清水の映画史(2)

0605cinema00.jpg清水東高郷土研究部が1985年に発表した研究レポート「清水の映画-映画史の試み-」には戦前から昭和40年代までの映画館の変遷が詳しく書かれている。

昭和40年代に高校生だった世代にとっては地図を見るだけで、あの時代の記憶が蘇り、静かな興奮すら感じる。

記憶を鮮明にすることは、自分たちが育った町の成り立ちを確認する作業とも言える。たまらなく楽しい、その作業を続けよう。

清水東高郷土研究部のレポートには昭和22年頃の映画館が地図で示されている。
昭和22年、清水の映画館

【清水東高郷土研究部1985年発行「清水の映画」より】

 終戦当時、清水は焼け野原で、食料も満足にない状態であった。現在のホテルサンルートの裏の辺りには、歓楽街があり、遊廓も多く、アメリカ占領政策によって上陸してきた米軍人や、いわゆる昔風のやくざや、チンピラがあふれ、治安はみだれていた。

 そんな中で、少しでもこの荒れ果てた民衆の心をやわらげようと、県警より、慰安として、活動写真(映画)が取り上げられ、その興行の要請がかかった。そこで、当時の映画館主たちはフィルム、映写機などを持っては各町内をまわり、寺社などで、無料公演をした。

 そのうち、この館主達は、現浜田小学校の近くに、木工所の建て物を改築して清水共同劇場というのを作った。つまり、新しい映画館ができるまでの、館主による共同経営の仮小屋である。また、旭町の貧乏えびすの近くでもこの頃仮興行をしたらしい。

 この後、最も早くに再建されたのが「栄寿座」である。そして、この頃、長田徳太郎支配人のもとに、劇団ポートシミズが、結成されたのである。

 一方、伊藤鉄工所では、映画館を建てるための木材など材料がそろっていたので、県警より、要請をうけて映画館を建てることになった。そこで、まず、高坂武夫氏代表のもとに、清水興業ができ、この会社が、昭和二十一年「サクラ劇場」を建設した。

 最初の映画は「佐渡情話」で上映の前日から観客が、映画館の前でむしろをひいて待ったと、当時支配人であった吉田省三氏の弟の佐竹弘光氏が語ってくれた。(佐竹氏は、昭和三十年以降のサクラ劇場の支配人でもある方で、以下は、全て、佐竹氏の話によるものである。)

 サクラ劇場に続いて「セソトラル劇場」が清水興業によって建てられた。支配人は、サクラと同じ吉田省三氏であったが、一時、静岡活動写真株式会社に借した時もあった。また、栄寿座は、昭和二十五年に赤字のため静活経営に変わり、その後まもなくセソトラル劇場の支配人は長田氏となるのである。
 セントラルに続いて「東宝劇場」(松沼清支配人)「ダイヤモンド劇場」(杉山栄男支配人)が建てられた。よって昭和二十年代に清水には計五つの、映画館があったのである。

サクラ劇場:洋画→東映
  時々、アトラクション(例えばお化けの実演)なども行う
東宝劇場:東宝映画、ヨーロツパ映画
セントラル劇場:松竹
  洋画(ユニバーサル映画など)
ダイヤモンド劇場:洋画(ワーナー映画など)邦画
栄寿座:演劇+映画→映画
  松竹、洋画、大映

 昭和三十年から四十年にかけて、第一回、映画黄金時代がおとずれた。この頃、清水には、次にあげるように、たくさんの映画館が共存していた。

 清水松竹劇場:松竹・日活映画(石原裕次郎作品など、清水ロケあり)
 清水オリオン座:洋画
 清水名画座:(佐藤薫氏建設)
 羽衣劇場:静活
 三保劇場:邦画二番館
 みなと劇場:東映一番館(古田省三氏建設)
 開清館:興津(常設館ではない)

オリオン、松竹、名画座、羽衣は、静活の直営館であり、松竹、オリオンの最初の支配人は大畑登氏であった。また、この頃の新館は、コソパクトな二番、三番をこなす映画館であったが、松竹、オリオンは、清水における最初の鉄筋建築であった。

 また、戦後は一本立てであったが、昭和三十年頃から一番館は二本立てとなっていった。封切り館としては、東映が、最初に二本立てとなり、これは、一週間ごとに変えられた。

0605cinema.gif

「清水の映画史(2)」 へのコメント

僕が東映サクラ劇場でバイトしていたのは高校時代(今から30年前)。その時の支配人が佐竹弘光氏だと思います。もうおじいちゃんで、その奥さん?が劇場を仕切っていました。又、息子さんも劇場の仕事に携わっていたと思います。
もう一度佐竹さんに会いたいと思っています。
本当にお世話になりました。

2006年5月23日 | MARUMA

コメントをお書き下さい