2006年5月29日 | 歴史
清水の映画史(7)
清水東高郷土研究部が1985年に発行した研究レポート「清水の映画」には見開きで広告のページがある。戸田書店、竹茗堂、山口楽器といった馴染み深い店が協賛広告を出している。
そのなかに、3マス分だけ戦前の色紙が縮小印刷されている。栄寿座の名前が書かれているものが2枚、場所が特定できない色紙が1枚ある。
場所が書かれていない色紙には、昭和17年3月17日東宝劇団の役者5人の名前が書かれている。たぶん、この色紙も栄寿座で書かれたものだろう。昭和17年3月といえば、真珠湾攻撃の4ヶ月後である。
その色紙の右下、日付の下に「山形勲」の名前があった。
テレビの水戸黄門をはじめ、時代劇の脇役としてお馴染みの俳優である。インターネットで調べてみると、東宝劇団を経て、1942年に山村聰らと劇団文化座を結成している。その後、200本近い映画に出演し、10年前の1996年に80歳で亡くなられた。
東宝劇団が栄寿座で色紙を書いた3ヶ月後、ミッドウェー海戦が戦われている。味噌醤油の配給制がすでに始まっていた。
そんな時代のなかで、栄寿座の舞台ではどんな演目が上演されたのだろうか。そして、舞台が終わり家路に向かう人たちはどんな気持ちで清水橋を見たのだろうか。
※ ※ ※
一週間前に、ふとしたことから清水東高郷土研究部のレポートを再読した。聞き書きの面白さを伝えたいと思い、このサイトに掲載させて頂いた。高校生の力作に、何人もの方から感想がメールやコメントで寄せられた。たくさんの方が、自分や父母の記憶のなかに埋もれていた映画館の思い出が蘇ったような興奮を感じている。こんな気持ちを引き出してくれた郷土研の労作に、改めて感謝申し上げたい。
「清水の映画史(7)」 へのコメント
裏焼きの謎を解いてくださって、ありがとうございます。
母の言い分「入り口が大黒屋さん側」というのが正解ですね。
母も喜ぶと思います。
神谷石材店さんも、当時はオペラ館の隣にあったようです。
磯さんの記事&写真で父母が、また楽しそうに笑っていました。
ありがとうございます。
今夜は我が家も「豆ご飯」です♪
2006年5月31日 | 愛林堂
戦前の清水には、敷島館、オペラ館の他に歌舞伎座、立花館、不二見座、平和館があったそうです。たぶん常設映画館ではなく、芝居が中心で時々映画の興業をやっていたようです。移動映画が盛んに行われていたという記述もあります。フィルムと器材を運び込んで上映したのでしょうね。
ただ、場所についてはよく判りません。当時のことを知っている方への、聞き取り調査を皆様にお願いします。
それから、オペラ館の写真は私も裏焼き(左右反対)かと思いました。ただ、大きな額にはいった映画の絵のなかに描かれている着物姿の男女の衿の合わせをよく見ると、左側が上、右側が下になっています。写真が裏焼きなら、衿の合わせも逆になるはずなので、この向きが正解ということになります。
余談ですが、右側の大きな幟に下に「神谷石材店」という字が読めます。清水橋の栄寿座があった側と反対側にある神谷石材店さんだと思います。大田青果店の並びです。清水橋の銘板を、ここのお店が作ったという話を聞いたことがあります。
2006年5月29日 | 磯波
こんにちは!
清水の映画史1~4までを清水在住の両親に届けてきました。
とても懐かしい!と大喜びでした。
オペラ館の写真の焼付けが裏焼きかどうかで
75際を越えた夫婦がもめてました。
元気で健在で仲が良いという事のありがたさを再確認。
ありがとうございます。
次回は5~?までを印刷して持っていこっと。
敷島館までの小道沿い右側には細い川が流れていて
建物沿いに映画のポスターが貼られていたそうです。
「へび女のでっかいやつは怖かったっけなぁ」と話してました。
歌舞伎座という劇場も戦前まではあったらしいですが・・・
常設じゃなかったのかな?
2006年5月29日 | 愛林堂
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