【越智正典「ネット裏」】広島の後輩たちを慈しみ続けた山本一義が逝った。球春に手紙を貰ったのが最後になった。彼は会うといつも首位打者7回、大記録の張本勲を讃えていた。山本一義が広島商業3年生、張本が広島段原中学3年生のときに二人は出会っている。
「張本は親孝行精神で大成しました」。そういう山本一義も同様だった。
私が彼と初めて会ったのは1957年4月13日、東京六大学の神宮球場だった。その朝、法政大OB、“ドンちゃん”こと蓮見昌久から電話がかかって来た。
「今日はなんとしても神宮球場に来てくれ」。蓮見は45年、神奈川県浅野中(高)から法政大に入学。終戦。野球部が復活。後藤のクマさん(次男、阪神)らが続々復員。蓮見は食糧買出し係と打撃練習投手を務め堂々と卒業して行った男である。日産に就職。田村町の交差点の角のビルに後輩たちが訪ねてくると、社食でさあー食べろと、ライスカレーを大盛りで。給料差し引きだったから給料日の袋はいつも薄っぺらだった。
神宮球場に着くと「広島商の山本一義が今日デビューするんだ」。間もなく発表。ドンちゃんは「凄いよ。3番だよ。法政は強くなるぞ」。広商時代、余りの強打に満塁で敬遠されたと聞いていたが確かに凄い。1年生が3番だ。当時の東京六大学では考えられない。
まして相手校は杉浦忠、長嶋茂雄…の黄金の立教大である。山本一義はこのときから卒業まで全試合に出場する。60年主将。下級生に気合いを入れることはなかった。上級生を叱った。その春、法大は優勝。なんと23季ぶりであった。
スカウト自由競争時代である。秋、争奪戦が激しくなった。尊敬する広商法大の先輩、南海の名将、鶴岡一人から声がかかった。うれしかったが苦しんだ。父親はカープを支えていた有力社、中国新聞社の社員である。
父の立場を思った。すると通産大臣秘書官から電話がかかって来た。通産大臣池田勇人(のちに総理)はカープ後援会名誉会長。大臣室に行くと「弱いカープに入って強くする。これが男の道じゃあーなかろうか」。彼の家の庭に新聞社の取材テント村が出来た。彼は帰広し鶴岡に感謝とお詫びの電話をしてから広島入りを表明した。鶴岡から祝電が届く。「オメデトウ」。一義は鶴岡に泣いた。のちに、指導者になったとき、守り刀のようになる(広島コーチ、近鉄二軍コーチ、川上哲治の推挙でロッテ監督。南海を経て94年広島)。
カープ76年入団の長内孝と夕方、日南海岸を散歩していた日が思い出される。朝のミドリのオバサンから夜おそくまで働いた母親に育てられた長内(北別府学と同期、外野手一塁手。出場1020試合)に語りかけていた。
「バットをうんと振って幸福になるんじゃ。おかあさんによろしくな」
=敬称略=
(スポーツジャーナリスト)
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