星空文庫
青空のスワローテール
蒼井マリル 作
プロローグ 青空まで真っ直ぐに
毛髪や繊維を思わせる筋のある、薄いヴェールのような雲が真っ直ぐに伸びながらも、やや不規則に曲がりながら空の彼方まで伸びている。立春を過ぎてもまだ余寒が厳しく寒い日もあるが、けれども太陽の光は日増しに強くなっていて、寒いなかにも暖かい光の春の訪れを肌で感じられた。青い空と真っ白な雲。その二つを掴んでみたくて、爪先立ちをした少女は限界まで手を伸ばす。すると伸ばした指先が空の青に染まったような気がした。
三角形のデルタ隊形に並んだ航空機が真っ白い煙を曳きながら青空を飛んでいく。あれは航空自衛隊のT‐4中等練習機だ。戦闘機パイロットを目指す航空学生たちが乗る機体だが、今しがた少女の頭の上を飛んでいったT‐4は、灰色ではなく白と青のツートンカラーで塗られている。その可愛らしい見た目から「ドルフィン」の愛称を持つ白と青のT‐4は、航空自衛隊が世界にアクロバット専門の飛行部隊ブルーインパルスのパイロット、ドルフィンライダーだけが乗れる機体なのだ。
三機や四機による編隊課目は確かに美しく素晴らしいと思う。だが少女は編隊課目よりも、第一単独機の5番機が実施する、リードソロ課目に心から夢中になっていた。青天を切り裂くナイフの如き鋭い四回のロール。ロールを打ちながら3000メートル上空まで一気に翔け上がる垂直上昇。スプリットSとダブルインメルマンの軌跡が描く8の字。そしてあの機体に大好きな彼が乗っていたのだと思うと、少女の瞳は綺羅星の如く輝き、小さな胸は純粋な心と共に熱く燃え上がるのだった。
27個の曲技飛行課目で構成された、第1区分課目の展示飛行を踊り終えた六機のT‐4編隊は、その精密な隊形を1ミリも崩さないまま、松島基地のランウェイに着陸して観客たちが待つ駐機場まで戻ってきた。六機のT‐4をまるで手足のように自由自在に操っていた、ドルフィンライダーたちがコクピットから下りてきたその瞬間、万雷の拍手喝采が爆発する。コクピットから下りたドルフィンライダーたちは、ウォークバックという行進で観客たちのすぐ目の前を歩いていった。
ウォークバックで展示飛行を終えたドルフィンライダーたちは、未だ興奮冷めやらぬ観客たちの握手と声援に応えながら、なんと幸運なことに少女がいるほうに歩いてきた。憧れのドルフィンライダーたちを近くで見てみたい――。胸の奥から湧き上がる衝動に背中を押された彼女は、勢いよく人混みの中に飛び込んだ。邪魔だと乱暴に押し退けられ足を踏まれながらも、少女は懸命に人混みを掻き分けながら疾走する。だが観客の最前列に躍り出ると同時に少女は蹴躓いてしまった。小さな悲鳴を上げて転びそうになったところを、素早く伸びてきた逞しい腕に支えられる。驚いた顔のまま少女は頭上を仰いだ。すると彼女を助けてくれた5番機のドルフィンライダーと視線が重なった。
「大丈夫かい?」
極上の爽やかな笑顔で無事を訊かれたが、少女は胡桃割り人形のように頷くことしかできない。憧れの対象であるドルフィンライダーがすぐ目の前にいるのだから声が出ないのも当然だろう。
「揚羽!」
涼やかな低音の声が少女の耳朶を打った。黒革のライダースジャケットを着た一人の男性が、こちらに向かって急いで駆けてくる姿が見える。藍色が混じった黒髪を揺らして立ち止まった男性は呼吸を整えると、少女を助けてくれたドルフィンライダーに向けて「すみません」と頭を下げた。瞬間ドルフィンライダーの表情が一変する。まるで憧れのスターと対面した時のような表情だ。苦笑した男性が敬礼するとドルフィンライダーも慌てて敬礼を返した。男性に一礼したドルフィンライダーは、観客たちの握手に応じながら、歓声と熱気が溢れるエプロンから立ち去っていった。ドルフィンライダーを見送った男性は、端正な顔を怒ったように顰めると、揚羽と呼ばわった少女を厳しい眼差しで見下ろした。
「そこらじゅう探しまわったんだぞ!? 絶対に母さんの側から離れるなって、あれほど言ったじゃないか! オレがどれだけ心配したと思っているんだ!」
「……ごめんなさい」
叱咤された揚羽は華奢な肩を落として項垂れる。額に手を当てて嘆息を吐いた男性は、引き締まった長身を折って揚羽の正面に屈みこむと、力なく項垂れている彼女の髪を大きな手で優しく掻き回した。揚羽が顔を上げてみると彼はもう怒っていなかった。
「まったく……お前のブルーインパルス好きにはいつも驚かされるよ。これもオレや母さんの影響なのかもしれないな。ほら、空を見ろ。もうすぐT‐4が飛んでくるぞ」
男性が空を指差す。それとほぼ同時にTRパイロットのナレーションが響き渡った。
『ただいま会場上空を通過した編隊は隊形変換を行い、再び会場右手方向から進入して参ります。会場上空をご覧ください。六機のT‐4が進入して参りました。4番機を中心に五方向に規則正しく位置した各航空機は、この後一斉に左旋回を開始し、それぞれが円を描き始めます。我が国の花「サクラ」の始まりです』
1番機を先頭に4番機を中心に据えた、ワイドな正五角形隊形を組んだ六機のT‐4が、滑走路右手方向から進入してきた。高度は2000から5000フィート。フライトリーダーのコールを合図に六機は一斉に旋回を始めた。速度250ノットで3・5Gの360度左水平旋回。六機の旋回が終わると、天空のキャンバスには我が国を代表する桜の花が美しく描かれていた。大空に描かれた一つ一つの円の直径は約500メートル、桜の花の大きさは約1500メートルになる。航空自衛隊創設50周年を記念して、2004年シーズンから実施されている課目の一つ「サクラ」だ。主に第3・4区分や編隊連携機動飛行で実施される課目である。そして揚羽も男性も言葉を忘れて空に花開いたサクラに目を奪われていた。
「ねえ、お父さん。わたし、ブルーインパルスのパイロットに――ドルフィンライダーになりたい。お父さんやお母さんのようなドルフィンライダーになりたいの」
揚羽の決意を予告もなく聞かされた彼女の父親は、青みを帯びる灰色の双眸を驚きで丸くしていたが、ややあって心の底から喜んでいるような明るい笑顔を浮かべて見せた。彼ならきっと反対せずに応援してくれる。己が決意を伝える前から揚羽はそう確信していた。
「……お前ならきっと立派なドルフィンライダーになれるさ。だからあの青空を目指して真っ直ぐに翔け上がるんだぞ」
あの青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。父親が紡いだ熱き言葉は揚羽の純粋な心に強く響き渡った。揚羽の夢を乗せた六機のT‐4がフェニックス・ローパスで頭上を翔け抜けていく。憧れのドルフィンライダーたちを乗せたT‐4が飛び去ってからも、大好きな父親と手を繋いだ揚羽は、いつまでも春の淡い青空を見上げていた。
第1章 その名はスワローガール
青空を真っ直ぐ伸びる雲に直交する波状の雲が重なっている。白い筋や帯に見えるもの、釣り針のようなもの、鳥の羽根や馬の尻尾を連想させるもの、ほつれた絹糸を思わせる形の雲が浮いている。きっと夕焼けの時は最後まで美しく輝くだろう。
穏やかに晴れ渡る空を一機の航空機が飛んでいた。濃い青色の低視認性塗装。左右にぴんと長く広がった主翼。曲線的なキャノピーと胴体下面に配置された半月型のエアインテーク。直立する垂直尾翼は槍のように高く鋭い。全長15メートルの航空機の名前は平成の零戦ことF‐2バイパーゼロ。「対艦番長」という勇ましい呼び名を持つ航空自衛隊の戦闘機である。前後に座席が並ぶ複座型のF‐2Bには二人のパイロットが乗っていた。
『やっぱり空の上は気持ちがいいなぁ……』
『おい、スワローガール。訓練は着陸するまで終わっていないんだぞ? ぼけっと呟いてる暇があったら着陸の準備をしろ!』
間髪入れずに棘のある声が前後席通話装置を通じて届けられた。頭で思ったことを呟いてしまっただけではないか――とスワローガールと呼ばれたパイロットは心の中で反駁する。堂々と反駁できないのは相手が教官だからでもあるし、彼が言ったことがぐうの音も出ない正論であるからだ。飛行訓練は基地に帰投するまでが訓練。空の上では何が起こるか予測できない。ゆえに1秒たりとも気を抜いてはいけないのだ。「ラジャー」と返したパイロットは気を引き締めて飛行を続ける。ややあって視界前方に管制塔が見えてきたので、パイロットは無線のチャンネルをTWRに合わせた。
『アポロ15、松島タワー。15マイル、ノースストレート、インフルストップ』
『松島タワー、アポロ15。チェックギアダウン、ランウェイ25L。クリアード・トゥ・ランド、ウインド、ツー・スリー・ゼロ、アット、ゼロワン』
『アポロ15、ラジャー。ランウェイ25L。インフルストップ』
管制塔に応えたパイロットはHUDに視線を向けた。縦の緑色のラインはグライドスロープニードルといい、滑走路の位置を示している。まずはこのラインと現在の速度・方向で飛行を続けた場合の到達地点を示すベロシティベクトルと重ねなければならない。左右に機首を振ってグライドスロープニードルをベロシティベクトルに重ねた。横の緑色のラインのローカライザーニードルは理想の進入角度を示している。次はベロシティベクトルをローカライザーニードルに合わせつつ、スロットルを落として300キロ前後まで減速だ。雲の波が断ち切れ指示されたランウェイ25が近づいてくる。機首を起こしながら200キロ前後まで減速。メインギアが滑走路に接地した。そのまま減速を続けたF‐2Bは綺麗に停止した。
『アポロ15、ナイスランディング』
『えっ!? やったぁ! 褒められた!』
『ぼけっとするなって言っただろうが! さっさと駐機場に行け!』
褒められたかと思ったらすかさず教官に怒鳴られた。まさに飴と鞭である。もしかしたら管制官にも今の会話を聞かれたかもしれない。管制官の皆さんに大爆笑されているであろう光景を脳裡に浮かべながら、パイロットはタキシングでF‐2Bを誘導路からエプロンに走らせた。誘導係の整備員のパドルに従いながら慎重にタキシングを続ける。赤色のパドルが交差した瞬間にブレーキを踏み込む。お辞儀をするように機首を上下させたF‐2Bは決められた位置で停止した。
帰投を待ち構えていた担当の機付き整備員たちがすぐさま走ってきた。機体胴体左側に乗降用の梯子が引っかけられる。梯子を上った整備員は、キャノピーを開放したパイロットと教官を座席に固定している、ベルトとハーネスを手際良く外していく。束縛から解放された二人は順番に梯子を伝って地面に下りた。空調が効いているとはいえやはり密閉空間のコクピットの中は蒸し暑い。だからパイロットは基地の空気がいつもより綺麗に感じられたのだった。
「装備を脱いだらすぐブリーフィングルームに来い。――徹底的に指導してやるから覚悟しとけよ、スワローガール」
ドスの効いた声音で言った遠藤教官は、エプロンを去って格納庫の救命装備室に姿を消した。教官の背中を見送ったパイロットは、大きく嘆息するとフックからベルトを外してヘルメットを脱いだ。春風にたなびくふんわりとしたハニーベージュのショートヘアは、ランダムに重なり合うカールがついていて、ところどころが元気よくぴんと跳ねている。幼さが色濃く残る可憐な顔立ちには、酸素マスクの跡がくっきりと残っていた。
「……私はスワローガールじゃないもん。何度言ったら分かってくれるのかしら」
桜色の唇を不満そうに尖らせる彼女の名前は燕揚羽1等空曹。宮城県航空自衛隊松島基地・第21飛行隊で、日々訓練に励む元気いっぱいの航空学生だ。そんな揚羽の夢はもちろん一人前のファイターパイロットになることだが、憧れのパイロットが飛んでいた、第11飛行隊ブルーインパルスのドルフィンライダーになるのが最終目標である。いきなり救命装備室から顔を出した遠藤教官に呼ばわれた揚羽は、「はい!」と返事を返してヘルメットバッグとビデオテープを両手に持つと、地面を蹴り飛ばして大慌てで走っていった。
言わずもがなデブリーフィングは散々だった。最低評価をつけられなかったのはまさに奇跡だと言えるかもしれない。遠藤教官は触ると幸福を呼ぶビリケンさんのような見た目をしているのに、どうしてああ矢継ぎ早にえげつないことを言えるのだろうか。あれはビリケンさんじゃなくて地獄の閻魔大王だ。今まで何人の学生たちを地獄の大窯で茹でてきたのか訊いてみたい。
さて揚羽には毎日の習慣になっていることがあった。それは第11飛行隊の訓練風景を見にいくことである。石巻湾に面した海岸沿いに位置する航空自衛隊松島基地には、北太平洋海域と東北地方地域の山岳地帯の救難活動を担当する松島救難隊と、管制隊・気象隊・地方警務隊に、そして2個飛行隊で構成されている第4航空団が配備されている。第4航空団の2個飛行隊は、ファイターパイロットの養成を任務とする第21飛行隊と、空自の飛行部隊で唯一アクロバット飛行を専門とする、青い衝撃の呼び名を持つ第11飛行隊ブルーインパルスだ。
第21飛行隊隊舎を出た揚羽はさっそく基地東側に向かう。意気消沈していたが今は鼻歌を歌えるまでに気持ちは回復していた。切り替えの早いところが自分の長所だと自覚している。しばらく歩いていくと青いラインが入れられた白色の建物が見えてきた。漢字で書かれた「第十一飛行隊」の木製の看板が提げられている。ここが第11飛行隊の飛行隊舎だ。そのすぐ隣には緩やかなアーチ形状の建物があり、上部には「Home of The Blue Impulse」の文字が大きく書かれていた。あの建物がT‐4などの航空機を収納しているブルーインパルス専用の格納庫である。そして格納庫のすぐ前に広がるエプロンに駐機されている航空機を見つけた揚羽は、頬を紅潮させると子供のように目を輝かせたのだった。
エプロンに駐機されているのは六機のT‐4中等練習機。機体上面は青と白のツートンカラー、裏面は上面のリバースパターンに塗装されている。T‐4中等練習機はT‐33及びT‐1の後継用に開発されたこともあり、機体の大きさはそれら先輩機とほぼ同寸法となっている。その外見は全体的に角がとれて丸みを帯びたものとなっているが、左右の胴体脇に置かれたエアインテークや尖った機首など、全体の印象はミニ戦闘機といった感じだ。滑らかな流線形のフォルムは「ドルフィン」の愛称のとおり愛らしいイルカを思わせる。ドルフィンキーパーと呼ばれる整備員の姿はなかった。
(ちょっとだけ触ってみてもいいよね……)
周囲を見回しながら揚羽は日の光を照り返しているT‐4に近づく。手を伸ばした揚羽が翼に触れようとした時だった。
「おい! ドルフィンに触るな!」
突然飛んできた怒声が揚羽の耳朶を打った。振り向いてみればエプロンに立つ青年がこちらを睨んでいるではないか。航空自衛隊標準装備の低視認性を重視する、オリーブグリーンのパイロットスーツを着ているから飛行隊のパイロットにちがいない。右胸に着けているのは、青い地球に六機のT‐4を表す金色の矢印、衝撃をイメージした赤色の縁取りの金色のストライプと翼のエンブレム。左肩には日の丸をイメージした白い縁取りの赤色の円の中心に、T‐4と同じ配色のイルカのキャラクターを置いたデザインの、ショルダーパッチを着けている。驚くことに彼はブルーインパルスのドルフィンライダーだった。いきなり怒声を浴びせられて驚く揚羽のところにドルフィンライダーが早足でやってくる。大きな手に腕を掴まれた揚羽はT‐4から乱暴に引き離された。
「いいか、ドルフィンはな整備員たちが丹精込めて磨いてくれているんだ。俺たちパイロットだってできるだけ機体を汚さないように気をつけている。だから勝手に機体にべたべた触られるとみんなが困るんだよ。分かったならさっさとツアーに戻れ」
「あの……ツアーって?」
きょとんとした面持ちの揚羽が尋ねると青年は片方の眉毛を撥ね上げた。
「……お前、観光ツアーの客じゃないのか? てっきりミリタリーマニアでコスプレ好きの中学生かと――」
松島基地では事前に申し込めば司令部監理部広報班の案内で基地見学をすることができる。どうやら彼は揚羽を基地見学ツアーからはぐれた観光客と思いこんでいたようだ。だがそれにしても23歳の可憐な乙女を中学生と間違えるなんて失礼すぎる。揚羽は怒りを覚えたが、元はと言えば機体に触ろうとしたこちらが悪いのだ。なのでここは穏やかに返すことにした。
「私は中学生じゃありません。まだ学生ですけれどれっきとした空自パイロットです」
「学生――ということは21飛行隊のヒヨコパイロットか。なら1等空尉の俺はお前の先輩になるな。今度俺のドルフィンに触ろうとしてみろ。基地から摘まみ出してやるから覚悟しておけよ」
「――っ! なんなんですかその言い方は! 先輩なら後輩のお手本になるような態度を見せたらどうなんですか!」
「なんだと!?」
「なんだとはなんですか!」
揚羽の発言はどうやら彼の怒りの導火線に火を点けてしまったらしい。青年は揚羽の胸倉を掴み上げようとしたが、勢い余ってか手が滑ってしまい、なんと彼女のささやかな胸を鷲掴みにした。揚羽の胸を掴んだ青年の手は、まるでパン生地を成型するかのように動いている。瞬間空気が凍りつく。揚羽も青年もその体勢のまま石像のように硬直していた。
「エッチ! スケベ! ド変態! 女の子の胸を鷲掴みにして、おっ、おまけに、むにむに揉むなんて!」
「なっ――! 俺は好きで掴んだわけじゃねぇよ! お前が女だったなんて知らなかっただけだ! それに洗濯板みたいな胸なんて掴んで揉んでも嬉しくないぜ!」
「誰の胸が洗濯板みたいですって!? 中学生と間違えたばかりかそんな失礼なことを言うなんて最低だわ! 貴方みたいな人が国防の任務に就く空自パイロットだなんて信じられない!」
「はいはい、口喧嘩はそこまでにしましょうね」
揚羽と男性の口論を断ち切ったのはやや間延びした声だった。大きな影が落ちてきたかと思うといきなり襟首を掴み上げられ、揚羽と男性は軽々と引き離されてしまった。次いで二人の間に二人目のドルフィンライダーの男性が割り込んでくる。縦にも横にも大きい巨大な体躯の男性だ。
「まったく……救命装備室まで丸聞こえですよ。何が原因で喧嘩しているのか知りませんが、見たところ彼女はまだ学生のようですし、ここはひとまず先輩の貴方が謝るべきだと私は思います」
「ちょっとベアーさん! なんで俺が謝らなくちゃいけないんですか!? こいつが勝手にドルフィンに触ろうとしていたから俺は止めただけです! だから俺は絶対に謝りませんよ!」
「ゲイル、これは班長命令ですよ。彼女に謝りなさい」
男性の顔は微笑しているが目は笑っていなかった。静かなる迫力に気圧された青年は息を呑むと、渋々といった様子で揚羽に頭を下げてきた。
「……俺が悪かった」
誠意など微塵も感じられない謝り方だったが、ここは謝罪を受け入れて怒りの矛を収めるべきであろう。揚羽は頷いて青年の謝罪を受け入れる。揚羽をぎろりと睥睨した青年は11格納庫の中に入っていった。
(それにしても大きい人だなぁ……)
まじまじと男性を仰ぎ見た揚羽は心の中で呟いていた。縦にも横にも大きい体躯は、脂肪ではなく岩壁のような筋肉で隆起している。オリーブグリーンのパイロットスーツは今にも張り裂けそうだ。パイロットスーツの袖は二の腕まで捲り上げられていて、ジャングルのような剛毛がびっしりと逞しい腕に生えていた。だが大振りの双眸はつぶらで綺麗に澄んでいる。日焼けした顔立ちはどことなくテディベアに似ているような気がした。揚羽がおずおずと声をかけると彼はこちらを見下ろした。
「えっと、あの……」
「私は鬼熊薫3等空佐、さっきの彼は鷲海颯1等空尉です。ゲイルが失礼な態度をとってすみません」
「いえ、謝るのは私のほうです。勝手にT‐4に触ろうとした私が悪いんです。申し訳ありませんでした」
揚羽は鬼熊薫3等空佐に頭を下げる。「いいんですよ」と言って揚羽の肩を優しく叩いた鬼熊3佐は、格納庫の救命装備室に入っていった。ランウェイ07/25の北側にあたるフェンス沿いに、カメラを構えた人たちがブルーインパルスを一目見ようと集まってきている。揚羽の周りにも離陸の瞬間を見にきた隊員たちが続々とやってきた。第11飛行隊隊舎屋上の観覧席にいるのは見学に訪れた観光客だろう。
ややあってパイロットスーツの上に、救命胴衣と耐Gスーツを身に着けた、七人のドルフィンライダーたちが格納庫から出てきた。その中にはもちろんあの青年もいたが、彼は揚羽に一瞥もくれず彼女の前を歩いていった。青年が右手に提げるメタリックブルーのヘルメットを見た揚羽は目を見開く。バイザーカバーに描かれているのは逆さまになった数字の5だ。難易度の高い背面飛行が多いリードソロを担当する5番機パイロットは、ヘルメットの数字を敢えて逆さに描きその技量を誇っている。
逆さの5は青年が5番機パイロットである確かな証拠。――まさかあの青年が憧れのリードソロ? 信じられない揚羽の目の前で青年は5番機に乗り込んだ。憧れのリードソロのドルフィンライダーと、最悪な出会いをしてしまった揚羽の目の前で、双発のF3‐IHI‐30ターボファンエンジンを轟かせた六機のT‐4は青空に離陸していった。
★☆
青空の澪を白い雲の船舶がゆったりと流れていく。今日の松島基地の風景はいつもと違っていて、第11飛行隊の格納庫前は、たくさんの見物客たちで混雑していた。なんと今日は東京からMAMORの雑誌記者とカメラマンが取材にきているのだ。自衛隊には防衛省が編集協力を唯一している広報誌「MAMOR」がある。毎月日本の防衛に関する旬な特集や自衛隊の基礎知識、日本各地に展開する部隊の活動・装備品の紹介などを、分かりやすい記事と迫力満点の写真で提供している。特殊な装備の紹介や防衛政策よりも、自衛官に焦点を当てているMAMORは、「航空自衛隊のイケメン特集!」という見開き2ページの特集記事を連載していて、光栄なことに松島基地のパイロットが選ばれたのだ。撮影風景を一目見ようと隊員たちが一斉に集まっており、言わずもがな揚羽も撮影風景を見に来ていた。
「おう、やっぱり来たかい。ドルフィンテール」
「……その呼び方、やめてくれません?」
揚羽に話しかけてきたのはダークブルーの部隊識別帽子を前後逆に被った整備員だ。どことなく不良中年に見える彼の名前は三舟1等空曹。第11飛行隊整備小隊の整備班長を務めている、この道一筋20年のベテラン整備員で、何度か通っているうちに顔見知りになったのである。ちなみに「ドルフィンテール」とは揚羽の渾名だ。毎日欠かさずブルーインパルスを見にくることから、第11飛行隊の隊員たちはいつからか揚羽をそう呼ぶようになったらしい。直訳するとイルカの尻尾になるがイルカに尻尾はない。あれは尾鰭だから正しくは「ドルフィンフィン」になると思うのだが。
今回特集記事の取材対象に選ばれたのは、松島基地第4航空団・第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロット鷲海颯1等空尉だった。パイロットたちが部隊内だけで使うTACネームはゲイル。T‐4に触ろうとした揚羽を一喝して、観光ツアーにやって来たミリタリーマニアでコスプレ好きの男子中学生と間違え、挙げ句の果てに彼女の胸を鷲掴みにして揉んだ青年である。それにしても分からない。鷲海1尉より相応しいパイロットがいるであろうに、どうして彼が取材対象に選ばれたのか揚羽は腑に落ちなかった。顔立ちが綺麗なのは認めるが性格は最悪だ。明らかに人選ミスだろう。
「あの……鷲海1尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
「はぁ……」
間髪入れずに颯が返す。肩を落として大きく嘆息したのは、東京都新宿区市ヶ谷の航空幕僚監部広報室広報班から派遣されてきた雪村衛士2等空尉だ。だが困惑しているのは彼だけではない。バズーカ砲のようなカメラを構えた男性カメラマンも困惑している。二人が困惑するのも無理はない。なぜならばT‐4を背後に立つ颯は、無表情のままにこりとも笑わないのである。その眦も口角もまったく微動だにしない。強力な接着剤で固定されているのかと思ってしまいそうだ。雑誌記者は颯の緊張をほぐそうと会話を始めたが、やはり彼の端正な顔を凍てつかせている硬い表情は溶けなかった。
「参ったな……噂には聞いていたけれど、まさかこんなに無愛想だとは知らなかったよ」
揚羽の隣にきた雪村2尉は二回目の嘆息を吐いた。父親譲りの人好きがする顔は、思わず励ましの声をかけたくなるほど落ち込んでいる。落ち込んでいるのは雑誌記者とカメラマンも同じだ。敏腕編集長から「何がなんでも絶対にイケメンの笑顔を撮ってこい!」と強く言われているのかもしれない。仏頂面の写真など持ち帰ったら間違いなく叱責されるだろう。
「T‐4に乗ったら笑うんじゃないですか?」
「T‐4に?」
「T‐4に触ろうとした私に怒鳴ったくらいだから、飛行機が大好きなんだと思いますよ。好きな物の近くに行ったら自然と笑うじゃないですか。だからT‐4に乗せたら笑うんじゃないかなって」
「――今なんて言った?」
揚羽と雪村2尉の会話に風鈴のように涼やかな声が割り込んできた。雪村2尉の隣で撮影風景を見守っていた男性隊員が切れ長の目を揚羽に向けている。涼やかな目元と真っ直ぐ通った鼻梁に、欧米人のような細い顎。ダークラベンダーアッシュの髪を左右に流して額を露出させている。すらりと伸びた両脚は長くて腰の位置も高い。まさにハリウッド俳優のようなプロポーションの持ち主である。ブルーインパルスの飛行隊長で1番機のドルフィンライダー、TACネームは「ロータス」の蓮華悠一2等空佐その人だ。鋭い眼差しに貫かれた揚羽は思わず緊張した。
「えっ? 鷲海1尉は飛行機が大好きみたいだから、T‐4に乗せたら笑うんじゃないかなって……」
「そうか……その手があったな。雪村2尉、すまないが一緒に来てくれないか?」
「はっ、はい!」
蓮華2佐は雪村2尉を引き連れて颯のところに歩いていった。蓮華2佐たちは雑誌記者とカメラマンを交えて何やら会話している様子である。蓮華2佐に頷いた颯は梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。颯の顔はカメラを意識するように傾けられている。ややあって颯は瞼を伏せると瞑目した。まさかこの状況下で居眠りをするつもりなのか。
だがそれは違った。閉ざしていた双眸を開いた颯は、さっきまでの仏頂面が嘘だったかのように笑っていたのだ。まさかの全開の笑顔に周囲から「おぉー」とどよめきの声が上げられた。奇跡の笑顔を逃すまいとカメラマンは連続でシャッターを切っている。揚羽の隣では蓮華2佐と雪村2尉が驚きを露わにしていた。
(なによ、笑おうと思えば笑えるんじゃない! まったく素直じゃないんだから!)
揚羽は心の中で不平不満を口にする。それにしてもT‐4に乗っただけで簡単に笑うなんて、颯は心の底から空を飛ぶことが好きなのだろう。不意に太陽の笑顔を浮かべた颯が揚羽のほうを向いた。快晴の空のように、明るくて、爽やかで、眩しい颯の笑顔は、揚羽の胸を熱くさせて同時に鼓動を高く跳ねさせる。その音の大きさといったら、周りにいる人たちにまで自分の心臓の音が聞こえてしまったのではないかと思ってしまったほどだ。本当はあの表情が颯の隠している本質なのではないかと感じた瞬間、揚羽の胸の中は切なく苦しくなってしまったのだった。
雑誌MAMORの取材が終わってから数日が経ち、松島基地はすっかりいつもの様相を取り戻していた。今日最後の課業を終えた揚羽は、栄養豊富・ボリューム満点の夕食を食べ終えて駐輪場に向かっていた。鼻歌交じりに基地構内を歩いていると、道の片隅の側溝付近に小さな物が転がっているのに気づいた。なんだろうと思いつつ揚羽は近づいてみる。側溝付近に落ちていたのは腕時計だった。紺色の文字盤に銀色の長針と短針。9時位置の秒針部分にはブルーインパルスの部隊マークがあしらわれている。文字盤を保護する硝子には蜘蛛の巣のような亀裂が入っていて、壊れているのか時計は時間を刻んでいない。裏側を見てみると、【HAYATE WASHIMI】の文字が刻まれてあった。
(鷲海颯って――5番機のドルフィンライダーの人だよね。じゃあこの時計は彼が落としたのかな……)
壊れてはいるが落とし物であることには変わりない。であれば早急に持ち主に届けるべきだろう。揚羽は基地東側にある第11飛行隊の区画に向かった。夜に向かって進んでいく夕焼け空の下に広がるエプロンでは、整備員たちが点検を終えたT‐4をトーイングバーと連結させて、牽引車で格納庫に運んでいる。エプロンを訪れた揚羽に気づいたのは三舟1等空曹だった。
「ドルフィンテールじゃないか。どうしたんだ?」
「その呼び方はやめてくださいって何回言ったら分かるんですか」
「何が気にいらないんだ? お前さんにぴったりじゃないか」
気を取り直した揚羽は三舟1曹に拾った時計を見せた。
「さっき鷲海1尉の時計を拾ったんです。三舟さんから彼に渡しておいてもらえませんか?」
「鷲海ならついさっき官舎に帰ったぞ。俺は仕事があって忙しいから、お前さんが渡しにいったらどうだ。憧れのドルフィンライダーとお近づきになれる絶好のチャンスじゃないか」
にやりと笑んだ三舟1曹は揚羽の肩を叩くと牽引車に乗って走り去った。まったく失礼なことを言う。あたかもドルフィンライダーと仲良くなりたいがために時計を届けにきたような言い方ではないか。他の隊員に頼もうかと思ったが、いつの間にかエプロンに立っているのは揚羽だけになっていて、足下の細く長い影が独り寂しそうに伸びていた。仕方がない。拾ったのは自分だから責任を持って届けるべきだろう。嘆息した揚羽は警務隊の警務室に足を運び、隊員に外出証を提示して正門を出た。
颯が居住している官舎は基地から徒歩15分ほどの場所にあった。基本的に自衛官たちは基地・駐屯地で生活する。外出も許可制で平日は特別な理由がないかぎり許可も下りない。自衛官は自衛隊法で指定された場所に居住することが義務付けられており、幹部自衛官は基地・駐屯地外の官舎や自宅などに居住でき、通勤を認められているが、それ以外の一般隊員は基本的には許可されていない。しかし結婚などの事情を認められれば基地・駐屯地外からの通勤も可能である。ちなみに官舎に住んでいる隊員たちは意識が高い。当番を決めて建物の清掃をしたり、足りない備品は自腹を切って購入しているのだ。
三舟1曹から颯は単身者用の棟の三階に住んでいると聞いた。階段で三階に上がり表札を確認しながら廊下を歩く。奥から二番目のドアの脇に「鷲海」と書かれた表札を見つけた。インターフォンを押したが反応はない。三回続けて押してみるが結果は同じ。しばらく待ってみるが住人が出てくる気配はない。どうやら颯は留守にしているようだ。であれば時計は明日渡すことにしよう。ドアの前から去ろうとした揚羽の後ろで物音が聞こえた。留守かと思ったが在宅しているらしい。ドアに向き直った揚羽は颯が出てくるのを待った。チェーンと鍵が外されたドアが内側から開いていく。ドアが完全に開放されて颯が出てきた瞬間、揚羽の両目は飛び出さんばかりに見開かれていた。
ドアを開けて揚羽の前に出てきた颯は、腰にボーダー模様のバスタオルを巻いているだけの、かぎりなく裸に近い姿だったのだ。逞しい胸板と綺麗に割れた腹筋。完全に乾いていないコバルトブラックの髪は額や目元に張りついている。黒髪の先端から落ちた水滴が厚い胸板を伝い、腹筋が割れる下腹部を滑走して臍の横を通り過ぎていく。生唾を飲んだ揚羽はさらに両目を見開いていた。異性の裸を見るのは初めてではないが、こんなに完璧に整った肉体は父親以外見たことがない。颯から目を離せないまま硬直していると揚羽は突然口を塞がれた。颯はバスタオルの結び目を手で押さえていて、もう片方の手で揚羽の口を塞いでいる。
「――ふぐぐっ!?」
「手を離すから叫ぶなよ! いいな?」
呼吸が苦しいので揚羽は涙目で頷く。颯は揚羽の口を押さえている手をゆっくりと離した。揚羽の喉から悲鳴が迸らないことを確認した颯は、衝撃で硬直する彼女を残して部屋に戻っていった。ややあって黒色のVネックの長袖シャツとダークブルーのダメージジーンズに着替えた颯が姿を見せた。颯は急いで身体を拭いてきたのだろう。まだ水分を残した身体にシャツがぴったり張りついていて、引き締まった胸郭の形がくっきりと浮かび上がっているので、揚羽は目のやり場に困ってしまった。
「はっ、はっ、裸で出てくるなんて! いったい何を考えてるんですか!」
「いきなり訪ねてきたお前が悪いんだろうが! 着替えてる時間もなかったし、黎児かと思ったから、このままでいいかって思って――」
「全然よくないです! せめて下着くらい穿いて出てきてくださいよ!」
「濡れたまま穿いたら気持ち悪いから嫌なんだよ!」
「じゃあ拭いてきたらいいじゃないですか!」
――なんだか会話が妙な方向に進んでいるような気がする。会話の方向を修正したのは颯だった。
「お前、ドルフィンテールの燕揚羽……だよな」
「えっ? そうですけれど……どうして私の名前を知ってるんですか?」
「……同僚から聞いたんだ。それで俺になんの用だよ」
「基地で時計を拾って、裏を見たら鷲海1尉の名前が彫ってあったから、届けにきたんです」
揚羽はポケットから時計を出して颯に渡す。受け取った時計を見る颯の表情はどことなく険しいように見えた。そんな様子を見た揚羽は胸に不安を覚える。
「もしかして――捨てるつもりだったとか?」
「……いや、そうじゃない。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」
予想だにしていなかった「ありがとう」の一言は揚羽を驚かせた。時計をポケットにしまった颯が揚羽に視線を向ける。
「お前、官舎住まいなのか?」
「えっ? まだ学生なので学生隊舎に住んでます。それが何か?」
「時計を届けてくれた礼だ。基地まで送っていってやるよ」
「お礼なんていりませんよ。それに基地はすぐそこですから一人で帰れます」
揚羽が言葉を返すと颯は呆れたように嘆息した。
「あのな、ここは恋人も嫁さんもいない独身の男たちが住む官舎なんだぞ? もしかしたら女性を見たらすぐ口説きにかかる変態野郎がいるかもしれない。だから俺は基地まで送ってやるって言ってるんだ。別にお前を心配して言ってるわけじゃねぇぞ。モデル体型ならともかくお子様体型のお前が襲われることは100パーセントないからな」
「なっ――なんなんですかその言い方は! 失礼すぎます! ひどすぎます! もういいです! 貴方に送ってもらわなくても一人で帰れますから! その変態野郎が貴方かもしれませんしね!」
「おい! 待てって!」
初めて会った時もそうだったが本当に失礼極まりない青年だ。こんな奴にエスコートしてもらわなくても一人で帰れる。颯に一礼して廊下を引き返した揚羽は階段を下りようとしたのだが、ほんの僅かな段差に蹴躓いてしまい、バランスを崩した彼女の身体は前のめりに傾いた。転落と激突を覚悟した揚羽は両目を固く瞑る。目を瞑った次の瞬間、足音が駆けてきたかと思うと揚羽は腕を掴まれ、勢いよく後ろに引き戻されてそのまま倒れこんだ。
「いってぇ……」
痛みに呻く声が聞こえたので揚羽は首を捻り振り向いた。目の前にあるのは颯の端正な顔だった。颯がこんなに綺麗な顔をしていたなんて知らなかった。独特の眼差しを感じさせる、猫のような奥二重で切れ長の双眸。すっきりと通った鼻筋に形の整った唇。両目の瞼を縁取る睫毛はとても長い。揚羽は颯に抱き締められるような体勢になっていて、左右に大きく開かれた彼の両脚の間に人形のように座りこんでいた。揚羽の背中にぴったりと密着している颯の胸板の感触と温もりが直に伝わってくる。不意に熱い吐息が耳に吹きかけられたので揚羽は飛び上がりそうになった。
「――大丈夫か?」
「あっ……ありがとうございます」
「これでもまだ一人で帰るって言い張るつもりかよ」
「分かりました! 分かりました! 鷲海1尉に基地まで送ってもらいます! だっ、だからっ、そろそろ放してもらっても、いいですか……?」
一秒でも長くこの体勢でいるのは恥ずかしすぎて耐えられない。揚羽が根を上げると、颯は「悪い」と言って腕に抱き締めていた彼女を放してくれた。先に立ち上がった颯が右手を差し伸べた。揚羽は差し伸べられた右手を握り立ち上がる。颯は廊下を引き返していき、自宅玄関のドアの鍵を閉めてから、揚羽が危うく落ちかけた階段を下りていった。やや遅れて揚羽も階段を下りて颯の後を追いかける。官舎の前で待っていた颯と合流して歩道を歩く。風に揺れる揚羽の髪と前を歩く颯のうなじと同様に、辺り一帯は夕日の光を受けて茜色に美しく輝いていた。
前を歩く颯は揚羽より身長が高いから歩く速度は速いはずなのに、なぜだか彼との距離は遠くならず一定に保たれている。つまり颯は揚羽に合わせて歩く速度を微調整してくれているのだ。さっきまであんなに憎まれ口を叩いていたのに、不意打ちのように優しさを見せるなんて卑怯だと思う。言葉を交わさないまま夕映えの世界を歩いていると、視界前方に松島基地の正門が見えてきた。正門の少し手前で足を止めた颯が揚羽のほうを振り返った。
「ここまででいいよな」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあな」と軽く片手を上げて颯は踵を返した。立ち去ろうとした颯に一声かけて揚羽は彼を呼びとめる。黒髪を揺らして長い両足を地面に縫いつけた颯が振り向いた。
「この前は失礼なことを言ってすみませんでした。あの時はあんなふうに言いましたけれど、私、鷲海1尉に憧れているんですよ――って誤解しないでくださいね! 私が憧れているのは鷲海1尉じゃなくてブルーインパルスのみなさんで、でっ、でも鷲海1尉に憧れていないわけじゃないんですよ! だって私がいちばん憧れているのは5番機のドルフィンライダーなんですから! 憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、前に在籍していた5番機のドルフィンライダーですけれどっ!」
まったく自分はいったい何を言っているのだ。喋れば喋るほど墓穴を掘っているような気がする。ハニーベージュの髪を揺らして颯に一礼した揚羽は正門を目指して駆けていく。団栗を見つけた栗鼠のように走っていく揚羽の背中を、颯は戸惑いを湛えた表情で見つめていた。もちろん揚羽は颯が見つめていることは知らない。太陽が地平線に沈んで薄明のカーテンがゆっくりと下りてくる。揚羽と颯。二人の距離は近づいたようでいて、実際にはまだ遠いようである。
第2章 疾風雲
明るく穏やかに晴れ渡った春の日は、光が満ちて風が光っているように感じられる。風を心地良いと感じるのは、厳しい冬を乗り切ったあとの心のゆとりかもしれない。第11飛行隊隊舎を出た鷲海颯1等空尉は、すぐ隣の格納庫に向かいながら空を見上げた。太陽の光はもともと無色透明だが、プリズムで色を分けると波長の短い方から順番に虹のような七色になる。日光が空気の中を進む時、空気中の細かい塵などの浮遊物に衝突すると、波長の短い光線は散乱してしまう。その散乱された青系のプリズムの色が人々の目に届き、空が青く染まって見えるのだ。もしも空が青く染まっていなかったら、自分は空に自由を感じていなかっただろう。
ブルーインパルス専用の格納庫前のエプロンには、手前から順番に予備機を入れた七機のT‐4中等練習機が駐機されている。ふと颯は足を止めた。5番機の前に小柄な人が立っているのだ。横断歩道を渡る子供のように左右を確認している。見たところどうやら中学生のようだ。遠く後ろから颯が見ているのも知らない少年は、恐る恐るといった様子で5番機の翼に手を伸ばした。
「おい! ドルフィンに触るな!」
大声で怒鳴ると驚いた表情の少年が振り返った。大股で歩み寄った颯は伸ばした手で腕を掴み、少年を5番機から引き離した。男性にしては小柄だし身体つきも華奢だ。可愛らしい顔立ちはどちらかと言えば女性に近いが、男性にも中性的な顔立ちをしている者がいるので、男性なのか女性なのかは分からない。しかし今はそんなことどうでもいい。細い腕を掴んだまま颯は少年を見据えた。
「いいか、ドルフィンはな整備員たちが丹精込めて磨いてくれているんだ。俺たちパイロットだってできるだけ機体を汚さないように気をつけてる。だから勝手に機体にべたべた触られるとみんなが困るんだよ。分かったならさっさとツアーに戻れ」
「あの……ツアーって?」
きょとんとした表情で少年が言った。とぼけているのかと思ったがそういうふうには見えない。
「お前、観光ツアーの客じゃないのか? てっきりミリタリーマニアでコスプレ好きの中学生かと――」
小柄で童顔、身体つきは華奢だ。だから中学生と間違えてもおかしくはあるまいと颯は思ったのだが、どうやら今の発言が気に障ったらしく、中学生に見える若者は穏やかに見えるが怒りを抑えた表情で、自分はまだ学生だがれっきとした空自パイロットだと言い返してきた。学生ということはコールサインは「アポロ」の第21飛行隊のパイロット――戦闘機の扱い方をまだ知らないヒヨコパイロットか。
「学生――ということは21飛行隊のヒヨコパイロットか。なら1等空尉の俺はお前の先輩になるな。今度俺のドルフィンに触ろうとしてみろ。基地から摘まみ出してやるから覚悟しておけよ」
「――っ! なんなんですかその言い方は! 先輩なら後輩のお手本になるような態度を見せたらどうなんですか!」
「なんだと!?」
「なんだとはなんですか!」
ヒヨコのくせに生意気な! 颯は若者の胸倉を掴み上げようと手を伸ばす。だが勢い余ってか手が滑ってしまい、颯は彼の胸の辺りを思い切り鷲掴みにしてしまった。瞬間颯は違和感を覚える。なんと鷲掴みにしたところが柔らかいのだ。肥満体でもないかぎり男性の胸板が柔らかいなんてあり得ない。確かめるべく手を動かしてみると、パン生地を成形しているような感触が伝わってきた。そして颯は自分が間違っていたことに気づく。――目の前にいる若者は男性ではなくて「女性」だったのだ。耳まで真っ赤になった彼女は金縛りに遭ったように固まっていたが、大きく口を開くと反撃の声を迸らせた。
「エッチ! スケベ! ド変態! 女の子の胸を鷲掴みにして、おっ、おまけに、むにむに揉むなんて!」
「なっ――! 俺は好きで掴んだわけじゃねぇよ! お前が女だったなんて知らなかっただけだ! それに洗濯板みたいな胸なんて掴んで揉んでも嬉しくないぜ!」
「誰の胸が洗濯板みたいですって!? 中学生と間違えたばかりかそんな失礼なことを言うなんて最低だわ! 貴方みたいな人が国防の任務に就く空自パイロットだなんて信じられない!」
ファイターパイロットは国家防衛の盾となると宣誓した身である。今の颯はF‐15戦闘機に乗るイーグルドライバーではなくドルフィンライダーだ。だがイーグルに乗っていなくとも、颯はファイターパイロットとしての自負や誇りは持ち続けている。そんな颯に彼女は「国防の任務に就く空自パイロットだとは信じられない」と言い放った。あたかも己が信じるものすべてを否定されたような気分だ。颯の思考は抑えきれない怒りで満ちていく。颯が右手をきつく握り締めたその時だった。
「はいはい、口喧嘩はそこまでにしましょうね」
やや間延びした声が聞こえたかと思うと、颯は襟首を掴まれて軽々と後ろに引き摺られた。颯と女性の間に巨大な体躯の男性が強引に割り込んでくる。第11飛行隊飛行班長の鬼熊薫3等空佐だ。穏やかな性格で平身低頭、滅多なことでは怒らない彼はまさに仏様のような人である。TACネームは鬼熊の熊を取った「ベアー」だが、鬼熊3佐はお菓子作りを趣味にしているので「スイーツ」を自己申告した。しかし鬼熊3佐の見た目とスイーツのTACネームとのギャップが激しすぎるのでフライトに集中できない! という意見が多かったので却下されたらしい。
「まったく……救命装備室まで丸聞こえですよ。何が原因で喧嘩しているのか知りませんが、見たところ彼女はまだ学生のようですし、ここはひとまず先輩の貴方が謝るべきだと私は思います」
「ちょっとベアーさん! なんで俺が謝らなくちゃいけないんですか!? こいつが勝手にドルフィンに触ろうとしていたから俺は止めただけです! だから俺は絶対に謝りませんよ!」
「ゲイル、これは班長命令ですよ。彼女に謝りなさい」
颯をTACネームのゲイルで呼んだ鬼熊3佐は穏やかに笑んでいるが、テディベアのようにつぶらな目の奥は燃えている。――これはまずい。目の奥が燃えているのは鬼熊3佐が本気で怒る前兆だ。ブルーインパルスは編隊飛行を中心とする部隊。毎回同じメンバーで飛行するので、パイロット同士の信頼関係が特に重要視される。パイロット同士の関係に亀裂が入ると展示飛行に悪影響を及ぼしてしまう。衝突の原因を作った女性に自分が謝るなんて納得できなかったが、これから訓練が始まるのだから、仏の鬼熊3佐を鬼に変貌させるわけにはいかない。颯は「悪かった」と女性に謝り、格納庫の中を通って救命装備室に入った。
鬼熊3佐が言っていたとおり、颯と女性の口喧嘩は筒抜けになっていたようで、中で装備を身に着けているパイロットたちは、呆れたようでいて面白がっているような視線を颯に向けてきた。颯は視線を痛く感じながらも、サバイバルキットなどが詰め込まれたLPU‐H1救命胴衣、下腹部から足首にかけて巻きつけるJG5‐A耐Gスーツなど、手際良くフライトの時に必要な装具を身に着けていく。最後に手の甲の部分が青色になっているフライトグローブを両手に嵌め、逆さ5のメタリックブルーのヘルメットを提げた颯は救命装備室を出た。
5番機を目指してエプロンを進む颯は彼女の前を通り過ぎる。通り過ぎる際にちらりと見えた彼女は、馬鹿みたいに口を開けて棒立ちしていた。まるで憧れのヒーローを偶然見つけてしまった子供のような表情である。颯は担当の機付き整備員と敬礼を交わして5番機に乗り込んだ。整備員とハンドシグナルで交信しながらエンジンスタート開始。機体を点検するプリタクシーチェックを終わらせた颯は、高いエンジン音を響かせながら5番機をタキシングさせてランウェイ07の端に向かい、最終チェックポイントでエンジンチェックを完了する。颯の視線の先では1番機から4番機がまず最初に滑走路に進入した。
『ワン、スモーク。ゴーベスト、プッシュアップ。ハンドレット、ナウ』
『フォー、オーケー』
人差し指から小指までが並んだような、フィンガーチップ隊形を組んだ1・2・3・4番機が、スモークの白煙を曳きながら隊形を菱形のダイヤモンドに変える。そして四機はギアとフラップを下ろしたままの、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで離陸していった。
『ブルーインパルス05、松島タワー。レディ・フォー・ディパーチャー』
次はいよいよ颯が離陸する番だ。颯は無線のチャンネルをTWRに変えて基地管制塔に呼びかけた。ブルーインパルスは第11飛行隊のコールサイン。通信の際にいちいち部隊名を名乗っていては手間がかかるため、航空自衛隊の飛行隊はそれぞれ個別のコールサインを持っている。ちなみに「05」は部隊の5番機という意味だ。
『松島タワー、ブルーインパルス05。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』
『ラジャー。ブルーインパルス05、ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ。ファイブ、スモーク・オン。ローアングル・キューバン・テイクオフ、レッツゴー』
颯はスロットルレバーを押し上げて5番機を加速させる。周囲の景色は混ざり合うと色の洪水となり、瞬く間に後背へと流れ去っていく。充分な速度を得た颯は操縦桿を手前に引き寄せた。上に動いた水平尾翼が機首を押し上げる。翼に風を纏った5番機はふわりと浮揚して、ランウェイ07の端で一気に飛翔すると天高く宙返りした。視界が開けて快晴の空の青が広がった時には、生意気な21飛行隊のヒヨコパイロットのことなんて、颯は綺麗さっぱり忘れていた。
ピリオドごとの飛行訓練を終えたパイロットは、飛行隊隊舎のブリーフィングルームに集合して、フライト後の振り返りと評価・反省をするデブリーフィングを行う。フライトについて特に何も言われなかったが、しいて言えばローアングル・キューバン・テイクオフの離陸高度が、少し低すぎたかもしれないと鬼熊3佐に指摘されたくらいだった。パイロットたちが退室していくなか、颯はその場に留まりデブリーフィングの復習をしていたのだが、自分の他にもう一人のパイロットが部屋に残っていることに気づいた。
「聞いたぞ聞いたぞ~。お前、あのドルフィンテールちゃんと喧嘩したんだってな!」
薄ら笑いを浮かべながら颯に話しかけてきたのは、4番機のドルフィンライダーの蛍木黎児1等空尉だ。一見すると甘く整った顔立ちの爽やかな好青年だが、好みのタイプの女性を見つけるとすぐ口説きにかかるという悪癖の持ち主でもある。TACネームは蛍の英語名の「ファイアフライ」だが、それでは長いから縮めて「フライ」にしたらどうだと先輩パイロットから意見が上がった。しかし「フライ」だと蛍ではなく蠅になってしまうので、なんとかそれは避けたいと黎児が必死に懇願した結果、最初に提案されたファイアフライに落ち着いたというわけだ。
「ドルフィンテール? なんだよそれ」
「毎日欠かさずT‐4を見に来る第21飛行隊の女の子だよ。ちらっと見たけれど、すっげー可愛い子じゃないか! あんな子が松島にいたなんて知らなかったぜ!」
ドルフィンテールなんて知らないと思っていたが、「第21飛行隊の女の子」と聞いて颯はようやく思い出した。許可もなくT‐4に触ろうとしていたから止めようとしたのだが、いろいろとアクシデントが積み重なってしまい、救命装備室まで筒抜けの口論を繰り広げた生意気な学生パイロット。黎児が言うように可愛い子だったかどうかは覚えていない。なるほど、彼女が近頃部隊の中で噂になっているドルフィンテールだったのか。自分にはどうでもいいことだったが、一つだけ指摘しておきたいことがあった。
「馬鹿、イルカに尻尾はねぇよ。あれは尻尾じゃなくて尾鰭だから、ドルフィンテールじゃなくて『ドルフィンフィン』だろ」
どうやら颯の言った「ドルフィンフィン」は黎児の笑いのツボを刺激したらしい。黎児は「ぶふっ!」と妙な声を出すと、ミーティングテーブルに突っ伏して肩を震わせ始めた。底抜けに明るい男だと颯はつくづく思う。伯父が横田基地航空総隊司令というエリート男子なのに、そのことを鼻にもかけず誰にも気さくに接するので、黎児は基地の誰からも好かれているのだ。黎児が担当する4番機パイロットは、第4航空団飛行群の戦技企画班長を兼務している。展示飛行などの際の隊員の宿泊や給食については、航空団のほうで各部署に手配してもらえるのだが、その際に航空団と部隊の間に入って調整する役割を担っているので、コミュニケーション能力が高い黎児はまさに適職だと言えるかもしれない。
「それでだな、21飛行隊の学生にさり気なく聞いてみたところ、彼女は燕揚羽ちゃんっていうらしいぞ。顔だけじゃなくて名前も可愛いなんて最高じゃないか!」
ついさっきまで興味なんてまったくなかったのに、黎児が言った名前に颯の意識は反応した。
「燕――? そのドルフィンテール、燕っていう名字なのか」
「そう聞いたぞ。もしかして知り合いなのか?」
「……まさか。生意気な女だったから覚えていただけさ」
「それを聞いて安心したぜ。ライバルは一人でも少ない方がいいからな!」
――いったいなんのライバルだよ。と颯は心の中でガッツポーズをする黎児につっこんだ。どうやら黎児の脳内は常に恋愛スイッチがONになっているらしい。
「鷲海、話がある。隊長室にきてくれ」
ブリーフィングルームと隊長室を繋いでいるドアが開き、1番機のドルフィンライダーで飛行隊長の蓮華悠一2等空佐が顔を覗かせた。蓮華2佐は防衛大学校出身のエリート幹部であり、35歳の若さでブルーインパルスの飛行隊長の座に昇りつめた。蓮華2佐はすらりとした長身の美丈夫なので、航空祭では彼のサインと握手と写真撮影を求める女性ファンたちで、長蛇の列ができるほどだ。蓮華2佐が飛行班長の鬼熊3佐と並ぶと、まるで牛若丸と武蔵坊弁慶のようだと颯たち隊員は密かに思っている。蓮華2佐が颯を名字の鷲海で呼ぶ時は決まって重要な話の場合が多い。「はい」と答えた颯は席を立って隊長室に向かい、ドアを閉めてから机の椅子に腰かけた蓮華2佐の正面に直立した。
「鷲海はMAMORを知っているか?」
「はい。防衛省が編集協力している広報誌ですよね」
「そうだ。そのMAMORからお前を取材したいと申し出があった」
「――はい?」
なんでも広報誌MAMORは「航空自衛隊のイケメン特集!」という、見開き2ページの記事を組んでいて、どういうわけか今回自分に白羽の矢が立ったらしい。暇つぶしがてらに特集記事を何度か読んだことはあるが、ページの大半を写真が占領していて文面はプロフィール程度だった。そんな内容のないふざけた企画の記事に、こともあろうにブルーインパルスの代表として自分を売り込むだって? まさに前代未聞の広報ではないか。おまけに航空幕僚監部広報室の室長は満面の笑顔で即決したらしい。今すぐにでも広報室に乗り込んで無責任な室長を怒鳴りつけたい思いだ。
「形はどうであれ自衛隊に興味を持ってくれるのはいいことだ。自衛隊は国家公務員だから、敷居が高く近寄りがたいイメージが一般に定着している。おまけに自衛隊を毛嫌いしている人たちも少なくはない。そんななか取材をさせてくれと申し出があったんだ。お前が乗り気じゃないのは分かっているが、ここはひとつ空自の代表として受けてくれないか?」
第11飛行隊ブルーインパルスは、航空自衛隊の代表として多くの人たちと接する役割を担う部隊である。それに5番機パイロットの颯は外部からの取材や広報を担当する広報幹部だ。気が進まないから取材を受けないなんて、それこそまさに職務放棄に当てはまる。あらかじめ質問内容は決まっているというし、写真撮影もすぐに終わるだろう。そう思った颯はMAMORからの取材依頼を受けることにしたのだが、己の考えが甘かったことを思い知るのだった。
「あの……鷲海1尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
「そこをなんとかお願いしますよ。なるべくイケメンの自然な表情をという特集記事なので……」
「迷惑な特集記事ですね」
「はぁ……」
颯が冷たい声音でばっさり切るように返すと、市ヶ谷の航空幕僚監部から来た広報官の雪村衛士2等空尉は、人類滅亡の瞬間がきたかのような絶望の表情で嘆息した。さっきから我慢して撮影に付き合っているが、いい加減我慢の限界だった。おまけに普段から生命の危険と隣り合わせの生活を義務付けられている職種の人間に、「好きな食べ物は?」とか「休暇の過ごしかたは?」とか「好きなタイプの女性は?」なんて軽薄な質問をされたのだから、不快に思わないほうがおかしいだろう。万一の時は自らの命を捧げてでも国民を守る義務がある。それは殉職する可能性もあるということだ。そんな覚悟を背負っているのだから、笑顔なんて簡単にできるわけがない。仏頂面で雑誌記者と話していると、蓮華2佐が雪村2尉を連れてこちらにやって来た。
「鷲海、T‐4に乗れ」
「はい?」
「T‐4のコクピットに座っているところを撮影してもらう。お前は自分が空を飛んでいるところをイメージするんだ。記者やカメラマンのことは忘れてしまっても構わないから、お前はとにかくイメージすることだけに集中しろ。いいな?」
聡明な蓮華2佐のことだから何か考えがあるのだろう。突然の指示に戸惑いを覚えつつも颯は頷き、機体左側に掛けられてある梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。
(空を飛んでいる自分の姿をイメージしろ、か――)
コクピットに座り直した颯はゆっくりと瞑目する。自分が空に憧れるようになったのは、父親が空自のファイターパイロットだったということもあるが、憧れが増したのはブルーインパルスの展示飛行を初めて観た時だった。なかでも颯はリードソロの5番機パイロットに強く憧れた。もっとも颯を魅了した5番機パイロットは既にブルーインパルスを去っていたのだが。過去の展示飛行を収録したDVDをネット購入して、颯はブルーインパルスのエースと謳われた彼の存在を知ったのである。
颯が憧れのパイロットと出会ったのは今から18年前のことだ。出会った場所は石川県の航空自衛隊小松基地。父親と一緒に訪れた小松基地航空祭で出会いの瞬間は颯を待っていた。あとから聞かされた話では、父親が彼と会えるように裏で根回しをしてくれていたらしい。たくさんの人たちで溢れかえる基地の立ち入り禁止区画の向こう、犬鷲を部隊のシンボルマークとする第306飛行隊隊舎の前で、彼は奥さんと一緒に颯が来るのを待っていた。強く憧れるパイロットを目の前にした瞬間、颯の胸の鼓動は高く跳ね上がった。何を話して何を尋ねたのかはよく覚えていない。ただ人生でいちばん幸せだったことだけは覚えている。
「お前はブルーインパルスが好きか?」
長身を折り曲げて颯と目線を合わせた彼は、両目に掛けていたサングラスを外すと、涼やかな低音の声で訊いてきた。サングラスの奥から現れたのは、同性である颯も思わず見惚れてしまいそうな端正な顔と、青みを帯びた灰色の切れ長の双眸だ。その切れ長の双眸は真っ直ぐな眼差しで颯を見つめている。答えは決まっているのに緊張のせいで声が出てこない。彼の斜め後ろでは奥さんが「頑張れ!」とジェスチャーしていた。
「――うん! 僕はブルーインパルスが大好きだ!」
緊張を断ち切った颯ははっきりとした声で答える。すると彼は快晴の日のような明るくて爽やかな笑顔を浮かべて、颯の黒髪を大きな手で優しく掻き混ぜた。
「オレが飛んだあの青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれよ」
青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。彼の言葉は颯の心に熱く強く響き渡った。
空を見上げて彼らの名前を呼びながら、大人になった颯はブルーインパルスの5番機パイロットとして憧れた空を飛んでいる。
周囲の視線と騒音を忘れられるように精神を研ぎ澄ますと、高いエンジン音と風にたなびくスモークの色と燃料の匂いが鮮明に再現された。四機のT‐4がスモークを曳きながら蒼空を飛んでいく。颯は股の間の操縦桿を握り締めた。回転数を上げていく双発のエンジン音に呼応するように、颯の鼓動は空を飛べる喜びで高鳴っていった。
憧れのリードソロが飛んでいた青空を真っ直ぐに目指して、颯はスロットルレバーを押し上げて5番機を発進させる。ブルーインパルス05、クリアード・フォー・テイクオフ。颯の呟きはそれが魔法の呪文だったかのように、ランウェイを疾走する5番機をふわりと浮き上がらせた。そして青く透きとおった空が目の前いっぱいに広がった瞬間、自分でも驚くことに颯は満面の笑顔になっていた。
「鷲海1尉! こっちを向いてください!」
やや驚きを滲ませた雪村2尉の呼びかけに応じて颯は顔の角度を変える。すると視線の先に21飛行隊の生意気なヒヨコパイロット――ドルフィンテールの燕揚羽が立っていた。不思議なことに颯はもっと笑顔になっていた。理由は分からない。ただ揚羽を見ているとなぜか自然と笑顔になってしまうのだ。春一番の南風がエプロンを駆け抜けていく。久しぶりに笑えた清々しさを心に感じながら、颯は撮影が終わるまでずっと笑っていた。
★☆
MAMORの取材が終わってから数日後、プリンターで出力された確認用の写真が収められたレターパックが、広報班を経由して第11飛行隊隊舎に届けられた。今日最後の訓練と事務作業を終わらせた颯は、歓談している隊員に見つからないように事務所から廊下に出ると、レターパックを開封して写真が入っているクリアファイルを取り出した。なんだかとても情けない。まるで台所で食べ物を盗んでいる鼠のような気分である。写真に撮られた自分はそれはもう満面の笑顔を浮かべていた。笑窪を刻んで白い歯を覗かせている太陽の笑顔。意外だった。もうこんな笑顔はできないと思っていたのに――。
「なかなかいい写真だな。いつもより五割増しで撮ってもらったんじゃないか?」
不意に涼やかな声が聞こえたので、颯はやや驚きながら後ろを振り向いた。飛行隊長の蓮華悠一2等空佐が、鋭角的なラインの顎に片手を当てて颯の肩越しに写真を眺めている。もう一度写真を眺めた蓮華2佐は満足そうに頷いた。
「それにしても良い顔をしているな。ドルフィンテールに礼を言っておくべきか」
「どうしてドルフィンテールにお礼を言うんですか?」
「お前をT‐4に乗せたら笑うんじゃないかと言ったのは彼女だからな。まさに彼女が言ったとおりだ。今度彼女に会ったらお前からも礼を言っておいてくれ」
「お疲れ」と言うと蓮華2佐は学校のような隊舎の廊下を歩いていった。飛行隊隊舎を出た颯は三舟1曹に挨拶をしてから正門を出て官舎に向かった。15分ほど歩いて官舎に着く。単身者用の棟の三階にある自室の鍵を開けて中に入る。官舎の部屋は1LDKなのであまり広くない。ベッドに座ってリュックサックと服のポケットの中身を取り出していると、腕に巻いているのとは別に持っている時計が無くなっていることに颯は気づいた。どうやら基地敷地内のどこかでうっかり落としてしまったらしい。探しに戻るべきか迷ったが、あの時計を持ち続ける理由なんてないので、颯はそのまま放っておくことにした。
リビングを離れた颯は洗面所に向かい、服と下着を脱ぎ捨てて浴室に入った。熱いお湯の雨で溜まった疲れを洗い流していると、玄関からインターフォンの音が聞こえたような気がしたので、シャワーを止めた颯は耳を澄ました。やや間を置いたあと二回、三回とインターフォンが鳴る。来訪者は黎児に違いない。女の子にふられた愚痴を颯に聞いてほしくて足を運んだのだろう。であればわざわざ服を着て出る必要はないか。ボーダー模様のバスタオルを腰に巻いて玄関に向かい、サンダルを履いた颯はチェーンと鍵を外してドアを開ける。だがドアの向こうに立っていたのは黎児ではなかった。
ふんわりとしたシルエットのハニーベージュのショートヘアに可憐に整った卵型の顔。颯を真っ直ぐに見つめる硝子玉のように澄んだ双眸は、眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれている。颯を訪ねてきたのはなんとドルフィンテールの燕揚羽だったのだ。目を見開いて硬直するうら若き乙女の目の前にいるのは、バスタオル一枚で下半身を隠しただけの、ほとんど裸に近い姿の精力溢れる若い青年。まさに通報されてもおかしくない絵面である。颯はずり落ちかけたタオルの結び目を押さえると、咄嗟にもう片方の手を伸ばして揚羽の口を塞いだ。
「――ふぐぐっ!?」
「手を離すから叫ぶなよ! いいな?」
揚羽が頷いたのを確認した颯は警戒しながら手を離す。厄介な悲鳴が上げられることはなかったので、揚羽を廊下に残した颯は部屋に駆け込むとドアを閉め、タオルで水滴を拭き取った身体に衣服を身に着けると、再びドアを開けて廊下に飛び出した。揚羽は逃亡せずにおとなしく待っていた。よほど受けた衝撃が大きかったのだろう、ちゃんと服を着た颯を目の前にしても揚羽の顔はまだ赤く染まっている。何度か軽い口論をしたあと颯は尋ねた。
「……それで俺になんの用だよ」
「基地で時計を拾って、裏を見たら鷲海1尉の名前が彫ってあったから、届けにきたんです」
来訪の目的を言った揚羽はポケットから時計を取り出した。文字盤を保護する硝子に亀裂の入った、ブルーインパルス仕様のパイロットウオッチ。受け取って裏面を見てみると、確かに【HAYATE WASHIMI】の文字が刻印されてあった。複雑な感情の波が颯の心を掻き乱す。これは重い過去の十字架を背負い続けろという神様のお告げなのか――。眉間に皺を寄せて時計を凝視する颯に不安を覚えたのか、揚羽は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「もしかして――捨てるつもりだったとか?」
「……いや、そうじゃない。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」
颯の口から出た「ありがとう」の言葉に揚羽はとても驚いていた。失礼な反応だ。愛想がよくないのは自分でも自覚しているが、これでも礼節や礼儀などの類いは持ち合わせている。そのあと颯は学生隊舎で生活する揚羽を基地まで送っていくと申し出たのだが、どうしても素直になれずとても失礼な言い方をしてしまう。当然ながら揚羽は怒りを爆発させ、後を追いかけようとした颯の目の前で蹴躓いた彼女は、階段から落ちそうになった。瞬間颯の身体は鋭敏に反応する。素早く踏み出した颯は、落ちる揚羽の腕を掴むとシーソーのように一気に引き戻して、彼女を抱いたまま一緒に後ろに倒れこんだ。したたかに打った背中の痛みに颯は思わず呻いてしまった。
「――大丈夫か?」
「あっ……ありがとうございます」
「これでもまだ一人で帰るって言い張るつもりかよ」
「分かりました! 分かりました! 鷲海1尉に基地まで送ってもらいます! だっ、だからっ、そろそろ放してもらっても、いいですか……?」
――まったくそんなに嫌がらなくてもいいだろうに。「悪い」と謝った颯は揚羽を放した。官舎を後にした二人は、夕映えが美しい長閑な風景の道を無言で歩き続ける。揚羽が遅れないように歩く速度を調整して歩いていくと、松島基地の正門が見えてきた。正門から出てくる隊員たちの車がすぐ横を走り抜けていく。帰りを待っている家族がいるのだと思うと、颯の心は再び感情の波で掻き乱された。だがどんなに羨んでも過去は変えられない。気を取り直した颯は揚羽のほうを振り向いた。
「ここまででいいよな」
「はい。ありがとうございます」
颯は官舎に戻ろうと踵を返したのだが、直後に揚羽が呼び止めたので振り向いた。
「この前は失礼なことを言ってすみませんでした。あの時はあんなふうに言いましたけれど、私、鷲海1尉に憧れているんですよ――って誤解しないでくださいね! 私が憧れているのは鷲海1尉じゃなくてブルーインパルスのみなさんで、でっ、でも鷲海1尉に憧れていないわけじゃないんですよ! だって私がいちばん憧れているのは5番機のドルフィンライダーなんですから! 憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、前に在籍していた5番機のドルフィンライダーですけれどっ!」
一気にまくしたてると揚羽は基地の正門に駆け込んでいった。颯は戸惑いながら華奢な揚羽の背中を見つめていた。揚羽が基地の中に入っていったのを確認した颯は、踵を返して二人で来た道を今度は一人で引き返す。「私は貴方に憧れています」だなんて恥ずかしい台詞を、真剣な表情でなんの裏もなく言ってくるとは驚いた。正確に言うと揚羽が憧れているのはブルーインパルスらしいのだが、それでも最初の一言に驚いたのは事実である。颯が思う揚羽は生意気なヒヨコパイロットだ。でも数日前の写真撮影と今日のことで、揚羽の印象が少しだけ変わったような気がする。薄明が忍び寄るなか颯は空を見上げた。夕日を射抜くような飛行機雲が、夕焼け空に真っ直ぐ伸びていた。
『青空のスワローテール』 蒼井マリル 作
燕揚羽1等空曹は、航空自衛隊松島基地・第4航空団第21飛行隊で、日々訓練に励む元気いっぱいの航空学生。夢を目指して頑張る揚羽は、ある日ブルーインパルスの5番機パイロットの鷲海颯1等空尉と出会う。颯は口が悪く無愛想で、協調性と社交性を重要視する部隊の一員だとはとても思えない人物だった。だがいつしか颯は揚羽に少しずつ心を開いて本質を見せていく。そして揚羽は颯が重い過去を背負っていることを知るのだった。二人の夢と空への憧れが織り成す恋と青春の群像劇、クリアード・フォー・テイクオフ!
| 更新日 | |
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| 登録日 | 2016-12-03 |
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