日本の障害学を牽引してきた立岩真也先生のインタビュー記事。
長谷川豊氏の「殺せ」ブログ、そして、7月に発生した相模原障害者虐殺事件について。
こういうときに必ず出てきて、歴史を振り返りながら、専門家として語るべきことを語られている。
私たちは障害者をめぐる過去の歴史について、知らないし、忘れてしまう。
過去から学ぶべきことは多い。
――長谷川さんの最初の「殺せ」という主張は、相模原事件に通じるとの指摘が多くありました。私たちはどう向き合えばよいでしょうか。
「殺せ」と煽る言葉に対しては、もっと「圧」を持って怒る必要があると思っています。その人(相模原事件の容疑者)は、事件の前にも「障害者は不幸で死んだ方がいい」とか、「殺せば社会は助かる」というようなことを周りに話していたといいます。
まず「なんでお前が他人の幸不幸がわかるんだよ、言えるんだよ」ということです。次が、すでに言ったことと同じで、人を殺さないとやっていけないような社会では全くない、ということです。
障害者は死ねばよい、生きていても不幸に違いないから。生きていても税金の無駄遣いだから。
そういう言説を発動させる考えを、「優生思想」 といいます。
この優生思想というのは、一見すると合理的にみえますが、きわめていい加減な思想ともいえない、ジャンクな言葉の塊です。
障害がある人間が不幸である、と確信しているのであれば、パラリンピックに反対するべき。しかし、そういう行動はしない。救命救急センターで回復不能になった人間をケアしている医療・看護スタッフたちは、非国民ということになってしまう。しかし、生命を救う人たちへの批判はしない。
そういう障害者を支える専門家や医療制度をすっとばして、抵抗する力がない障害者を選んで、殺せ、、死んだいい、と汚い言葉を投げつける人間が現れる。
むかしから、こういう人たちいましたが孤立していました。いまはネットで、つながることができるようになってしまった。
そしてその言葉にたいして、賛同する人たちが出てきてしまった。
一部ではありますが。それでも、そういう一部の人たちの醜悪さについて、おおくの人は見てみないふりをしてしまう。それが大人らしい振る舞いではある。
無知な人たちの不気味さ。
まっとうに怒りを表明していかないと、障害者を殺せ,という言葉の群れを押しのけることができない。
立岩先生はそういうことをおっしゃっていると思います。
私も、障害学を知り、学ぶことで目が開かれた人間のひとりとして、優生思想という、思想にもなっていない、ジャンクな言葉に抵抗していきます。
立岩真也「「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー:泉谷由梨子)