1614年の「大坂冬の陣」で真田信繁(幸村)が立てこもり、徳川方に大損害を与えたという大坂城の防御施設・真田丸。今年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった。その実像をめぐる議論が活発になっている。
慶長19年10月(1614年11月)。関ケ原の戦いの後、紀州(今の和歌山県)の九度山に追放された真田信繁が、徳川家康の大軍との決戦が迫った大坂城に入った。上町台地の北の端に位置し、北と東西を川に囲まれた大坂城だったが、台地上を南から攻められる懸念がある。そこで信繁は、城下町を囲む「総構(そうがまえ)」の堀の南に出城を築いた。それが「真田丸」だ。
12月4日。前田利常、井伊直孝、松平忠直らが率いる徳川軍が真田丸を攻めたが、上下2段になった塀にすき間なく並んだ鉄砲の猛反撃で、大きな被害を出した。当時の公家や僧侶の日記の記述から、死傷者は数千人とも1万人とも推定されている。
真田丸はどこにあったのか。その場所については、三光神社や旧日本軍の真田山陸軍墓地がある丘陵ではないかとされてきた。しかし、近年では古地図の地名の検討などから、実は「真田山」とはその西の丘陵だったと判明。現在の大阪明星学園がある場所が真田丸の中心部だったとの見方が定説になりつつある。
■半円形か、四角か
「形」を巡っては説が分かれる。従来知られていた大坂冬の陣の配陣図や豊臣時代の大坂城の図面には、総構の堀から突き出すような半円形が描かれたものがほとんどだった。しかし、奈良大学の千田嘉博教授(考古学)は「真田丸は四角かった」と主張する。
千田さんが注目したのは、広島…
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