負けるは西だが後で勝つ(前編)
――小早川秀秋の関ヶ原
さほど重視されていない……と書くと失礼だが、脇役がはからずもキャスティングボートを握ることがある。歴史上、その最たる例が、関ヶ原の合戦における小早川秀秋だ。
小早川秀秋は豊臣の縁者でありながら、おまけに西軍総大将の毛利に連なる家でありながら、徳川と内通して寝返りを決めていた。もちろん西軍だって引き留める。でもって当日、徳川秀忠軍が遅れたこともあり、東西の戦いはほぼ五分。気づけば小早川がどっちにつくかが勝負を決めるという状態になってしまう。このとき秀秋はまだ十九歳の若さだった。
結局、家康に急かされ脅され、西軍を攻撃する。豊臣から徳川へ、日本の覇権を動かした秀秋の〈世紀の裏切り〉は、東軍にとってみれば関ヶ原最大の殊勲だ。ところがそれほどの大仕事をやってのけた割には、歴史小説では、小早川秀秋ってロクな描かれ方をされない。というかけっこうボロクソに書かれている。
たとえば司馬遼太郎『関ヶ原』(文藝春秋『司馬遼太郎全集』14-15)では「魯鈍というほどでもなかったが、それに近い。思慮が浅はかで気がみじかく、なにか気に障ることがあると狐憑きのように癇を高ぶらせ、侍女も手を焼いた。学問や歌学も、この少年の頭脳にはうけつけない」ってヒド過ぎィ! また、山本兼一『修羅走る 関ヶ原』(集英社文庫)では「どうにも腹の据わらぬ若者で、すぐに調子に乗り浮足立つかと思えば、気が乗らぬと懈怠に陥るのが欠点だ」と、こちらも容赦がない。
時代劇を見ていても、だいたい小早川秀秋は気が小さくてビビりの若者として描かれることが多い。関ヶ原当日、合戦が始まってからも西につくか東につくか決められず、家康から催促の銃撃を受け、半泣きで西軍に攻撃を仕掛けるってな場面を見たことがある人も多いだろう。つまりは、暗愚で小心で優柔不断……でも、本当にそうだったのかな?