映画「この世界の片隅に」 片渕須直監督に話を聞きました。
12/03 02:05
映画「この世界の片隅に」。先日、アニメ映画「君の名は。」の興行収入が198億円を超えて、「もののけ姫」を抜き、邦画の歴代第3位になったと話題になりましたが、今回注目したいのは、映画興行収入ランキングで、今、6位に入っている、「この世界の片隅に」です。
驚くべきは、「君の名は。」が、全国で296の映画館で封切りされたのに対して、「この世界の片隅に」は、68という映画館でスタートされました。
かなり、限られた場所となります。
市川紗椰が、映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督(56)に会ってきました。
時は、太平洋戦争末期。
舞台は、「日本一の軍港の町」といわれた、広島・呉市。
主人公は、その呉市にお嫁に来た、北條すずさん(18)で、おっちょこちょいな性格で、絵を描くことが大好きな、普通の女性。
物語は、このすずさんが、恋をし、悩み、怒り、そして笑う。
戦時中にあっても、決して特別ではない、普段の日常をつづっている。
11月12日の公開後、満員御礼の映画館が続出し、過去10年間の週間興行収入記録を更新したという映画館もある。
観客は、「大変なことがあっても、すずちゃんが、いろいろやらかして、笑えるところが、すごく好きだったかなって」、「悲しい悲しいで、泣かされるっていうんじゃなくて、なんか、日常の感覚の中で、『ああ、うん、わかる、わかる』みたいな、そういう感じの映画だなと思います」などと話した。
戦争を知らない世代も、その時代に生きた人々に共感できるという、この作品。
原作は、広島県出身の漫画家・こうの史代さんによる、同名の漫画。
今なぜ、この映画が、人の心を打つのか。
市川紗椰が、脚本も手がけた、片渕須直監督を訪ねた。
(この作品をアニメ化しようと思ったのは、何かきっかけ、出会いは?)
片渕監督「『マイマイ新子と千年の魔法』という映画を作って。(舞台は)昭和30年(1955年)なんですね。その登場人物たちの、ちょっと10年前をさかのぼってみたら、面白そうって思い始めて」
片渕監督の前作「マイマイ新子と千年の魔法」は、昭和30年の山口県を舞台にした、子どもたちの友情の物語。
戦後の混乱が尾を引く時代の中でも、描かれているのは、やはり普通の子どもたちが、普通に暮らした日常だった。
この時、監督は、次はそんな普通の人たちの戦時中の姿を描きたいと構想し、そこで出会ったのが、今回の原作だった。
片渕監督は「『この世界の片隅に』って漫画を開いてみたら、まさに、そののどかで、平和な、すずさんという人が出てきて。戦争だからって、押しつぶされそうに、いきなりはなっていなくてね」と話した。
食糧難だった戦時中、すずさんは、道端に生える、季節の草花などを使って、知恵を絞りながら、食事をこしらえていく。
それは、楽しく台所に立ち、家族に喜んでもらうために、食卓を少しでも豊かにしようとする、普通の主婦の姿だった。
さらに、こんなシーンも。
家族で、防空壕(ごう)を作り終え、夫・周作さんと、2人きりに。
その時、作業を終えた、両親が登場する。
作品にちりばめられているのは、日常の中でありがちな、ちょっとしたハプニング。
それも、戦争とは無縁。
片渕監督は、「あんまり、戦争をテーマに、題材にはしているけど、テーマにはしようと思わなくて。戦争っていう時代が背景にあったところで、生活している人を描きたいなって、そういうような人から描けば、なんか戦争中の生活とか、世の中とかって、今の自分たちも、理解できるんじゃないのかなと思ったんですよ」、「見てくださる方は、自分で、その映像に映っているものとか、そこに聞こえている音に、自分の記憶とか、心の中にあるものを照らし合わせて、何かを見つけて、たぶん、感動されるんだろうなと思ったら、ちょっと、そこへ委ねた方がいいんじゃないかなと思ったんですね」などと話した。
監督は、映画化にあたって、登場人物の服装や家屋、風景など、全ての題材を、当時の事実と照らし合わせ、徹底的に調べ上げたという。
監督のそうしたリアリティーへのこだわりは、こんなシーンにも現れている。
兵器などの製造に駆り出された、女学生たち。
原作には登場しないが、当時を知る市民から、「駅前をよく歩いていた」と聞き、シーンに入れた。
そこには、こんな思いが込められていた。
片渕監督は「女学生たちが、かなりたくさん、防空壕で生き埋めになってしまったらしいんですよね。それを助けに行った、当時中学生だった男性の話とかうかがって、とにかく掘って、人工呼吸するんだけど、かわいそうだったって話とか。なんとか、その女学生たちの姿を、画面に残したいなと思って、駅前にそうやって歩かせたりとか。1人ひとり、人生があって、そこを生きていた方々ってことですよね」と話した。
戦争がもたらすもの。
その究極の非日常を、何気ない風景と、ありふれた生活の中から、見る人に感じ取ってもらいたい。
監督の思い。
実は、映画の製作が始まったのは、2010年の夏。
監督は、こんな思いも込めていた。
(製作中も、3.11(東日本大震災)があったと思うのですが、何かそういう意識などはあったのですか?)
片渕監督「僕らも一生懸命、被災地に向かって、粉ミルクとか、おむつとか、一生懸命、送ることをやっていたんですね。でも、それは、同じことが、戦災でもあったということなんですよ。夜に、空襲があって、朝になった時には、もうすでに、隣の町の広島から、何万個っていう、お握りが届けられていたりするんですね。ある意味でいうと、逆に、この映画を描くと、震災のことも描くことになるんじゃないかなと思いました」
(自分が、実際に見たことがあるのは、3.11だったりしたので、なので結構、世代によっても、身近に(戦争を)感じられるのって、いろんなものが合わさったからだと)
片渕監督「ごく普通の人たちでっていうこと、すごく理解できる」
喪失と混乱の中にあっても、日々を生きる人々。
その姿から、見る人それぞれが、何かを見つける作品。
驚くべきは、「君の名は。」が、全国で296の映画館で封切りされたのに対して、「この世界の片隅に」は、68という映画館でスタートされました。
かなり、限られた場所となります。
市川紗椰が、映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督(56)に会ってきました。
時は、太平洋戦争末期。
舞台は、「日本一の軍港の町」といわれた、広島・呉市。
主人公は、その呉市にお嫁に来た、北條すずさん(18)で、おっちょこちょいな性格で、絵を描くことが大好きな、普通の女性。
物語は、このすずさんが、恋をし、悩み、怒り、そして笑う。
戦時中にあっても、決して特別ではない、普段の日常をつづっている。
11月12日の公開後、満員御礼の映画館が続出し、過去10年間の週間興行収入記録を更新したという映画館もある。
観客は、「大変なことがあっても、すずちゃんが、いろいろやらかして、笑えるところが、すごく好きだったかなって」、「悲しい悲しいで、泣かされるっていうんじゃなくて、なんか、日常の感覚の中で、『ああ、うん、わかる、わかる』みたいな、そういう感じの映画だなと思います」などと話した。
戦争を知らない世代も、その時代に生きた人々に共感できるという、この作品。
原作は、広島県出身の漫画家・こうの史代さんによる、同名の漫画。
今なぜ、この映画が、人の心を打つのか。
市川紗椰が、脚本も手がけた、片渕須直監督を訪ねた。
(この作品をアニメ化しようと思ったのは、何かきっかけ、出会いは?)
片渕監督「『マイマイ新子と千年の魔法』という映画を作って。(舞台は)昭和30年(1955年)なんですね。その登場人物たちの、ちょっと10年前をさかのぼってみたら、面白そうって思い始めて」
片渕監督の前作「マイマイ新子と千年の魔法」は、昭和30年の山口県を舞台にした、子どもたちの友情の物語。
戦後の混乱が尾を引く時代の中でも、描かれているのは、やはり普通の子どもたちが、普通に暮らした日常だった。
この時、監督は、次はそんな普通の人たちの戦時中の姿を描きたいと構想し、そこで出会ったのが、今回の原作だった。
片渕監督は「『この世界の片隅に』って漫画を開いてみたら、まさに、そののどかで、平和な、すずさんという人が出てきて。戦争だからって、押しつぶされそうに、いきなりはなっていなくてね」と話した。
食糧難だった戦時中、すずさんは、道端に生える、季節の草花などを使って、知恵を絞りながら、食事をこしらえていく。
それは、楽しく台所に立ち、家族に喜んでもらうために、食卓を少しでも豊かにしようとする、普通の主婦の姿だった。
さらに、こんなシーンも。
家族で、防空壕(ごう)を作り終え、夫・周作さんと、2人きりに。
その時、作業を終えた、両親が登場する。
作品にちりばめられているのは、日常の中でありがちな、ちょっとしたハプニング。
それも、戦争とは無縁。
片渕監督は、「あんまり、戦争をテーマに、題材にはしているけど、テーマにはしようと思わなくて。戦争っていう時代が背景にあったところで、生活している人を描きたいなって、そういうような人から描けば、なんか戦争中の生活とか、世の中とかって、今の自分たちも、理解できるんじゃないのかなと思ったんですよ」、「見てくださる方は、自分で、その映像に映っているものとか、そこに聞こえている音に、自分の記憶とか、心の中にあるものを照らし合わせて、何かを見つけて、たぶん、感動されるんだろうなと思ったら、ちょっと、そこへ委ねた方がいいんじゃないかなと思ったんですね」などと話した。
監督は、映画化にあたって、登場人物の服装や家屋、風景など、全ての題材を、当時の事実と照らし合わせ、徹底的に調べ上げたという。
監督のそうしたリアリティーへのこだわりは、こんなシーンにも現れている。
兵器などの製造に駆り出された、女学生たち。
原作には登場しないが、当時を知る市民から、「駅前をよく歩いていた」と聞き、シーンに入れた。
そこには、こんな思いが込められていた。
片渕監督は「女学生たちが、かなりたくさん、防空壕で生き埋めになってしまったらしいんですよね。それを助けに行った、当時中学生だった男性の話とかうかがって、とにかく掘って、人工呼吸するんだけど、かわいそうだったって話とか。なんとか、その女学生たちの姿を、画面に残したいなと思って、駅前にそうやって歩かせたりとか。1人ひとり、人生があって、そこを生きていた方々ってことですよね」と話した。
戦争がもたらすもの。
その究極の非日常を、何気ない風景と、ありふれた生活の中から、見る人に感じ取ってもらいたい。
監督の思い。
実は、映画の製作が始まったのは、2010年の夏。
監督は、こんな思いも込めていた。
(製作中も、3.11(東日本大震災)があったと思うのですが、何かそういう意識などはあったのですか?)
片渕監督「僕らも一生懸命、被災地に向かって、粉ミルクとか、おむつとか、一生懸命、送ることをやっていたんですね。でも、それは、同じことが、戦災でもあったということなんですよ。夜に、空襲があって、朝になった時には、もうすでに、隣の町の広島から、何万個っていう、お握りが届けられていたりするんですね。ある意味でいうと、逆に、この映画を描くと、震災のことも描くことになるんじゃないかなと思いました」
(自分が、実際に見たことがあるのは、3.11だったりしたので、なので結構、世代によっても、身近に(戦争を)感じられるのって、いろんなものが合わさったからだと)
片渕監督「ごく普通の人たちでっていうこと、すごく理解できる」
喪失と混乱の中にあっても、日々を生きる人々。
その姿から、見る人それぞれが、何かを見つける作品。