清水の映画史(1)

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新聞の切り抜きやパンフレットなどは分類保管すると決めているのだが、悲しいかな未分類未整理の資料を放り込んだ箱ばかり増えている。無造作に積み上げられた箱のひとつを開けてみたら、「風土」と題された冊子が出てきた。

清水東高郷土研究部が1985年に発行した会報である。どこで入手したのか覚えていないが、21年前の文化祭に出かけたのかもしれない。

「清水の映画 -映画史の試み-」と題された研究レポートは、大正から始まる清水の映画館の歴史を調査している。

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昭和21年に完成した栄寿座。写真の手前に見える市内電車の線路が路面に埋設されていないのが判る。現在は、ここに進学予備校の大きなビルがある。

そのなかに、昭和30年から40年の映画館の地図があった。この地図には描かれていないが、邦画二番館の「三保劇場」と、常設館ではなかった興津の「開情館」が文面で紹介されている。

昭和30年代、清水には12の映画館があったことになる。

清水駅前のダイヤモンド劇場、江尻の名画座、清水橋の栄寿座、新清水の三軒並んだセントラル、東宝、サクラ、万世町のオリオン座と松竹、港橋の羽衣劇場とみなと劇場、三保の三保劇場、興津の開情館。(三保劇場と開情館は常設館ではなかったようだ)

郷土研究会のレポートに、昭和30年の大晦日にサクラ劇場で初めて試みたオールナイトの顛末が紹介されている。

0605cinema5.jpg入場券を求める人が4、5列に並び市役所のあたりまで続いたというから驚きだ。通常の入口だけでは入りきれず、非常口や事務所入口も開放して客を入れた。料金は100円。100円札があった時代だ。

客席は424だったのに、1800枚の入場券を販売したため、廊下まで人が溢れ、手を挙げたらそのまま下ろせない状態だった。そんな超満員で夜の10時から朝の5時半まで5本の映画が上映された。まさに、娯楽の王様、日本映画の黄金時代である。

郷土研のレポートは、テレビの登場による映画の衰退は直線的ではなかったことを説明する。

東京オリンピック以降の衰退のなかで、テレビに対抗して作られた高倉健、鶴田浩二のシリーズ物は固定客を生み出し、満席になることもあった。しかし、ボーリングブームが起こり、清水では見られなかったが、全国的には映画館からボーリング場への転身が多発した。客離れと映画館そのものの減少で日本映画の没落が決定的になったという。


東高の郷土研究部が2000年に発表した「失われたリゾート 清水袖師海水浴場」は力作だ。この他に「巴川」「清水次郎長」などのレポートも発表されているという。

東高HPの部活紹介では「現在一人のみ。部の存続危機にある」と記されている。しかし、数年前から休部状態が続いているという話もある。

部外者の一方的な思い入れで申し訳ないが、研究レポートの発表が続けられることを願わずにはいられない。

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「みなと劇場」の場所は次郎長通り入口から西に80mほど行った現「池元」にあった。「羽衣劇場」は清水銀行本店から50m南にある携帯ショップの場所になる。

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オペラ館は、万世橋の袂にあった。敷島館はアイスの高田の裏のようだ。電車の線路がさつき通りを抜けて、新世界まで伸びている。当時は波止場まで線路があった。

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※オペラ館の写真は、看板に描かれている着物の衿は左が上になっていますので、幟が裏側から撮影され左右が反対のように見えるだけです。また、看板右側に●●●場という文字が読みとれます。【部分拡大】

栄寿座の写真と映画館の地図は「風土第17号」(1985年6月・清水東高校郷土研究部発行)に掲載されたものを紹介させて頂いた。顧問の肥田正巳先生はじめ、郷土研究部の皆さんの努力に拍手を。

「清水の映画史(1)」 へのコメント

2年前の記事ですが、確認したいことがあってコメントします。私は1951年生れ、真砂町に住んでいましたが、「昭和30年頃」の図にあるセントラルは日活の封切館でした。名画座の位置は道の反対側にありました。最後はピンク映画専門になりましたね。
「ウッドストック」はスカラ座で観た記憶があります。
今ではどうでもいいことですが、子供の頃、栄寿座でキップのもぎりをしていた女性が次郎長の子分28人衆の一人の孫だという噂を聞いたことがあります。
ほんとに、どうでもいいことばかりで失礼しました。

2008年8月13日 | たつ

2年ぶりにコメントがアップされていたので、目にとまり思わず書き込んでしまいました。
郷土研究部の冊子は85年度発行というから、たぶん私が卒業した直後ということになります。当時顧問をされていた肥田先生は恩師で、世界史を教えていただきました。私が日本史より世界史に興味を持ったのは先生のおかげです。おそらく定年退職されたとは思いますが。今はどうしていらっしゃるのでしょうか。本題と関係なくてすみません。

2008年8月 2日 | あかくま

>「「みなと劇場」は父親の証言によれば、港橋から西へ山田医院からさらに80mほどいった右に、現在は「現代料理 池元」があるマンションのところにあったそうです。昭和30年代で終わったそうですが、建物の箱はそのままで石割スーパーになりました。」

モスラが公開されたころはまだあったかと思います。
父にせがんでみにいこうとして、確か休館日で静岡の
方まで見に行こうとしました。私が小学校1年か2年でしょうか。そのあと数年でスーパーになったのを覚えています。


電車通りに面したオリオン座は、ちょうど真ん中あたりに
通路口の真上にあたる席があって、その上の席は
前をさえぎるものがなくてお気に入りでした。日曜の
朝そこに座れたりするとうれしかったです。
今は昔。

2008年8月 1日 | 石川

オリオンで上映された「レットイットビー」は「ウッドストック」と二本立てだった記憶があります。

郷土研究部のレポートの続きを次ページに書きましたが、新清水の三軒ならんだ映画館の左端にあったセントラルは松竹系列だったのですね。

2006年5月21日 | 磯波

オリオン座は2階だったんですね。もうすっかり忘れてました。『メアリーポピンズ』や『レットイットビー』を見た日のことは生々しく覚えているのに。
 大映→栄寿座、松竹→松竹、東宝→東宝、新東宝→ダイヤ(多分)、となると東映と日活はどこだったんでしょう。これに、あのおしゃれなスカラ座が加わると最盛期には13の小屋だったんでしょうか。それがゼロになっちゃうんだから、伝統(??)の東高映画部が消えてもおかしくはないか。うーん。
 確かに映画館って意外に小さいです。広く感じるのは暗闇のマジックでしょう。京都では千本中立売りのあやしげな路地の奥に映画館やらストリップの並ぶ界隈がありました。大阪だと新世界、神戸では新開地。路地の奥の小さな小屋というのは、わくわく感があってよかったんですが、今はほとんど残ってないかなあ。地方の繁華街を歩いて、路地裏にそういう映画館遺跡を見つけるのも面白く、というか村松友視の編集した本にそういうのがありましたね。

 というわけで映画館の次は、ぜひ昭和40年電車通り商店マップまとめてくりょう~>郷土史研究家の皆様

2006年5月20日 | 真丹後

八さんありがとう。説明文を訂正しました。

敷島館は明治45年10月に開館しています。大正元年には敷島館を含め静岡県内に三カ所の活動写真常設館があったといいます。地図を見て、あんな狭い路地の奥に映画館があったのかと驚きます。

検索で「敷島館」を調べたら、創業者の曾孫にあたる方のサイトがありました。清水現代史の貴重な資料が満載です。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~jaya/shikisima.htm

2006年5月20日 | 磯波

「みなと劇場」は父親の証言によれば、港橋から西へ山田医院からさらに80mほどいった右に、現在は「現代料理 池元」があるマンションのところにあったそうです。昭和30年代で終わったそうですが、建物の箱はそのままで石割スーパーになりました。
 羽衣劇場ですが、「なすび」の所は映画館ではなく、ギリシャ建築風の静銀の建物がぼくの記憶にも印象的に残っています。で、これも父親の証言ですが、映画館はさつき通りをもう少し北に進み清水銀行本店の手前にあるガソリンスタンドのもう少し手前「フリーウェーブ(携帯S)」のあたりにあったとのことです。

広報しみず「まちの思い出」の16Pにある古老の回想に寄れば、オペラ館」は万世橋の袂に昭和13、4年ころまであり、隣の木材所のもらい火で消滅後、「銀映館」が建ったとあります。
父親によれば、その銀映館なら万世橋の袂の銭湯(富士の湯?)の筋向えにあったそうです。

ついで。
 江尻地区まちづくり委員会「江尻」(昭59)によれば、敷島館は、踏み切りから清水銀座に入ってすぐ右、現在の「支那そば りょう」の手前の携帯ショップ2軒の間の路地を入った突き当たりにあった様です。あっ!それってアイスクリーム屋の裏ってことですね(笑)。

今その跡地を覗くと「え~こんなところにぃ?!」と思いますが、どこも小劇場って感じの映画館だったんですね。(八)

2006年5月20日 | 僕も東高郷研に入りたい!

清水にたくさんの映画館があって、小中高学校の頃よく観に行ったことを思い出しました。ガメラや大魔神をやっていたのは栄寿座といったんですね。わたしは大映と呼んでいましたが、大映って映画会社の名前ですよね。ウンウン、「栄寿座」覚えておきます。
東宝では夏休みの前になると、割引券を学校で配り、開館前から行列しました。私は路面電車で出かけ、いつも3番目以内に並んだっけ。あの頃の熱心さがあれば違った道に行っていたかも・・・。
それから松竹は半地下の入り口でドリフやクレージーキャッツがかかり、やんちゃな中学生だった私は裏の鍵の架かっていない非常口から入って映画を観ました。ある日2階のオリオン座で試みて、失敗しそれから止めましたけど・・・。関係者の方、ごめんなさい。
とても懐かしい思い出です。

2006年5月19日 | 嶺の子

新清水に三軒並んでいた映画館で最後に閉めたのはサクラ劇場だったそうです。MARUMAさんはサクラ劇場の証人かもしれません。

現役生徒に、郷土研究部のことを聞いてみたら、看板だけ残っているが部員なしの状態だそうです。

学校のHPの部活動紹介に、平成15年度のテーマは「地元の有力企業」について調べると書かれています。16年度から休眠状態に入ったのかもしれません。

映画部のことも聞いてみたら「そんな部聞いたことない」とそっけない返事が返ってきました。もっと前に廃部になってしまったのでしょうか。

古い話ですが、東高映画部が70年の文化祭で発表した8ミリ映画のナレーションを南高放送部(MBC)が担当してます。録音は南高でやりました。戦争と平和がテーマのドキュメンタリー作品でした。

東高映画部に友人がいまして、私がいた南高放送部と共同制作しようということになり、学校に許可願いを出したことがあります。

南高は「いいだろう」ということになったのですが、東高は駄目で共同制作は幻となりました。でも、実際には一緒に作ってました。

映画のなかで、レッドツェッペリンのファーストアルバムに入っていたBabe I'm Gonna Leave You が流れていたのを覚えています。

2006年5月19日 | 磯波

すばらしー。
僕が東映サクラ劇場でバイト(高校時代・昭和51~54年)していた頃はそんなに映画館があるとは知りませんでした。
地図によると僕の知る限りではオリオン座と名画座は電車近くにあったのは知っています。サクラ劇場の横に東宝があったのは何となく聞いた覚えがあります。

2006年5月19日 | MARUMA

おお!これはすごい!えらい宝物を発掘されましたね。
海水浴場レポートは優秀な出来でしたし、この映画館調査も立派なものだなあ。こういう社会史、風俗史を高校生が行なったとは。ほんと”えらい”と褒めてやりたい。
でも、このレポートの著者はもう40前のおじさんになってるわけで、どうしてるのか。
郷土史研究会とか新聞部とか、文系クラブはどこでも冬の時代なので、東高のそれがどうなってるのか心配です。わが映画部はどうなってるのかなあ。

2006年5月19日 | 真丹後

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