
全日本プロレスが混迷を極め、迷走し、リング外では暗く気が沈むニュースしかなかったこの三年間というもの、未来へとつながる希望の光をまばゆいまでに放ち続けたのは、宮原健斗という男なのであった。
ある一時期からの宮原の試合を継続して見続け、驚き続けてきたのは――それは、「人は、これほどの短期間でここまで急速に成長できるものなのか……」ということなのであった。
正面から闘えば自分にはまだまだ歯が立たない宮原を明確に格下と見なしていなしてきた諏訪魔、先輩であり同時にタッグパートナーとして、自分自身は凄まじい試合をやってのけながらも宮原を意識的に導き成長させてきたとは言い難い潮崎……そんな中、歳を取り体力も衰え、分裂騒動後の選手層も手薄な状況では第二試合や第三試合に出場することもたびたびで、しかし全力でのファイトを見せ続けてきた……そんな秋山と大森が、どう考えてもまだまだ青く未熟な宮原の成長のために体を張りまくる姿を見るにつけ、胸にこみ上げるものをおさえられなかったのだ。
もはや自分の役割を隠そうともせず、「お前が今のままじゃあ、全日本に未来はねえなあ!」などと叫びながら宮原をボコボコにしていた秋山の姿は、ほんの数年前のことのはずなのにはるか昔のことのように思えて、思い出すだけで目頭が熱くなってくる……。
そして、信じ難いまでに急速にして、信じ難いまでに高度な成長を遂げた宮原が完全にトップレスラーになり、その日のメインの勝者として興行を締めることも多くなったとき……そのときに断固として選んだのは、その日の興行に足を運んだ観客には、絶対にハッピーで楽しい気分にしかさせない、ということだったのだ。
全日本プロレスのここ数年の状況を知らない人間が見れば、宮原は単に楽天的で何も考えていない人間のように見えるかもしれない。しかし、いつもいつも暗く気が沈むニュースにしか接する機会がなく、試合そのものは優れたものを見ることができた日でさえ、未来への不安を抱えながら帰路に就く……そんな経験だけを重ねてきた全日ファンに対して、「絶対に明るく楽しい思いしかさせない」と決断することは、プロとしての自分への覚悟と揺るぎない自信がなくして、できないことだろう。……というか、少なくとも私自身の場合、この先全日が潰れるのであろうと、何があろうとも最期は絶対に看取るという思いだけを抱え、全日原理主義者として憎悪と怨念に凝り固まりつつあった淀んだ心は、宮原によって救われたんだよ。
……自分の言動が観客にどう見え、どのような影響を与えるのかを徹底して考え抜いたであろう宮原の最大の変化は、完璧なまでに緩急の変化を身につけたことであろう。若いながらも、三冠王者として貫禄たっぷりにゆっくりとアピールしつつ入場し、ひとたびリングインするや、あっという間にコーナーポストに立って見得を切ってみせる。この緩急によって観客の視線を自在に操ってみせ……そして、誰でも使うような技であったはずのシャットダウン式ジャーマン・スープレックスも、静止して溜めてから高速で反り投げるまでの緩急によって観客の視線を釘付けにし、見事、金の取れるフィニッシャーにまで昇華させた。
宮原健斗の三冠王者としての防衛記録が伸びれば延びるほど、それに合わせて全日本プロレスも勢いを取り戻してきたのである。
……そして、そんな二人が闘うのである。
本来なら後楽園ホールで決着をつけるはずだった諏訪魔と宮原の三冠戦は、諏訪魔の欠場・王座返上によって流れ、宮原が王座に就くことになった。
怪我も回復に向かい、久々に全日本プロレスの会場に姿を見せた諏訪魔が、ファンに向けての挨拶で述べた言葉は、「今の全日本プロレスへの挑戦」という謙虚な言葉だった。……もはや、諏訪魔は、宮原によって全日本プロレスの景色が変わったことを認め、その前提で戦線に復帰するというのだ。
正直なところ、私自身は……アキレス腱断裂で欠場する以前の段階で既に、諏訪魔もさすがに体力も衰え、もう以前のような闘いはできなくなっているのではないかと思っていたのだ。
分裂騒動の直後の諏訪魔が、全日ファンの内部では求心力を失わなかったのは、潮崎との間で凄まじい激闘をやってのけたからだ。しかし、潮崎が全日を退団してからというもの、諏訪魔にそれほどの激闘はなく……むしろ、私が思う「全日本プロレス」そのものを体現していたのは、諏訪魔ではなく、諏訪魔のタッグパートナーたるジョー・ドーリングなのであった。
宮原もそうなのだが、それ以前の段階で、ジョーのここ数年の覚醒ぶりは、本当に目を見張るものがあった。それはもはや、スタン・ハンセンや
ブルーザー・ブロディやスティーヴ・ウィリアムスなど、全日本プロレスの歴史を彩ってきた怪物外国人たちと同等の域にまで達しているとしか思えなかったのだ。
現在のプロレスではもはやつなぎ技としてしかほとんど使われない、クロスボディやスパインバスターの一撃でこれほどまでに血湧き肉踊るなどという経験をするなどとは、思ってもみなかった。……ジョーの試合を見るたびに、「ああ……オレンジ時代の小橋と闘わせてぇ~……」などと思い、そのカードは、私の頭の中での「あらゆる歴史を超越した全能の能力を手にしたら実現させるカード・統一ランキング」の第二位にまで浮上するに至ったのだ!(……ちなみに、不動の一位は「小橋健太対ブルーザー・ブロディ」であります……)
しかし……ジョー・ドーリングは左足の怪我によって長期欠場。ようやく復帰のめどが立ったと思いきや、土壇場で脳腫瘍が発覚、という悲劇に見舞われる……。
もちろん、ジョーの欠場を、諏訪魔が心苦しく思っていないわけがない。しかしその一方で、ジョーの欠場以来の諏訪魔のファイトが、ジョーを失った全日ファンの欠落感を埋めるものであったとも思えない。
だから、さる九月の品川大会、王道トーナメントの一回戦、もちろんノンタイトルでの諏訪魔と宮原のシングルマッチに、期待のみならず不安の気持ちもない混ぜになっていたことは否定できないのだ。だが、そこで見たものは……それは、「今の全日本プロレスへの挑戦」と述べた諏訪魔の言葉、その言葉の答えだった。
そこにあったのは、序盤から、凄まじいパワーで宮原を圧倒しまくる諏訪魔の姿だったのだ。……そう、諏訪魔は、プロレスを生業にしているにもかかわらず他のレスラーをぶっこわしてしまう、だから、相手が自分の力を受け止めきれることを確認できなければ、全力を出すことのない男だったのだ。その躊躇いこそが、諏訪魔をして熱戦と凡戦の両方を生ませることにもなっていたのだが……その底力は、いまだ健在であったのだ。
諏訪魔は、今の宮原が、自分の方から挑戦すべき相手であると認めたからこそ、序盤からフルスロットルだったのだろう。「今の宮原」がたどり着いた高みを知っているからこそ、その宮原をなす術もないままに追い込んでいく諏訪魔の圧倒的な怪物ぶりを、改めて思い知らされることになった。……そして、激闘の末に、宮原を叩きのめした諏訪魔がフィニッシャーに選んだのは……ジョー・ドーリングの技である、レボリューション・ボムだった……。
……この試合は、諏訪魔のいいところが全部出た試合だった。だがこれはあくまでもノンタイトルであり、これに続くトーナメントの初戦に過ぎなかったのも事実である。……つまり、三冠王座をかけたタイトルマッチでは、まだまだこれ以上の、こちらが言葉を失うまでの死闘を見せてくれるはず!
……かくして、全日本プロレスの過去を背負う男と、未来を担う男とが決着をつける。……正直なところ、私人の気持ちを言えば、どちらにも勝って欲しいし、どちらの負けるところも見たくない(……しかし、今度ばかりは、「カクトウギのテーマ」は聞きたくない)。にもかかわらず、ここで決着をつけなければ、全日本プロレスは先には進まない(しかし……これほどの大会場での三冠戦は本当に久しぶりなのだから、選手入場前に一回全部照明を落としての、アレをやってくれねえかなあ……両国の設備だと難しいのかなあ……でもやってくれねえかなあ……頼みますよ木原さん……)。
だが、これだけは言っておかなければならないのは……それは、諏訪魔が勝てば未来が閉ざされるのではないし、宮原が勝てば過去が消されるわけでもないということだ。少なくとも、宮原は、過去と対峙することなしには、未来へと進むことを許されてはいないのだ。過去を背負う男と未来を担う男の両者が闘わなければ今が築けないということにこそ、全日本プロレスという場所の本質がある。……つまり、この場所では、過去への追想に身を委ねる者と、未来に向けて思いを寄せる者との、どちらもが、そこにいていいのだ。
だから、我々は、この三年間がどれほど醜悪で迷走を重ね忘れたいものであったとしても、それを「暗黒時代」などと呼ぶことはないだろう。道場からアントニオ猪木の肖像を撤去するのに類するようなことは、決してなされないだろう。……少なくとも私は、例えばシングルマッチなら、分裂騒動直後での大田区体育館での、三本のベルトのままで最後にかけられた三冠戦、諏訪魔対潮崎や、2015年の年頭に後楽園ホールであったドーリング対潮崎の三冠戦を、生涯忘れることはないだろう。
しかし、だからこそ、宮原と諏訪魔にはそれを上書きしてもらわなければならないのだ。両者の死闘が、そこまでの域に達したとき――過去への思いと未来への思いとが複雑に交錯していたはずが、リングの中で形成されている「今」、今その場所にある熱気が生み出す興奮のるつぼが、観客の思いを融解させ「今」への思いだけへと飲み尽くすとき――そのときこそが、全日本プロレスが再生するときなのだ。
もちろん、マーヴルが新規読者の拡大に成功したこと自体は、喜ばしいことだ。だがマーヴルは、新規読者の拡大に少しでも障害になりそうであるならば、従来の読者が思い入れを持つような対象、それなりに歴史的蓄積があるような対象をも次々に破壊し取り除き排除することをも、なりふりかまわず押し進めたのだ(一応念のために断っておくと、これはあくまでも全体的な編集方針の話なのであって、現場のスタッフがみんなそうだという話ではない)。
DCコミックスが、現在の情勢に合わせて勢力を拡大する方法が何であるのかわかっていても、大胆にマーヴルに追随することが遂にできなかったのは、アメリカン・コミックスの世界で常に保守的な立場を取ってきた会社だったからであろう。それなりに歴史的経緯がある自社のコンテンツを、現在の商売の都合だけで排除することなどできない……これは、DCにおいては、コミック制作の現場上がりの職人的存在が何人も経営陣に名を連ねていることとも無縁ではないだろう。
もちろん、二大出版社の勢力の均衡が崩れることなど過去に幾度もあったわけではあるが、マーヴルのなりふりかまわない方針によってその差が引き離され続ける中、もはやDCが盛り返す目などないように思えた……だが、今年になってDCが大々的に打ち出したのは、マーヴルとは全く異なるヴィジョンを立てることであったのだ。
DCコミックスが新方針の中核に据えたコミック「DCユニヴァース:リバース」において宣言したのは、マーヴルとはむしろ正反対に、過去の歴史の中で積み上げられてきた遺産の全てを全肯定することなのであった。DCの方でも、現代の情勢に合わせて切り捨ててきてしまった要素を全て復活させ、歴史的経緯があるからこそ今があることこそを、DCコミックスがDCコミックスとして成り立つための最も重要な要素として最大限に敬意を表する……マーヴルが決して取ることのなかったこのような方針は、売り上げ的にも内容的にも大成功を収め、DCが一気に盛り返すことになったのであった(……そして、「DCユニヴァース:リバース」の仕掛け人にしてドラマ「フラッシュ」のプロデューサーである、我らDCファンの切り札であるジェフ・ジョンズは、遂に映画版をコントロールする権利を掌握し、来年の『ワンダーウーマン』では遂に脚本にも参加する! 本当の闘いはここからだ~!)。
……ここ数年間というもの、劣勢に立たされるDCコミックスの現状を苦々しく見つめながら、同時に、既視感にとらわれ続けてきたのは、もちろん、その構図が、日本のプロレス業界にもほとんど同じように当てはまることであったからだ。……そして、今にして思うのは、マーヴル・コミックスの「現代社会に合わせた成功の方法論」を完全に無視してDCコミックスが成功を収めたのならば、全日本プロレスに同じことができないはずはないということなのだ。
……というわけで、このブログにはプロレスそのものを単独で扱った文章はほとんどアップしてこなかったのですが、今回ばかりは……今回ばかりは……書かせていただきます! はっきり言っておきますが、私がこの文章を書くのは、ここ数年間というもの、存続そのものを危ぶまれるほどの危機的な状況にあった全日本プロレスが、起死回生のビッグマッチとして久々に進出する両国国技館に駆けつける観客を、一人でも増やしたいからなのであります!
……まあ、そうは言っても、今回のチケットの売り上げ状況を確認してみると、ここ数年の窮状を知る者にしてみれば衝撃的なまでの売れ行きを見せているわけで、そういう意味では、秋山社長が借金を抱えて路頭に迷うような、最悪の窮地は既に脱してはいるわけです。……しかし……しかし……今回の両国は……様々な偶然の状況が重なり合った結果、もはや宿命としか思えない必然に至り……四十年あまりの歴史がある全日本プロレスの過去を振り返り、一度でも思い入れを持ったことがある人間ならば、なんとしてでも駆けつけなければならない、そんな試合が、少なくとも二つは組まれているのです。もしそのことに気づいていない人がいるならば、一人でも多くの人に伝えておかなければ……
その試合として挙げられるのは、まずは、アジアタッグ選手権だ。日本プロレス界の最古のベルトであり、力道山が保持したこともある……しかし、いつからか、若手や中堅のための登竜門的な位置づけとされることが多くなったアジアタッグ。現在保持しているのは青木篤志と佐藤光留なのだが……この二人、第九十九代王者なのである。そして、最後の防衛戦を終えたとき、青木篤志が次なる挑戦者として指名したのは……まさかまさかの、渕正信&大仁田厚組……!
もちろん、この二人をチャンピオンの側が指名したこと自体は、あるはっきりとした意志の元になされた行動であるだろう。しかし、偶然と必然がどこまで絡み合っているのかわからなくなってしまい、そのことに気づいて私が動揺したのは……両国での決戦が行なわれる11月27日が、ハル薗田さんの命日の前日であることに気づいたときのことだった。
もともと全日本プロレスとは、日本プロレス内でのTV中継関連の利権などで発生したもめ事を元に独立したジャイアント馬場が旗揚げした団体だ。とはいえ、その経緯から旗揚げの時点で日本TVのバックアップがついており、日本プロレスから移ってきた多くのレスラーを受け入れることにもなった。
そういう意味では、旗揚げの段階でフレッシュさのようなものはなく日本プロレスの延長上にあるというのが全日本プロレスの実像だったのだろう。そして、そんな状況において、旗揚げ直後の全日本にあくまでも新弟子として入門した最初期の生え抜きにあたるのが、「三羽烏」などと称された渕正信と大仁田厚とハル薗田であったわけだ……(全日ファンであるにもかかわらずこのあたりの事情に関して疎いというような人は、必ず両国までに、渕さんの超・名著『我が愛しの20世紀全日本プロレス史』を読まねばならんのですよ!)。
だが、この三人は、それぞれがそれぞれ、あまりにも異なる命運をたどることになったのであった。若くして飛行機事故で亡くなったハル薗田。膝の怪我によって全日本を引退したものの、デスマッチを売り物をしたFMWを旗揚げし、日本のプロレス界でインディー団体の草分けとなり、信じ難いまでの狂い咲きを見せた大仁田厚。そして、全日本プロレスの度重なる分裂騒動・離脱騒動・トラブルなどの全てを経てもなお残留し続け、旗揚げ当初から現在までを知るただ一人のレスラーとなった、渕正信……。
もはや交わることなどなかったはずの、全日本プロレスの始まりを知る男たちの命運が、日本プロレス界の最古のベルトの第百代王座をかけて、奇跡的にもう一度だけ邂逅する……! こ、こんなことがありうるのか!?
先述した『我が愛しの20世紀全日本プロレス史』において、渕さんが20世紀の全日本プロレスのベストバウトとして挙げていたのは、94年のハンセン・馬場対三沢・小橋なのであった。あの試合は、80年代に激闘を繰り広げたジャイアント馬場とスタン・ハンセンが恩讐を乗り越えてタッグを結成し、現役バリバリの三沢と小橋に挑んでいったのだが……まさか、当の渕さんが、同じような意味合いを持つ試合に挑むことになるとは……(とりあえずリンクを下に張っておくので、見てない人は見ましょう! ……しかし、この試合、リアルタイムで見てた当時は三沢と小橋の側の視点で見てたんだけど、改めて最近になって見直したときには、小橋のパワフルなショルダータックルでなぎ倒された馬場さんが、ひどく痛そうな様子を見せつつ、「しかし、この痛みが嬉しい」というような表情を見せていて、思わず泣きそうになりました……あと、小橋のムーンサルト食らってる時点で、もう、凄いですよ! と言うしかないと思いました)。
https://www.youtube.com/watch?v=GM5Q5Xc2Pqw
私自身は、大仁田が川崎球場で大々的に実施したFMWでの引退試合に駆けつけたクチなので、今の大仁田にはモヤモヤするものがまだあるのも事実ではあるのだが……しかし、今度ばかりは、渕&大仁田組を全力で応援する……というか、今度ばかりはもうホントになんでもいいから、はぐれ全日本軍団を率いるカシンが「大仁田とは対立してたけど、よく考えたらあいつもはぐれ全日本だった!」とかいって乱入してアシストするとかのめちゃくちゃでもいいから、奪取しても防衛不可能で即日返上とか、リマッチ即奪回とかになってもいいから、とにかく、渕&大仁田で百代王座を奪取してくれ~!
……以上のようなことを書いてきたが、ここで勘違いして欲しくないのは、11・27両国は、断じて懐メロなどではないということだ。懐メロというものは、現在の状況がどのようなものであるのかにかかわらず、過去のよい思い出だけを追想することによって可能になるものだろう(一応ここで念のために付け加えておくと、現在の全日本プロレスが名称は引き継ぎつつも会社組織は移行していることを持ち出して、「今の全日本プロレスは全日本プロレスではない」などとこざかしいことをぬかす輩がいろいろなところで見受けられるので、ここではっきりと書いておく。この手の連中は、日本のプロレスのことを完全に全く何もわかっていない。全日本プロレスの本質とは何か? ――それは、PWFなのである。興行組織としての会社が変化していても、実は、「PWFが認定するタイトルを運営する」という意味での連続性は、きちんと保持されているのだ。全日本プロレスの社禝は、PWFなんじゃあ!)。
過去の出来事をふまえて現在につなげるためには、それがどれほど悲惨でありネガティヴであり目を背けたいことであろうとも、その全てをひっくるめて引き受けることしか始めるしかない。そして、現在を開拓して未来への道を切り開くためには、何らかの形で過去と対峙するしかない。
そのような意味では――全日本プロレスが積み上げた歴史に対して、異なる形で責任を果たす異なる世代の二人が、それぞれが積み上げた価値観に決着をつけるために闘わなければならない――そんな今後の全日本プロレスの分岐点としての意味を持つ試合が行なわれるのは、「ジャンボ鶴田対三沢光晴」の一戦以来のことであろう。……すなわち、それこそが、宮原健斗対諏訪魔の三冠戦なのである。
諏訪魔とは、全日本プロレスの負の遺産を全て背負い込んだ男だ。
……そもそもの話として、諏訪魔による一つの決断がなければ、三年前の時点で「全日本プロレス」という団体自体がこの世から消滅しているはずなのであった。……要は、当時全日本プロレスの経営に携わった白石オーナーが、プロレス業内を内部から見て納得のいかない部分を暴露しまくるという掟破りを敢行し、業界中からそっぽを向かれ、所属選手・スタッフは次々に離脱、団体の存続すら危ぶまれる状況で、エースである諏訪魔がいち早く残留を宣言したのであった。
あの当時の私の印象としては……白石オーナーの言動を指示するわけでは全くないが、しかし、この年代の人からこういうことを言う人が出てくるのはわかる、というものだった。と言うのも、白石オーナーは、もともとは新日ファンだったわけだ。昔から新日本プロレスの選手・スタッフ・関係者一同が口をそろえて「全日本は弱いが新日本は強い」「全日本は練習しないが新日本は練習する」などと延々延々延々延々言い続けてきたわけで、遠巻きに眺めている程度の軽めのファンがそれを真に受けたまま業界のバックステージに入り込んだら、実態があまりにも自分の聞いてきたこととかけ離れすぎているのに怒り狂って暴れ出したということなのだから、私なんかにしてみれば「そりゃ暴れるわな」と思ったのだ。
だいたい、あのころ大変なスキャンダルをもたらした白石騒動だったが、新日本のトップレスラーが堂々と諏訪魔とやり合ってボコボコにすれば白石オーナーが完全に黙り込んで一瞬で騒動が終結していたことは間違いなかったのだ。新日本が何十年もの間全日本に対して投げつけ続けてきた誹謗中傷の類に落とし前をつけ、自分たちの言ってきたことが嘘ではなかったことを示すのであればそうするほかなかったはずなのだから、過去の全てをなかったことにし目を背け何の責任もとらないのであれば、少なくとも、もはや新日本プロレスは「新日本プロレス」という団体名を掲げるべきではないと私は思う。
つまり、私としては、白石騒動というのは「新日がなかったことにして切り捨てた昔のファンの残党の怨念が引き起こしたもの」という認識なのだが、なぜそれを全日が食らわなければなかったのだろうか……
スキャンダルの渦中にあり、現在の業界中から見捨てられ、「今のレスラー」からも「今のファン」からも「今のマスコミ」からもほとんど支持を得られなかろうとも、それでも躊躇なく全日本への残留を諏訪魔が決断できたのは、過去の歩みゆえに今があるという強烈な意識を持っていたからだろう。……自分が子供の頃から見てきたプロレスというものに照らし合わせてみれば自分のファイトが間違っているとは思えないし、全日本プロレスとはそれが披露できる場所のはずだ。諏訪魔には、そんなブレない信念があるはずだが、その信念の強さこそが、「今の日本のプロレス業界」のトレンドとの折り合いのつかなさとして表れてしまうことにもなった。
結果として、スキャンダルを経てもなお全日本プロレスを見る、言い換えれば、昔からのプロレスを知る観客からは支持を得ながらも、その絶対数はじりじりと経るばかり……という、負のスパイラルに落ち込んでいくことになったのであった。
そんな、諏訪魔と「今の日本のプロレス業界」とのズレが最悪の形で露呈してしまったのが、昨年の両国国技館で開催された天龍源一郎の引退試合なのであった。80年代の全日本プロレスを牽引しつつも、結果として円満とは言えない形で去った天龍の引退試合に、現在の全日本プロレスのエースであり団体を存続させた張本人である諏訪魔が駆けつける。……ただこれだけのことでも、諏訪魔は既に手放しで賞賛されてしかるべきはずだ。しかし、この日の観客に、諏訪魔に対する敬意は微塵もなかった。
天龍自身の希望によって諏訪魔と対戦することになったのは、アントニオ猪木の秘蔵っ子であり、新日本が方針を転換していなければ今でもその中枢にいたかもしれない、藤田和之である。……そして、この両者の対決に、この日の観客は盛大な罵声を浴びせかけた……なぜなら、両者が、オーソドックスな定石通りにロックアップしてから始める小綺麗にまとまって案客も程良く楽しめる、「ありがちなプロレスのお約束」に従わなかったからだ。
両者のファイトスタイルとこの日までの経緯を知っていれば、そんな風になる試合ではないことは当たり前のことだ(……というか、この日の諏訪魔が披露したのはモロに「80年代の全日本プロレス」以外の何ものでもなかったのだから、天龍引退の日にそれをやる諏訪魔はむしろ正しい)。
天龍源一郎という希代のレスラーが積み上げてきた過去の歩みに敬意を払うための興行の日に、なぜ、「今の観客の嗜好」を無視して過去のために闘う者が罵声を浴びせられなければならないのか。諏訪魔にしろ藤田にせよ、日本のプロレスの歴史が存続するために既に大きな功績を残している男たちなのであるが、なぜ最低限の経緯すら持たない者が、恥ずかしげもなくこんな場にいられるのか。
だいたい、この日の興行は、諏訪魔と藤田が登場する以前から、私としては違和感ばかりが募るものなのであった。……リングから遠ざかっていた北原が天龍引退に合わせて姿を見せ、いいコンディションを整えてきた上でWARスペシャルまで繰り出しているのにたいして反応もせず、「ライガーのロメロスペシャル」やら「越中のヒップアタック」やら、「TVで見たことのある有名なムーヴ」を見たときにだけ、流れなど関係なく突然歓声を上げるクソども。休憩時間のBGMとして突如として「王者の魂」が流れた瞬間に私は動揺してしまったのだが、全く何の反応も示さないクソども。入れ込みすぎて興奮した結果、教科書通りのロックアップから試合を始めない諏訪魔と藤田に罵声を浴びせる一方で、その後レジェンドとして登場したスタン・ハンセンには声援を送るクソども。……ハンセンの試合なんて「そんなんばっか」だったんだから、ハンセンにも罵声を浴びせるんでなけりゃあ、テメーらのやってることの筋は通らんだろうが!
だいたい、日本のプロレスの過去の歩みを本気で尊重する気があるなら、秋山と大森がシングルで闘う時には必ず会場に駆けつけろ! そして、秋山が初めてエクスプロイダーを公開した、あのあすなろ杯決勝を思い出して涙を流せ!
過去を踏まえて今があるのではなくて、今のトレンド、今すぐに何となくその場で楽しめるノリが先にあって、過去の歴史は、現在から見て都合のいいところだけを切り張りし捏造する。それが「今の日本のプロレス業界」のトレンドなら、もうそんなもんはどうでもいい! 全日だけギリギリ存続すればいい! むしろWWEはプロレスの本質はリスペクトしてきちんと継承しようとしてるんだから、WWEが日本侵攻してくれて全然かまわない! ジョニーさん、全日だけは勘弁してそれ以外は全部滅ぼしてくれ~! ……などと、全日原理主義者じみた態度に染まっていってしまったのが、昨年の私なのであった。
まあそれはともかく、「今の日本のプロレス」との折り合いのつかなさが極限にまで表れてしまったのが、昨年の諏訪魔なのであった。年が明けるとともに三冠王座を奪回し、ここからどんなスタンスで自分のプロレスを見せていくのか……と思いきや、その三冠戦の終盤でアキレス腱を完全断裂したまま戦い抜いていたことが発覚。王座を返上し、諏訪魔は長期欠場に入る……。
全日本プロレスが混迷を極め、迷走し、リング外では暗く気が沈むニュースしかなかったこの三年間というもの、未来へとつながる希望の光をまばゆいまでに放ち続けたのは、宮原健斗という男なのであった。
ある一時期からの宮原の試合を継続して見続け、驚き続けてきたのは――それは、「人は、これほどの短期間でここまで急速に成長できるものなのか……」ということなのであった。
正面から闘えば自分にはまだまだ歯が立たない宮原を明確に格下と見なしていなしてきた諏訪魔、先輩であり同時にタッグパートナーとして、自分自身は凄まじい試合をやってのけながらも宮原を意識的に導き成長させてきたとは言い難い潮崎……そんな中、歳を取り体力も衰え、分裂騒動後の選手層も手薄な状況では第二試合や第三試合に出場することもたびたびで、しかし全力でのファイトを見せ続けてきた……そんな秋山と大森が、どう考えてもまだまだ青く未熟な宮原の成長のために体を張りまくる姿を見るにつけ、胸にこみ上げるものをおさえられなかったのだ。
もはや自分の役割を隠そうともせず、「お前が今のままじゃあ、全日本に未来はねえなあ!」などと叫びながら宮原をボコボコにしていた秋山の姿は、ほんの数年前のことのはずなのにはるか昔のことのように思えて、思い出すだけで目頭が熱くなってくる……。
そして、信じ難いまでに急速にして、信じ難いまでに高度な成長を遂げた宮原が完全にトップレスラーになり、その日のメインの勝者として興行を締めることも多くなったとき……そのときに断固として選んだのは、その日の興行に足を運んだ観客には、絶対にハッピーで楽しい気分にしかさせない、ということだったのだ。
全日本プロレスのここ数年の状況を知らない人間が見れば、宮原は単に楽天的で何も考えていない人間のように見えるかもしれない。しかし、いつもいつも暗く気が沈むニュースにしか接する機会がなく、試合そのものは優れたものを見ることができた日でさえ、未来への不安を抱えながら帰路に就く……そんな経験だけを重ねてきた全日ファンに対して、「絶対に明るく楽しい思いしかさせない」と決断することは、プロとしての自分への覚悟と揺るぎない自信がなくして、できないことだろう。……というか、少なくとも私自身の場合、この先全日が潰れるのであろうと、何があろうとも最期は絶対に看取るという思いだけを抱え、全日原理主義者として憎悪と怨念に凝り固まりつつあった淀んだ心は、宮原によって救われたんだよ。
……自分の言動が観客にどう見え、どのような影響を与えるのかを徹底して考え抜いたであろう宮原の最大の変化は、完璧なまでに緩急の変化を身につけたことであろう。若いながらも、三冠王者として貫禄たっぷりにゆっくりとアピールしつつ入場し、ひとたびリングインするや、あっという間にコーナーポストに立って見得を切ってみせる。この緩急によって観客の視線を自在に操ってみせ……そして、誰でも使うような技であったはずのシャットダウン式ジャーマン・スープレックスも、静止して溜めてから高速で反り投げるまでの緩急によって観客の視線を釘付けにし、見事、金の取れるフィニッシャーにまで昇華させた。
宮原健斗の三冠王者としての防衛記録が伸びれば延びるほど、それに合わせて全日本プロレスも勢いを取り戻してきたのである。
……そして、そんな二人が闘うのである。
本来なら後楽園ホールで決着をつけるはずだった諏訪魔と宮原の三冠戦は、諏訪魔の欠場・王座返上によって流れ、宮原が王座に就くことになった。
怪我も回復に向かい、久々に全日本プロレスの会場に姿を見せた諏訪魔が、ファンに向けての挨拶で述べた言葉は、「今の全日本プロレスへの挑戦」という謙虚な言葉だった。……もはや、諏訪魔は、宮原によって全日本プロレスの景色が変わったことを認め、その前提で戦線に復帰するというのだ。
正直なところ、私自身は……アキレス腱断裂で欠場する以前の段階で既に、諏訪魔もさすがに体力も衰え、もう以前のような闘いはできなくなっているのではないかと思っていたのだ。
分裂騒動の直後の諏訪魔が、全日ファンの内部では求心力を失わなかったのは、潮崎との間で凄まじい激闘をやってのけたからだ。しかし、潮崎が全日を退団してからというもの、諏訪魔にそれほどの激闘はなく……むしろ、私が思う「全日本プロレス」そのものを体現していたのは、諏訪魔ではなく、諏訪魔のタッグパートナーたるジョー・ドーリングなのであった。
宮原もそうなのだが、それ以前の段階で、ジョーのここ数年の覚醒ぶりは、本当に目を見張るものがあった。それはもはや、スタン・ハンセンや
ブルーザー・ブロディやスティーヴ・ウィリアムスなど、全日本プロレスの歴史を彩ってきた怪物外国人たちと同等の域にまで達しているとしか思えなかったのだ。
現在のプロレスではもはやつなぎ技としてしかほとんど使われない、クロスボディやスパインバスターの一撃でこれほどまでに血湧き肉踊るなどという経験をするなどとは、思ってもみなかった。……ジョーの試合を見るたびに、「ああ……オレンジ時代の小橋と闘わせてぇ~……」などと思い、そのカードは、私の頭の中での「あらゆる歴史を超越した全能の能力を手にしたら実現させるカード・統一ランキング」の第二位にまで浮上するに至ったのだ!(……ちなみに、不動の一位は「小橋健太対ブルーザー・ブロディ」であります……)
しかし……ジョー・ドーリングは左足の怪我によって長期欠場。ようやく復帰のめどが立ったと思いきや、土壇場で脳腫瘍が発覚、という悲劇に見舞われる……。
もちろん、ジョーの欠場を、諏訪魔が心苦しく思っていないわけがない。しかしその一方で、ジョーの欠場以来の諏訪魔のファイトが、ジョーを失った全日ファンの欠落感を埋めるものであったとも思えない。
だから、さる九月の品川大会、王道トーナメントの一回戦、もちろんノンタイトルでの諏訪魔と宮原のシングルマッチに、期待のみならず不安の気持ちもない混ぜになっていたことは否定できないのだ。だが、そこで見たものは……それは、「今の全日本プロレスへの挑戦」と述べた諏訪魔の言葉、その言葉の答えだった。
そこにあったのは、序盤から、凄まじいパワーで宮原を圧倒しまくる諏訪魔の姿だったのだ。……そう、諏訪魔は、プロレスを生業にしているにもかかわらず他のレスラーをぶっこわしてしまう、だから、相手が自分の力を受け止めきれることを確認できなければ、全力を出すことのない男だったのだ。その躊躇いこそが、諏訪魔をして熱戦と凡戦の両方を生ませることにもなっていたのだが……その底力は、いまだ健在であったのだ。
諏訪魔は、今の宮原が、自分の方から挑戦すべき相手であると認めたからこそ、序盤からフルスロットルだったのだろう。「今の宮原」がたどり着いた高みを知っているからこそ、その宮原をなす術もないままに追い込んでいく諏訪魔の圧倒的な怪物ぶりを、改めて思い知らされることになった。……そして、激闘の末に、宮原を叩きのめした諏訪魔がフィニッシャーに選んだのは……ジョー・ドーリングの技である、レボリューション・ボムだった……。
……この試合は、諏訪魔のいいところが全部出た試合だった。だがこれはあくまでもノンタイトルであり、これに続くトーナメントの初戦に過ぎなかったのも事実である。……つまり、三冠王座をかけたタイトルマッチでは、まだまだこれ以上の、こちらが言葉を失うまでの死闘を見せてくれるはず!
……かくして、全日本プロレスの過去を背負う男と、未来を担う男とが決着をつける。……正直なところ、私人の気持ちを言えば、どちらにも勝って欲しいし、どちらの負けるところも見たくない(……しかし、今度ばかりは、「カクトウギのテーマ」は聞きたくない)。にもかかわらず、ここで決着をつけなければ、全日本プロレスは先には進まない(しかし……これほどの大会場での三冠戦は本当に久しぶりなのだから、選手入場前に一回全部照明を落としての、アレをやってくれねえかなあ……両国の設備だと難しいのかなあ……でもやってくれねえかなあ……頼みますよ木原さん……)。
だが、これだけは言っておかなければならないのは……それは、諏訪魔が勝てば未来が閉ざされるのではないし、宮原が勝てば過去が消されるわけでもないということだ。少なくとも、宮原は、過去と対峙することなしには、未来へと進むことを許されてはいないのだ。過去を背負う男と未来を担う男の両者が闘わなければ今が築けないということにこそ、全日本プロレスという場所の本質がある。……つまり、この場所では、過去への追想に身を委ねる者と、未来に向けて思いを寄せる者との、どちらもが、そこにいていいのだ。
だから、我々は、この三年間がどれほど醜悪で迷走を重ね忘れたいものであったとしても、それを「暗黒時代」などと呼ぶことはないだろう。道場からアントニオ猪木の肖像を撤去するのに類するようなことは、決してなされないだろう。……少なくとも私は、例えばシングルマッチなら、分裂騒動直後での大田区体育館での、三本のベルトのままで最後にかけられた三冠戦、諏訪魔対潮崎や、2015年の年頭に後楽園ホールであったドーリング対潮崎の三冠戦を、生涯忘れることはないだろう。
しかし、だからこそ、宮原と諏訪魔にはそれを上書きしてもらわなければならないのだ。両者の死闘が、そこまでの域に達したとき――過去への思いと未来への思いとが複雑に交錯していたはずが、リングの中で形成されている「今」、今その場所にある熱気が生み出す興奮のるつぼが、観客の思いを融解させ「今」への思いだけへと飲み尽くすとき――そのときこそが、全日本プロレスが再生するときなのだ。