2006年5月27日 | 歴史
清水の映画史(5)
●オペラ館で活躍した楽士の皆さん
(清水東高郷土研究部1985年発行「清水の映画」より)
清水東高郷土研究部の「清水の映画」は、当時の関係者への聞き書きを中心にまとめた研究レポートである。
大正8年、万世橋の袂にできた「オペラ館」については、その当時、向かいで薬局を開いていた河野貞一さんに話を伺っている。
それより、数年前の1982年(昭和57)6月1日に発行された清水市の「広報しみず」の人気コーナー「まちの思い出」にも、河野さんのオペラ座の思い出が掲載されている。広報には河野さんの年齢が80歳と記載されている。お元気なら100歳をとうに超えている。
清水市広報は「お年寄りが語る楽しい思い出話としてだけでなく、昔の様子を知らない若い世代の皆さんが、”市民の生きた歴史”を知る手掛りとなれば幸いです」と、連載の意図を説明している。大切なことだと、改めて思う。
【清水東高郷土研究部1985年発行「清水の映画」より】
オペラ館
大正八年、現万世町に「オペラ館」ができた。その当時、向かいに薬局を開いていたという、河野貞一さんの話によると、とても明るく、にぎやかできれいだったということである。
開館した頃はまだ無声映画で、説明をするための弁士、そして楽士がついていた。弁士はオペラ館専属で三人、見習いが二人いたらしい。しっかりした服装で、画面の字幕を見ながらそれぞれ独特の言い回しで説明したようだ。その説明に合わせて伴奏をしたのが楽士で、二十代の男性ばかり六・七人いたという。ボックスの中に入って演奏をしていたが、客席から楽士遠の頭が見えていたようだ。演奏は管弦楽で、楽長が曲を決めた。現代劇ではピアノ、トロンボーン、トランペット、バイオリン、チェロ等を、時代劇では三味線等を使って演奏した。チャンバラ劇が多く、「元禄花見踊り」等が上映された。映画一本、だいたい一~二時間で、一日に二~三回、夕方の五時頃から上映されたという。切符売場にはテケツ(切符売り)が五人ほどいて、懐中電燈をつけて館内を案内したりもした。その他映写機の係が二人、事務員、売店の係員らが従業員であった。六・七・一月に人入りが多かったらしい。ふだんは二百~三百人、多くて五百人ほどの人が入ったという。多勢人が入ると、大入といって、大入袋をもらえた。
席は、男女別々ではなかったようだが、警察官席がスクリーソの横にあったらしい。休み時間には、夜食としてお菓子を売ったりもした。
当時の宣伝は近くの銭湯などにポスターを貼ったり、ビラを配ったりしていたようだ。また、淡谷のり子、宮城千賀子らも来たということである。
映写も大変であったらしい。カーボソの両側がプラスとマイナスとに分かれていて、火花をとばして映すらしいのだが、フィルムが可燃性であったため、誤って燃やしてしまったこともあったと、オペラ館の楽士であった山下円太郎さんも話して下さった。
昭和六年にトーキーとなり、日活・松竹などが上映された。また片岡千恵蔵他出演のショウ(芝居)もあった。そして昭和十六年十二月太平洋戦争が始まって、映画を見に行く人も少なくなる。その年にオペラ館の裏の製材の火災でオペラ館も焼けてしまった。その後、建て直して銀映座となる。最初のオペラ館の経営者は、出口さんという市会議員だったが、銀映座は、鈴木市長が経営した。その銀映座も昭和二十年四月七日の夜、空襲によって灰燼に帰した。敷島館がやはり空襲で失われるちょうど三ヶ月前のことである。
戦争中は物価も安く、米が一升十五銭の時の映画料金は、二十~三十銭だったそうである。また、映画のような娯楽よりも、「戦争の手助けをするように」という、軍国政治の力に服さざるをえなかった所もあった。そんな時代にあった「オペラ館」は、昭和十五年頃までが民衆の娯楽館として花を咲かせていたのだった。
昭和六年頃から、映画は、しだいにトーキー化され、弁士・楽士は、序々に職を失った。しかし中には、その後、映画館経営にあたった人達もいる。栄寿座の支配人であった長田徳太郎さんもその一人であり、後述紹介する高田雅之さんもその一人である。
銀映座では、はじめて、昼間の興行がされ、それが成功したので、他の映画館でも昼間の興行をはじめたという。昭和十五年には、静岡大火のために静岡市の映画館がすべて焼失したため、静岡市の人達が多勢清水に、映画を見に来るようになり、清水の映画館は大変繁盛したらしい。「電車を乗り降りする客はみんな映画の観客」と言われるほどであった。一方、栄寿座は、今まで、演劇と映画の両方を興行していたが、昭和十四年に、映画だけになり、ここに映画館としての栄寿座がはじまる。
しかし、戦火によって「銀映座」「敷島館」「立花館」「栄寿座」とすべて、焼失してしまうのである。
【清水市総務部広聴広報課1985年発行「まちの思い出」より】
オペラ館
昭和の初め、市内には映画館が五館ぐらいあったね。
万世橋のたもとの、わたしの家のまん前に“オペラ館”ていうのがあってね。みんなよく見に行きましたっけ。
あのころは、無声映画でね、画面の前に楽士がいてピアノやバイオリン、それに三味線の和洋合奏でさ、画面の動きに合わせて弁士がしゃべるんだけど、阪妻のチャンバラのときにゃあ“天国と地獄”の演奏で、チャンチャカやりましたっけ。
一・二階に座席があって、五百人ぐらい入ったですかね。
テレビはもちろんないし、みんな、映画や実演を見るのが最大の楽しみでしたから。
ここへは、いろんな役者が来たのです、実演にですよ。
片岡千恵蔵の“瞼の母”なんか最高の入りでしたね。
淡谷のり子も映画の合間に歌ったもんでした。古賀政男、葦原邦子もね、でもね、一番の人気は宮城千賀子でした。
彼女は、紫のはかまで男装をして“狸御殿”をやりましたっけ。
昭和十三年だったか十四年だったか、隣の製材所から火が出て焼けちゃって、その後に銀映館っていうのが建ったんだよ。(昭57・6・1号)
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