2006年5月22日 | 歴史
清水の映画史(3)
●左側のトラックと三階建ての新宿横丁との間に「オペラ館」があったという。500人が入ったという映画館があった場所とは信じがたい狭さだ。右側に見える横断歩道の奥に万世橋がある
明治45年10月、江尻に建てられた「敷島館」が清水で最初の活動写真常設館である。その8年後、万世橋の袂に「オペラ館」が建てられた。
オペラ館があった場所を訪ねてみた。巴町の商店街から、日用雑貨の富士屋の角を曲がると正面に万世橋(よろずよばし)がある。富士屋の隣には松浦砂利店のトラックが停まっている。
当時の面影になるような物は何もない。
新宿横丁と書かれたビルの向かえに赤ん坊を抱いて椅子に座っている年輩の方がいたので、「オペラ館の場所を探しているのですが」と、聞いてみた。
すると、正面を指さして「あの家だ」という。指先の方角には、新宿横丁のビルと民家がある。「あのビルですか」と聞くと、「その横の家だ」という返事が。
タイル張りの新しい民家の場所に、オペラ館があった。オペラ館の斜め向かえには銭湯があったという。
東高郷土研究部のレポートによれば、大正8年に建てられたオペラ館は、開館当時は無声映画で、専属の弁士が3人、見習いが2人、伴奏の楽士は6、7人もいたという。また、切符売場には「テケツ」と呼ばれた売り子が5人もいて、懐中電灯をつけて館内に案内していた。その他に、映写技師が2人、事務員、売店の売り子もいた。
客は、普段で200~300人、多い時は500人も入った。淡谷のり子、宮城千賀子、片岡千恵蔵も来館したという。
オペラ館は、昭和16年に裏の製材の火事で焼けた。その後、建て直され「銀映座」となったが、昭和20年4月7日の空襲で焼け落ちた。江尻の敷島館は、その3ヶ月後、7月7日の清水空襲で焼かれ、戦前からの映画館がすべて消えた。
●たくさんの人たちが、「万世橋」を渡って活動写真を見にきたのだろう。
●「オペラ館があった場所」をALPSLABで見る[map_tb:35/0/31.678,138/29/25.050]
「清水の映画史(3)」 へのコメント
大正生まれの父に敷島館やオペラ館のことを聞いてみたら、何度も行ったという返事が返ってきました。
たぶん、父が16か17の頃だったと思います。西伊豆の田子から水揚げや船の修理などで清水へ来たときに、何度も活動写真を見たといいます。
その頃は、焼津や御前崎の方からも漁師が清水に集まってきて、映画館や酒場はすごい人出だったそうです。西伊豆の村から見ると、清水は大都会だったのでしょう。
今は、オペラ館に続いて「敷島館」の場所について調べはじめています。映画館の話はまだまだ続きますよ・・・・。
2006年5月24日 | 磯波
島崎おいべっさんに続き、また日記におじゃまします。
このところの映画館シリーズ楽しく読ませていただいております。
昨日、清水に帰省した際に磯谷さんの日記の話をしました。
私の記憶にあるのは新清水駅東側の「東映」と西側の「オリオン座」だけなのですが、
昭和ヒトケタ生まれの父母は映画好きという事もあり
オペラ館が洋風名称がNGとなり銀栄座に名称を変えた話、
敷島館、オペラ館のモギリのおばさん達の話、佐竹さんの話。
後藤缶詰さんの土地にオリオン座が出来たやら・・・・
親戚にあたる伊藤さんが作ったサクラ劇場。
出るわ、出るわ「映画館通り」の関連バナシ。
その頃、巴町商店街は人通りもにぎやかで、
各商店は「夜10時に終わる映画館の客がひけるまでお店を開けておく」と決め
我が家の祖母も張り切って本屋を開いていたようです。
父母のデートコースでもあった「映画館通り」
次回、清水に行く際は磯谷さんの日記を印刷して見せてこようと思ってます。
「大好き清水」のいろんな話、今後ともよろしくお願いします。
2006年5月24日 | 愛林堂
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