新聞には、恣意的に作られた世界観があり、それを読んで育つ私たちは無意識のうちにそれが自分にとっての世界だと考えるようになる。
デジタル化を支援する職に就いている私は、このメディアの特性を今更ながら意識し始めた。最近のデジタルの新聞ではなく、いわゆる紙媒体の新聞のことである。
一面(フロント)にどんなニュースを持ってくるか、どの大きさで掲載するか、政治を経済を株価情報を国際面を社会面を何面に持ってくるか――。そのレイアウトや記事の大きさがそのまま読み手に伝わり、誤解を恐れずに言えば、それが日本国民の世界観となる。
20年も前、外国に住んで欧州の人たちと話したとき、自分は彼らにとっての重要事項である中東問題をあまり意識してこなかったことを知った。当時の日本の新聞では、あまり触れられることのない話題であった。日本において、少なくともそのときには重要性が乏しかったのだと思う。
欧州の新聞は欧州の重要事項を中心に据える。米国の新聞は米国を、日本の新聞は日本を中心とする。そのうえで、それぞれの新聞は世の中を見渡すための世界観を持っている。それはそれぞれのコミュニティー全体で共有されていた。
最近、キュレーションメディアの人気が高まっている。ウェブ上の数々の媒体やコンテンツから特定のテーマごとに編集し公開するサービスだ。
これは伝統的な新聞とは対極にある情報提供の仕方であり、一人ひとりの読者に興味や関心がある情報だけが提供されている。つまり他の人と共通する世界観は提供されず、好きな情報だけを消費することになる。
これは仕方のないことだ。私たちは情報が氾濫する時代に生きている。すべての情報を消費できるわけもなく、興味や関心を持てるコンテンツだけを隙間の時間を使って読むことになる。
この状況は、私が米国留学を終えてシリコンバレーでコンサルティング会社を立ち上げたころの状況とよく似ている。
私は当時、ウォール・ストリート・ジャーナルという米国の経済新聞を購読していた。もちろんデジタル版である。この媒体の技術系の記事は私の仕事にとても役に立っており、私は積極的にそれを読んでいた。
ウォール・ストリート・ジャーナルは米国の新聞社のうちで最も早くデジタル化に取り組んでいた。他の新聞社がウェブの媒体に押されて勢いをなくすなか、唯一、成長路線を歩み、一般紙を含めた中でも購読者数でトップに躍り出た。
1990年代半ば、ウォール・ストリート・ジャーナルのデジタル版の使い勝手の良さは群を抜いていた。自分が興味がある題材だけをあらかじめカスタマイズしておけば、毎朝、自分のメールの受信箱にそのカテゴリーの新聞記事のタイトルとリンクが届くという仕組みであった。いわば、単一の新聞によるキュレーションである。
そのころの私はとにかく調査のために多くの文献を読まねばならず、英語漬けの毎日だった。カスタマイズする記事は当然のように技術系の記事だけにしていた。私はとにかく技術系の記事だけを読みまくり、技術にたけた人になった。
同時に米国の政治や経済の記事に触れることのない日々が続いた。その結果として、総合的な情報がほとんどわからない偏った人になっていた。
好きなものだけを選別して消費する時代が訪れている。好きなものだけが届くからますます好きになり、詳しくなる。好きでないものは目に触れることがなくなり、どんどん縁遠くなっていく。
キュレーションがいいか悪いかはこのコラムの論点ではない。だが、キュレーションというメディアは、従来とは異なった種類の人を作り出すことを指摘しておきたい。
[日経産業新聞2016年11月17日付]