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庵野秀明が語る、僕のアニメの師匠 自主制作をスタートした学生時代

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週刊新潮 2016年12月1日号 
2016/11/24発売

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庵野秀明氏

■「庵野秀明」インタビュー 僕の原点「特撮とアニメ」とその危機(2)

 アニメ「エヴァンゲリオン」シリーズの作者で映画「シン・ゴジラ」の総監督でもある庵野秀明(56)への2時間インタビュー。勉強やスポーツはそっちのけで、特撮やアニメを夢中で享受していた庵野少年は、長じると、自分が作る側にも立ってみたいという欲求を抱くようになる。宇部高校時代にも少し試み、大阪芸術大学映像計画学科に進むと、さらに掘り下げる。そして学生イベントへの参加をきっかけに、プロへの道に進んだ。

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 高2のとき、貯金をはたいて8ミリフィルムの撮影機材を買いました。僕らの世代は特撮もアニメも一くくりだったので、両者の間に感覚的な線引きはほぼなくて、僕はずっとその両方をやりたかったんです。

 せっかく8ミリカメラを買ったので、トリック撮影を使ったヒーローものもやってみたくて、「ナカムライダー」という5分くらいの短編を撮りました。友人の中村君と悪役の僕が戦うだけの内容で、僕は制服のままで、ナカムライダーは変身しますが、上に合羽を着るだけ。小学生のころ流行った「仮面ライダーごっこ」の延長ですが、自分でも変身ヒーローものを映像として形にしてみたかったんです。文化祭での上映は、進学校でそういうことをした前例がなかったこともあり、かなり受けました。

■「サボるとは何ごとだ」

 その後は、浪人時代からペーパーアニメなどの自主制作を始めて、大学時代には「帰ってきたウルトラマン」という自主制作映画を撮りました。学生が作る8ミリフィルムとしては、かなり大規模な特撮作品になりました。3年の夏から冬にかけて撮影したあと、編集作業がありましたが、正月は実家に帰る約束だったので、フィルムを持って帰省しました。ところが三が日はどの店も閉まっていて、編集に使うスプライシングテープが手に入らず、作業ができませんでした。大阪に戻ると「作業はどうだった?」と聞かれ、「テープがないので進まなかった」と答えたら、「連絡があればすぐ送ったのに、サボるとは何ごとだ」と。

■二人のアニメの師匠

 自主制作なのでみな自腹で、学生生活を犠牲にして映画を作っているのに、その監督がサボっていたとは許しがたい、ということです。それほど作品を中心に考えているグループだったんです。結果、僕は監督を降ろされ、残った作業はパートナーの赤井君にお願いして、時間ができたらお手伝いする約束をしていた、テレビアニメ「超時空要塞マクロス」(82年10月~)にアルバイトで参加することにしたんです。3カ月くらい東京で、アニメーターの板野一郎さんの下で、アニメーションの原画に携わることになりました。

 板野さんは時間と空間のとらえ方がすごい人で、その動きの快楽を伴うタイミングと、カメラを意識した空間把握能力を間近でみることができたのはありがたく、すごく勉強になりました。その後、また大阪に戻り、仲間と自主アニメを作ったあと、大学も追い出されたので東京に就職先を探し、運よく宮崎駿さんの下で「風の谷のナウシカ」の原画作業に参加できたんです。そのときは「巨神兵」の場面を任されました。宮崎さんからはレイアウトのとり方などを教えてもらいました。お二人からは技術的なことはもとより、作品づくりの姿勢みたいなものを学んだことが、自分の人生にとってもすごくよかったと思います。このお二人が僕のアニメの師匠にあたります。この組み合わせはほかにはないと思います。ありがたいですね。

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「庵野秀明」インタビュー 僕の原点「特撮とアニメ」とその危機(3)へつづく

特集「『シン・ゴジラ』総監督『庵野秀明』が2時間語った 僕の原点『特撮とアニメ』とその危機」より

  • 週刊新潮
  • 2016年11月24日号 掲載
  • ※この記事の内容は掲載当時のものです

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