清水の映画史(6)

栄寿座のあった場所

●栄寿座は清水橋の袂、写真左端の秀英予備校の場所にあった

東海道線を跨ぐ陸橋の清水橋の袂に「栄寿座」あった。大映という名前で覚えている人が多いかもしれない。ここで、ガメラや大魔神が上映された。

清水には、昭和30年代に12軒の映画館があったが、昭和40年代に入ると新清水に三軒並んだ左端のセントラル劇場、中央の東宝劇場、駅前のダイヤモンド劇場、三保劇場、みなと劇場、そして栄寿座も閉館した。

任侠映画が人気を呼んだサクラ劇場も、少し遅れて閉館し、1970年頃にはオリオン座、名画座、羽衣劇場と、ボーリング場の地下にあったスカラ座の4館のみとなった。

栄寿座昭和20年代のポスターに書かれている「栄寿座」の名称は、寿の字が独特の書体になっている。今見ても、モダンだと思う。

栄寿座があった場所には、その後ミスタードーナッツの店舗が出来た。清水ではまだ珍しかった終夜営業で、旭町や巴町で呑んだ帰りにコーヒーを飲んだりしたものだった。

ミスドが清水駅近くに移り、逆に清水駅近くにあった進学予備校が巨大なビルを建設した。

【清水東高郷土研究部1985年発行「清水の映画」より】

栄寿座

 明治後期に開館した栄寿座は、初めは寄席小屋であった。上町の中川氏や小沢氏らが、他の寄席小屋を相生町にもって来て、「栄寿座」としたらしい。その後、芝居だけでなく、映画(活動写真)もしばしば上映された。「清水市史」によると、大正五年七月八・九両日に御大礼活動写真を公開、学校生徒団体観覧の申込みで盛況であったらしい。また、同年十二月七日に松井須磨子らの芸術座が、栄寿座で「お葉」を上演するのではないのかと話題になったが、「カチューシャ」「嘲笑」「布ざらし」の三本をうって江尻警察署員の胸中をかわしたとも書かれている。

 後に全国の劇場で、老朽化したものを改築するように、という呼びかけがあり、栄寿座もその一つとして命ぜられた。そして、昭和十四年に改築、株式会社清水栄寿座という映画専門館として開館した。

 昭和二十年に、大戦末期の空襲によって焼かれた。しかし二十一年栄寿座はサクラ、セントラル等とともにいち早く再建され映画と演芸の興業楊として華々しく開館した。それで間もなく栄寿座の下に劇団「ポート清水」が結成され、楠トシエらがここから巣立っていった。当時は長田徳太郎氏が支配人だった。

 その後、栄寿座は、劇団ポート清水で赤字となり、滞納によってさしおさえられ、昭和二十五年六月一日から静活の経営となった。

 映画は、山本富士子の「夜の河」、勝新太郎の座頭市シリーズ、「ガメラ」などが上映された。また、総天然色映画では、「海の征服者」などが上映された。


【清水市総務部広聴広報課1985年発行「まちの思い出」より】

0605matino-omoide.jpg栄寿座

 栄寿座が、映画・演劇場として営業し始めたのは、昭和十四年でしたね。
 映画だけじゃなく、浪花節や芝居などの演芸ものを見せる常打ち館は、そうは無かったですから、東海道筋じゃあ結構有名だったんですよ。
 楽しみの少ない時代でしたから、市民の皆さんの栄寿座への関心は相当のものでしたね、
 でも、空襲で焼かれちゃいましてね。あのときは、本当に無念に思いましたよ。
 終戦直後は、映画・演芸どころの世相ではなかったんですが、沈んだ民心を栄寿座の演芸で明るくしようって、再建の声か上がり、二十一年六月に再び開館したんです。
 そして、翌年からは、専属の劇団“ポート・シミズ”も誕生して、歌やダンスなんかも見せるようになったんです。
 一日、三回の興行なんですが、朝、木戸を開けると、お客さんがダーッと一斉に入ってくるんです。
 わたしは、営業担当でしたから、うれしい悲鳴ってとこでしたね。
 そう言えば、NHKテレビの“お笑い三人組”で人気のあった楠トシエさんは、ポート・シミズで育った人なんですよ。(昭58・5・15号)

栄寿座で上映された鞍馬天狗のポスター

●昭和28年頃の栄寿座のポスター>
(清水東高郷土研究部1985年発行「清水の映画」より)
※鞍馬天狗「黄金地獄」について興味深い解説がある

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