第五十六話

 息子がマウリシアの貴族の娘と結婚する、という話を侍女から報告されたときはじめエレーナは信じなかった。
 それは無理からぬことであろう。
 少なくともエレーナの知るかぎり、フランコという少年は自己主張の少ない、極めて親に従順な少年だった。
 そして王族としての常識をわきまえ、勉学と武術に精を出し優秀な王子として高い評価を得ていたのである。
 まして断られたとはいえマウリシアの第二王女を婚約者として打診したというのに、たかが子爵の娘ごときと結婚するなど正気の沙汰とも思えなかった。
 
 「フランコ!貴方はどうかしてしまったの?汚らわしい雌犬と結婚するなんて母は許しませんよ!」
 「――――テレサを侮辱するのはやめていただきたい。たとえ貴女が血のつながった母であろうと許しません」
 「なんてことを……!」

 それでも従順でおとなしかったフランコの印象が抜けきっていなかったのだろう。
 エレーナはフランコの予想外の苛烈な口調に絶句した。

 「目を覚ましなさいフランコ。貴方は次代のサンファン王国国王となるべき人物なのよ。自らをこれ以上貶めてはなりません」
 「テレサと結ばれるのが私を貶めるというのならば王位などいりません。なんなら私のほうから王位継承権をペードロに譲渡しましょうか」
 「ま、待ちなさいフランコ!貴方自分が何を言っているかわかってるの?」

 このときまでエレーナはフランコが王位を望んでいるということに何の疑いも持っていなかった。 
 一国の権威の象徴であり、絶大な権力を振るうことのできる王位は何よりも魅力的なものであるはずである。
 その王位を失うとわかればフランコも目を覚ますであろう……王位の妄執するエレーナは当然のようにそう考えていたのである。
 まさか息子が女のために王位を擲つ覚悟を決めているなど、彼女の想像の埒外のことであった。
 
 「れ、冷静におなりなさい。後で後悔しても遅いのよ?国王、貴方はあと一歩で国王になれるところまで来ているの」

 手に入るのならば誰もが欲する地位ではないか。
 そんな当たり前の常識が崩壊しそうなことにエレーナは焦燥する。
 彼女の野望を実現するためにはフランコが王位に就くということが絶対に必要なのだ。

 「私にとって王位は重荷でしかありませんよ。物心ついてこのかた望んだことなど一度もありません」

 ―――――テレサと結婚するために必要ならそれを奪う、とはあえて言わない。
 しかし自分の中の性を自覚したときから、王位という地位が重荷であったのは確かに事実であった。
 どうして王族などに生まれついてしまったのか、と埒もないことを考えていたことをフランコは今更のように思い出す。
 そして繰り言のように第一王妃に対する呪詛を囁き続けた母の言葉も。

 「気でも狂ったのですか?ああ、そこの女狐が貴方をおかしくしてしまったのね?」

 エレーナはフランコの言葉を自分にとって都合のいい方向に捻じ曲げた。
 彼女のアイデンティティを保つためにはそれしか方法がなかったからである。
 なおもテレサに掴みかからんと怒り狂うエレーナにフランコはとどめの言葉を放った。

 「―――――お引き取りください。さもなくば今すぐ王位継承権を返上して参りますぞ?」

 ゾクリとエレーナの背筋に冷たい戦慄が走った。
 まるで自分の息子がそっくりの化け物に変わってしまったかのような不気味さである。
 王位が欲しくない、という生物が存在するということがエレーナには理解することができなかったのだ。

 「くっ……このままでは済ませませんよ!」

 フランコに継承権を返上されてしまえば万事は休する。
 いかに不満を抱えていようともはや引き返すほかにエレーナに術はなかった。
 渾身の恨みをこめてギッとテレサを睨みつけたエレーナは靴音も高く憤然とフランコの私室を後にした。

 「やれやれ、不快な思いをさせたね?テレサ」
 「この程度は覚悟していたさ。あの方がお義母様であるという事実には変わりなのだし」




 ちっ……脳筋は悩みがなくていいことだ。
 バルドは本当に舌うちしたくなるのをかろうじて自制した。
 この王子、予想以上の猫かぶりだ。
 マルガの太守が王子の器量を褒めていたのも故ないことではなかったらしい。

 先ほどの王妃との会話には明確な力関係があり、そしてその上下関係はフランコが王位に依存していないのに対し、王妃が王位に完全に依存していることに起因する。
 おそらく本気でフランコはテレサと結婚できるならば王になどならなくていいと考えているだろう。
 性同一性障害を抱えたまま、たった一人孤独な国王の椅子に座り続けるというのは、確かにバルドも想像しただけで慄然とする思いを禁じ得ない。
 だが我が身の不幸を武器にして、なんの覚悟もなく王になろうとしているフランコがどうしても許せなかった。
 部下に死ねと命じることのできる主君には、果たさなければならない義務と矜持がある。
 たとえ今が戦のない太平の世にあったとしても、左内は数知れぬ死人の上に君臨することを理解していない主君を認めることが出来なかった。


 『…………あまちんねえ、ぼう(甘えるな坊主)』

 「――――何か?」

 バルドが呟いた言葉を理解できなかったフランコは不審そうに問い返した。
 これはもうキレていいだろう。
 友人の恋を祝福してやりたいのはやまやまだが、一方的にこちらが手を汚すほどの義務もない。
 やるならフランコにも命を賭けてもらわなければとても彼を戦友と認めることはできなかった。

 「なるほど、貴方を王位に就けたいというのは母上の希望、我らの望みでございます。我らが自らの利害のために貴方を手助けするのは貴方にとって当然のことなのかもしれません。なんとなれば殿下は王位に就くことを望んでおられるわけではないのですから」

 しかしいざとなればとっとと王位継承権など放棄してしまえばよい、とフランコが考えているならばそれは考えが甘すぎる。
 フランコにとっては王位はそれほど価値があるものではないのかもしれないが、ほとんどの人間にとっては何を犠牲にしても手に入れたい垂涎の的なのである。

 「しかし今一度お考えいただきたい。果たして王位継承権を放棄すれば殿下の命は安泰でありましょうか?第三王子が即位したとして、彼を支持する軍部は殿下を放っておくでしょうか?殿下が王位継承権を放棄したとしても殿下とテレサの間に子供が生まれればその子供は王位継承権を継承します。対立する貴族の巻き返しを防ぎたい軍部が再び暗殺を企てない保障がどこにあるのです?」

 「私は――――別にペードロの邪魔をするつもりは――――」
 「確かに殿下とペードロ殿下は仲が良くていらっしゃる。しかしむしろ仲が良いからこそ部下というものはフランコ殿下を敵視するのです。殿下がペードロ殿下ほどに彼の部下とも仲が良いなら別ですが」

 決して愚かではないフランコは、ようやくにして自分の置かれた立ち位置の危うさに気づいた。
 ――――あるいは気づかぬふりをしていたことに気づかされたのかもしれなかった。
 せっかくテレサとの新たな生活が始まると言うのに血で血を洗う政治闘争を主導していかなければならないということから目を背けたかったのかも。

 「それに殿下を支持する貴族たちがこのまま手をこまねいているでしょうか?テレサを暗殺してでも殿下の目を覚まさせようとするのでは?一番の容疑者は失礼ながら王妃殿下でありましょうが」
 「わかった。わかったとも。私が王位に就くと就かざるとに関わらず私はこの権力闘争に勝利しなくては妻を慈しみ子供を愛しむ平凡な幸せすら望むことも出来ないのだな?」

 所詮生きるということは戦うということだ。
 王族として生まれてきたものならばなおのこと。
 傀儡として自ら生きるということを諦めさえすれば戦うことはないかもしれないが、自ら生きないということは他人によって殺されるということと同義でもある。
 愛する女と添い遂げたいと本気で望むならば父王を殺してでも王位を奪い取る程度の気概がなくてどうするか。
 天は往々にしてそんな無法な想いを愛するのだ。
 左内の同輩にして戦国の快男児として名をはせた前田慶次郎という傾奇者が吐いた言葉を左内はありありと思い出していた。

 「無法天に通ず」

 どうしても貫き通したい意地があるのならば、どうしても守り通したい愛しい人がいるならば、身命を賭して常識の壁を破らねばならない時がある。
 もっともそれは、戦国に生きる傾奇者の戦人の意気地であったのかもしれないが。

 「テレサが欲しいなら、自分の本性に見向きもしなかった母を見返してやりたのなら、戦って勝ち取るしかない。その覚悟はあるか?フランコ」

 ようやくバルドに名前で呼んでもらえたフランコはごくりと唾を飲み込んだ。
 覚悟があるなら力を貸そう。ないというのなら見捨てる。言外にバルドがそう言っているのだということを理解したからだ。
 バルドがまともなマウリシア王国の大使であればその選択はありえない。
 しかしそのありえないことに命を賭けられることこそが戦人の資質であり、本質でもある。
 理屈ではなく勘によってフランコはそれを察した。

 「王国の未来とテレサを二つながら欲するならばこの手がいくら汚れようと構いはしないさ」

 よくぞ言った、とバルドは破願した。
 まるでそれは契約書にサインしたファウスト博士を見つめるメフィストフェレスのような、どこか悪魔的な笑顔であった。

 「よろしい。では手始めにエレーナ王妃から洗ってもらおうか。実の息子となれば警戒も甘いだろうからな。あのお人は間違いなくろくでもないことを考えている――――出来るかどうかは別にして……その証拠を押さえておけ」
 「母は自分で思っているほど政治的影響力はないと思うが……」
 「娘の不始末は親の責任と相場が決まっている。本命はコルドバ公爵だ。場合によっては娘に連座してコルドバ公爵家まで処刑されかねない――――それが嫌なら貴族をまとめるのに力を貸せと言ってやるのさ」

 エレーナが第三王子の暗殺を企み、その手先に公爵家の人脈が使われていた場合、当然のことコルドバ公爵も罪を免れることはできない。
 まさに無法も無法、それを盾に祖父を脅迫しろ、バルドはそう言っているのである。


 「驚いたな……テレサの友達が普通のわけはないと思っていたけれど」
 「負け戦が面白いなどという馬鹿もいたが……主に仕える戦人にとって戦は勝たねばなんの意味もない。そして勝つために戦を楽しめ――――と言ってもわからんか」

 呵呵と笑うバルドに、フランコは心底彼を敵に回したくないと思う。
 人間としての根幹的な部分でバルドはフランコとは異質な存在であり、その彼と戦って勝つイメージがフランコにはどうしても浮かべることが出来なかった。



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