「子どもはわかりやすいねぇ~」
そう言う大人が、本当に子どものことを理解していたことなんか、ない。
子どもだったころ、私は、あやかちゃんと友達になりたかった。あやかちゃんは静かな子だった。細くて、弱くて、ちいさくて、いつも困ったような顔をしていた。
だいたい、「……うん。」としか言わなかった。だから、あやかちゃんの周りには、あやかちゃんに「……うん。」と言ってもらいたい用事のある子ばかりが集まった。
「そのお菓子ちょうだいよ」
「……うん。」
「おもちゃ貸してよ」
「……うん。」
あやかちゃんの手には、いつもなんにも残らなかった。
そうして全部をあげてしまって、あとはぽつんと立っている、細くて、弱くて、小さくて、「……うん。」しか言わないあやかちゃん。彼女のことをまわりの大人は、やっきになって守ろうとした。しだいに、「あやかちゃんに近づく子どもはみんな、あやかちゃんから何か奪いたい子なのだ」と決めつける大人も出てきた。
私は、あやかちゃんにお手紙を書いた。
あやかちゃん こんにちは きのーは
かえりのバスで いっしょだね
おともだちに なりましょー
それで チェンリングを
そこまで書いたところで、私は大人にビニール袋をもらいに走った。チェンリングというのは、私が子どもだった時に流行っていた、プラスチックの輪っかをつなげて遊ぶおもちゃだ。いろんな色のがいくつもあって、交換こするのがとても楽しい。それをあやかちゃんと分けっこしようと思った。
お手紙ならきっと、「……うん。」以外のことも聞かせてくれる。私一人より、ふたりぶんのチェンリングをつなげた方が、きっとずっと長~い首飾りをつくれる。私はとってもわくわくしながら、大人に向かってこう言った。
「ビニール袋をちょうだい」
「何に使うの」
「あやかちゃんにあげるお手紙につけるの」
「なら、そのお手紙を見せなさい」
大人は私のお手紙を、奪って読んでこう言った。
「この続きに、『あやかちゃん、チェンリングをちょうだい』って書くんでしょう。チェンリングをビニール袋に入れさせるのね? いけませんよ。あやかちゃんが大人しい子だからって、みんなで寄ってたかって物を取ろうとして!」
子どもながらに「違う」と言っても、この一言で済まされた。
「子どもの考えていることなんて、すぐわかるんだから!」
それから、私は、大人になった。
大人の女性になった私は、女性を愛し、生きている。そのことがどうも、今の世の中では、「セクシュアルマイノリティ」とか「LGBTs」とかいわれるものにあたるらしい。私は芸能事務所に所属し、ものを書いたり話したりすることを職業にした。そういうふうにしていたら、こんな依頼をいただいた。
「セクシュアルマイノリティとして苦しんだ経験を聞かせてください。この作品を通して私は、苦しんでいるセクシュアルマイノリティの皆さんの差別解消を訴えていきたいんです」
私は、うーん、と考えた。で、こう答えた。「セクシュアルマイノリティと呼ばれる人が、みんなそれで苦しんでいるとは限りません。なのに、セクシュアルマイノリティの苦しみを話す、なんてことは、私が勝手に代表ヅラするようなものだと思うのでできません。私に話せるのは、私の人生の辛かったことだけです。それでよければお話しますよ」
以降、返答はなくなった。
それから、こんな依頼を頂いた。
「コアな世界の問題を、コアな人たちが語るクイズショー! 過去には、枕営業、AV男優などの方々が出演しています! その世界の方々しか知らないことを暴露してください。次は美人レズビアン特集!!」
また、うーん、と考えた。で、こう答えた。「“その世界の方々”どころか、見た目でわからないだけで同性愛者はどこにでも生きています。性別問わず、自分が同性愛者であることを言えずに生きている視聴者さんがいらっしゃることを考えないといけません。それを考えますと、レズビアンをコアな世界のコアな人扱いする企画には、私には賛同できません。出過ぎたことを申し上げるようですが、企画自体を再考しませんか」
これにも返答はなかったどころか、「レズビアンの見分け方!」とかいう、私が言ったことに真っ向から対抗する内容で騒ぐ番組が作られていた。出演者同士で飴玉を口移しさせるシーンを眺めながら、私が思い出したのは、友達のモデルの言葉だった。
「私、本当は、ふつうの女性として扱ってほしい。でも、男の娘とかオネエとか、そういうキャラづけを受け入れないと、ウチらLGBTsは番組で使ってもらえないから。嫌なこともできてこそプロだよね?」
そうしてオネエキャラを演じる彼女が、なんだか、あやかちゃんとダブって仕方なかった。涙が出た。とっても勝手なことではあるが、私は、泣いた。
私は、セクシュアルマイノリティ差別が辛くて泣いたんじゃない。
私はただ、“キャラづけを受け入れないと使ってもらえない”と言った彼女にも、番組制作者に「……うん。」と言ったその続きがちゃんとあるのだ、っていうことに泣いたのだ。その続きをちゃんと聴こうとしない態度で、いったいどれだけ面白いものに出会えるっていうんだ?
誰が当事者だとか、誰がマイノリティだとか、どっちが弱者だとか、ぶっちゃけどうでもいい。むしろそういうのこそが邪魔なんだ。それぞれの人がいて、それぞれの人生がある。でも人はひとりぶんの人生しか生きられない。だからこそ聞かせてほしいんじゃなかったのかな。単色に塗られた「その世界の人」の話じゃなくって、それよりずっと色とりどりな、その人自身の話を。
“あやかちゃん”を勝手に守ろうとする大人みたいに、あの人たちは「セクシュアルマイノリティとしての苦しみを!!」と私に言った。
“あやかちゃん”からなにか奪っていこうとする子どもみたいに、あの人たちは「暴露しちゃってください! タブーなしのぶっちゃけネタ大放出!!」と私に言った。
そういう空気の中で、弱いとされる人たちは、「……うん。」と言い続けてきたのだ。だから、近づいてきた人が、友達になりたいのか、何かを奪いたいのかの見分けがつきにくい。それで、弱者を守りたい騎士気取りの誰かが、友達になりたい人にまで「奪いたいんだろ!」って勝手に石を投げるので、孤立してしまうのだ。
例の番組のtwitterには、「この番組でLGBTsを理解して!」と書かれていた。
LGBTsを理解する。よくあるフレーズだ。この連載にも、こんなご投稿を頂いている。
「同性愛を理解する」「LGBTsを理解する」
セクシャルマイノリティーの話題の時に便利に使われがちな「理解」という言葉ですが、そもそも「理解する」とはどういうことなのでしょうか?
「理解出来ている状態」とはどんな状態だと思いますか?
牧村さんの鋭い観察眼で紐解いていってほしいです。
(全文そのままで掲載させて頂きました)
私の観察眼が鋭いかどうかはわからないが、お答えさせて頂くなら、こうなる。
「理解なんてできない。でも、だからこそ決めつけずに知ろうとするのが、“理解する”という行為だ」
子どもとか、LGBTsとか、特定の特徴を持つ人たちみんなを理解することなんか到底無理に決まっている。それは、「子どものことなんかすぐわかる」って言っていたあの大人が、“子ども”というカテゴリどころか、自分のクラスにいる数十人のことすらちっともわかっていなかったのに似ている。
それでも「理解してる」とか言うならば、理解できる範囲に押し込めてるだけだ。
たとえば、レズビアンを「コアな世界のコアな人!」扱いする限り、その外で生きているレズビアンのことは目に入らない。「タブーのないコンテンツ作りが売りなんで!」とか言いながら、レズビアンを「タブーな人たち」扱いしているのは制作者および視聴者自身に他ならないってことにも、いつまでたっても気づけない。
つまんない。
勝手に線を引き、「その世界の方々」をワーキャー言いながら扱うことは、自分の世界を狭めることに他ならない。私は、そういう人が引いた線から出ていく。「弱い子」でも「大人しい子」でもない、ただ、「あやかちゃん」と話したいから。あやかちゃんと友達になりたいから。
理解なんてできないだろう。別の人間なんだもの。
でもね、だからこそ、「……うん。」の続きが聴きたいんだ。
あやかちゃん、私は、あなたにはなれない。あやかちゃん、私には、あなたを理解することなんてできない。でもね、だからこそね、「……うん。」の続きを聞かせてほしかったんだよ。
つなげられなかったチェンリングを、心の奥にぐちゃぐちゃにしまったまま、私は、考えている。「私には理解できるの!」っていう、あの大人みたいな大人だって、私と同じようにさみしいだけなのかもしれないな、って。悪気なく誰かを理解した気になりたいだけかもしれないな、って。
フランス人奥さんの祖父から伺った戦争の話を、牧村さんの視点で描くノンフィクション連載。
「ルネおじいちゃんと世界大戦」再開しました。
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