2006年5月26日 | 歴史
清水の映画史(4)
清水銀座を入ってすぐ右にある一方通行の道の奥に「敷島館」があった
「敷島館」は清水で最初の活動写真常設館として、明治45年10月に開館した。すでにあった栄寿座のメインは芝居で活動写真は時々上映されていただけだった。
日本に活動写真が登場したのは、明治29年から30年にかけてで、静岡県内で最初の上映は、明治30年6月の静岡市寺町若竹座だったという。
この路地の奥に「敷島館」があった。突き当たりに中華料理店がある。その後ろに見えるマンションの場所に、「名画座」があった
大正うまれの父に「敷島館」のことを聞いてみたら、「何度も行ったことがある」いう返事が返ってきた。
西伊豆で生まれ育った父は、15の歳から漁船に乗っている。駿河湾から伊豆七島が漁場で、カツオやマグロを追いかけていた。
水揚げは、清水か沼津だった。清水に水揚げすると、決まって敷島館、オペラ館に繰り出した。真珠湾攻撃の数年前である。
当時の漁船は焼き玉エンジンが多かったが、ディーゼル船もあったという。清水には造船場やドックがあったため、動力船の多くが清水に集まり、まちは活気に満ちていた。
戦前の話を、まるで昨日の出来事のように饒舌に語る。齢を重ねるなかで、忘却は避けられないが、捨て去った物を補うように、若かった頃の記憶が鮮明になるのかもしれない。
そんな父に敷島館の場所を聞くと、清水銀座の入口の路地を入った左側だという。江尻自治会が発行した資料には路地の突き当たりという図があるが、父の記憶では、道路の横にあったという。
現在、路地の正面には中華料理店があり、その隣には割烹の大花がある。庵原まで続いていた軽便鉄道の始発駅が、この辺りにあったはずだ。
突き当たりではなく横と言っても、どの場所なのか特定できる目印のようなものはない。路地の横にある駐車場が、その場所かもしれないと勝って思いこんで見渡すと、「銀座1」と書かれた地名案内があった。
番地の割り振りは歴史的価値ではなく、郵便配達の利便性で付けていることは知っているのだが、清水で最初の映画館には「銀座1番」が似合っている。そんな気がしてならない。
【清水東高郷土研究部1985年発行「清水の映画」より】
敷島館
平屋で地味な装いの江尻実業銀行(現清水銀座通り)があり、その隣の小路の奥に活動写真館「敷島館」があった。これは実業銀行頭取の庵原の西ヶ谷可吉さんと天野藤十郎さん、それと浩東といった沢口竹造さん共同で建設し、活動写真の先鞭をつけた。開館は明治四十五年十月で、この時代に活動写真館というものは珍しかったので、成績は良かったらしい。
概略を記せば、木造建築で館内は広く、映写幕を張ってあった舞台下に音楽席を設け、他土間全部に長椅子を並べて観客席とし、後方に警官席等もあった。二階は畳を敷いてこれも観客席で丁度四角な館内も角から見る様で広く見えた。最初は大人三銭、子供二銭で三人十銭の時もあり、特別興行といっては漸次値が上がった。又、ライオソ歯ミガキが売り初めの宣伝のため大袋を買うと無料入場、小袋二個でも入れたものだった。一週間毎に上映種目が変わる。すると楽隊を先頭に縦長の幟(のぼり)五本か六本を子供にかつがせて町廻りをした。その子どもたちは後で一人十銭と入場券がもらえた。上映したものは、洋画では「名金」「ジゴマ」、動物の多く出た「無人の都」「ターザン」等子供を無中にさせた。この伴奏に魅力があり、すぐに覚えられた。日本の物は時代劇といわず旧劇といった。目玉こと尾上松之助に人気があり、赤穂義士伝、幕末もの忍術もの。現代物は新派悲劇といい、「己が罪」「不如帰」「金色夜叉」等で涙を誘った。子供心を捉えたものは連続物であった。
無声映画だったので、映し出された画面に合わせてピアノ、バイオリン、三味線、太鼓とか色々な伴奏を使った。又説明はスクリーンの左下の暗い場所に台を置き、覆いの燈を囲み、台本に従って行い、台詞も付けた。下田増太郎、長田徳太郎、杉田遙堂といった弁士が登場し、時には女流弁士もあり人気を博した。
この敷島館に営業を始めたばかりの山口楽器店がピアノを初めて納めた。夕方になると二階の窓から客寄せのためラッパを吹き楽隊が奏し四辺一帯の空気をかき立てた。しかしながらトーキーの時代となり、又戦時的濃厚となるに及びいつしか衰退を感じさせ、加えて惜しくも昭和二十年七月七日の清水空襲により、灰燼に帰した。
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