医師から聞いたときは、目の前が真っ暗に
神奈川県の前田綾子さん(仮名)は、18歳だった高校2年生のとき、潰瘍性大腸炎と診断されました。大腸の内側の広い範囲に炎症がおきたり潰瘍ができたりする難病で、激しい腹痛と下痢が一日中続きます。通学途中、自宅からバス停まで歩く10分間にも激しい腹痛に襲われて動けなくなったり、卒業後、就職先の会社に通うのにも何時間も前に電車に乗って、途中何度もトイレに入り、腹痛をがまんするといった生活が続きました。
そんな前田さんにとって救いとなったのが、医師から処方されたアザチオプリンという薬でした。
苦しみ続けた症状がようやく改善。資格を取得する専門学校に通い始めたり、交際中の男性との結婚も考え始めたりすることができるようになったといいます。ところが、結婚の事を医師に話したところ「飲んでいる薬は、『妊婦禁忌薬』だから、妊娠すると胎児に異常が出るおそれがある」と告げられたのです。「子どもを産みたいという気持ちがあったのでとてもショックで、どうすればいいのかわからなかった」と前田さんは、当時の気持ちを話します。
前田さんは、その後25歳で結婚。どうしても子どもが欲しいと、薬を飲むのを止めました。すると再び症状が悪化。激しい腹痛に襲われ入退院を繰り返すようになりました。
「この薬を飲んでから体調がよかったのに、この薬を飲んでいては妊娠はできないっていうふうに言われ、いったい、どうしたらいいのか」前田さんは、何年も悩み続けたと言います。
「禁忌」に悩む女性たち
東京・世田谷区の国立成育医療研究センターにある「妊娠と薬情報センター」には、薬を飲んだものの赤ちゃんに影響はないのか、不安になった妊婦からの相談が年間およそ2000件寄せられています。持病の治療に禁忌薬の服用が欠かせないため、妊娠を諦めるべきかという相談も少なくありません。
妊娠と薬情報センターの村島温子センター長は「薬への不安が原因で中絶したという人は最近でもいて、決して昔の話ではありません。飲んでいた薬が妊婦禁忌薬だったと知り、本人のみならず家族までが過度に心配して、妊娠継続を諦める方向に行ってしまうこともある」と指摘します。
海外と比べて多い「禁忌」
「妊婦禁忌」は、動物実験などのデータをもとに胎児への影響の可能性があると判断した場合、製薬会社が薬の添付文書に記載します。しかし、日本では海外に比べ、妊婦の禁忌薬が多いと指摘する専門家がいます。筑波大学の濱田洋実教授です。
濱田教授は、日本とアメリカで使われている心臓病など循環器系の薬400種類を対象に調査。その結果、日本で禁忌とされていた薬は、このうち102種類だったのに、アメリカでは5分の1の18種類しかありませんでした。
濱田教授は、アメリカには、市販後も妊婦への影響についてデータを集めるシステムがあり、顕著な影響が認められないものは、その後禁忌を外すことがあるといいます。また治療の必要性から妊婦が使用する可能性のある妊婦禁忌薬については、医師が処方してもよいかどうか判断できるよう薬の添付文書に詳細なデータが記載してあるケースが多いということです。
濱田教授は、日本は『安全とはいえないから禁忌』、アメリカは『安全とはいえないから慎重に使いなさい』という文化の違いもあるとしたうえで、「妊娠中に外国では普通に使っているのに、日本では使っていない薬がある。薬で健康が維持できて、元気な赤ちゃんを産めるのに、その恩恵にあずかれない日本人がいるのは大問題だ」と警鐘を鳴らしています。
しわ寄せは現場の医師と患者に
妊婦禁忌薬を服用し、子どもは持てないと悩んでいた前田綾子さん。その後、なんとか子どもを持つ方法はないか病院を探しまわり、ある医師と出会いました。病気を抱える妊婦を数多く診察してきた、横浜市立大学付属市民総合医療センターの国崎玲子医師です。
国崎医師は、海外の診療ガイドラインや論文を調べ、多くの妊婦に投与されたものの胎児への影響は認められなかったり、海外では学会のガイドラインで、逆に服用が推奨されている妊婦禁忌薬については、患者と相談のうえ、投与しています。国崎医師のもとでは、前田さんと同じような腸の難病に苦しむ女性が、これまでに300人近く薬を飲みながら出産していました。
前田さんは、「薬=妊娠できないと思っていたのに、この病院では薬を飲んで出産している人がいると言われて驚いた」といいます。
国崎医師は、「日本の添付文書はいつまでたっても動物実験のデータを根拠に禁忌にしたまま、そのあとの人間のデータをきちんと取り入れていません。患者は薬が『禁忌』であることで、あたかも悪いことをしているかのように、妊娠中に自分を責めながら薬を飲んでいます。もしその根拠が希薄なものだったら、患者を病気以外のところで苦しめているということになるんです」と指摘しています。
前田さんは、国崎医師と出会った1年後に妊娠。無事に男の子を出産することができました。「病気をもちながらも妊娠を希望している人が、薬のせいで諦めざるをえない状況に追い込まれているとしたら、元気に産んでいる人もいるよと伝えたい」と前田さんは話しています。
始まった「禁忌」の見直し
「妊婦禁忌薬」なのに、妊婦が服用したことで、逆に無事出産が出来ている。こうした現場とのギャップを埋めようと、国も動き始めました。厚生労働省は、妊婦にとって必要な薬の中で、禁忌を外すべきものがあるかどうか、国立成育医療研究センターに委託し、11月から検討を進めています。前田さんが服用していたアザチオプリンのほか、腎臓の病気のコントロールや再生不良性貧血などの難病治療にも使われるシクロスポリン、こう原病治療などに使われるタクロリムス水和物の3種類の薬について年内に結論を出すことになっています。
大前提として妊娠中に不必要な薬は飲むべきではなく、実際に赤ちゃんの先天異常が起きる可能性がわかっている薬はあります。飲まずにすむなら、それにこしたことはありません。
日本で禁忌薬が多いのは過去におきた薬害が背景にあると言われますが、禁忌を外すことに対して、製薬会社が少し慎重になりすぎているのではないかと指摘する声が専門家からはあがっています。
一方、アメリカでは、たとえリスクがあっても患者にとってのメリットもよく見ようという姿勢の違いがあります。必要な薬を服用して、母親の体調を整えることが、赤ちゃんのメリットになるという考え方です。
薬を飲まなくてはいけない人にとって「禁忌」というのはとても重い言葉です。病気と闘いながら妊娠を希望する女性、そして現場の医師にも、薬のメリットとデメリットが的確に伝わり、希望する妊娠・出産を支援できるよう、改善を進めて欲しいと思います。
- 科学文化部
- 信藤敦子 記者