第54回 中西健夫 氏
2. メジャーデビュー→レコード店のレジ係?
--音楽はいつからされていたんですか?
中西:音楽は高校に入ったときからやってました。
--当時はどんな音楽をやっていたんですか?
中西:当時の京都は色々な音楽が流行っていたので、3つくらい違うパターンのバンドをやっていました。一つ目はシュガーベイブ系のちょっとおしゃれな音楽をやるバンドで、二つ目は当時すごくカントリーが流行っていたので、バンジョーとフィドルとフラットマンドリンを擁したカントリーテイストのバンド、あとは割と普通のバンドをやっていました。
--楽器は何をなさっていたんですか?
中西:バンドによって楽器を持ち替えていました。ピアノをやったり、ギターをやったり、ベースをやったり。あとちょっとバイオリンを習っていたので、フィドルも少し弾きました。
--頂いたプロフィールには「'79年にメジャーデビュー」とありますが、これは大学卒業後ですか?
中西:大学卒業と同時にですね。僕は大学四年のときに就職を決めて、夏にアメリカのサンディエゴでホームステイをしていたんです。そのとき、お世話になった色々なホスト・ファミリーとのお別れパーティーのために曲を作って、みんなで合唱したらすごく盛り上がって、生まれて初めてのスタンディング・オベーションを何度も受けたんです。それで「音楽って世界共通だな」と感動しながら、ホスト・ファミリーの家に帰ると、母親から「"デビューしないか?"という話が来ている」と葉書が届いていたんです(笑)。音楽に感動した後に、こういう知らせが来るとはすごいなと思いましたね。
--そのデビュー話はどこからきたんですか?
中西:FM802の栗花落 光(現 FM802 常務取締役)さんが、当時ラジオ大阪にいらっしゃったんですが、ラジオ大阪の現場担当の方が僕らを大変気に入ってくれて、その話が栗花落さんへ行き、栗花落さんからフジパシフィックの朝妻一郎さんへ話が行ったんです。今から考えると栗花落さんと朝妻さんというゴールデン・コンビだったんですが、トントン拍子にコロムビアからデビューが決まりました。
--そのバンドで中西さんは歌われていたんですか?
中西:もちろん歌ってもいましたが、今から考えると小室哲哉的と言いますか、作詞・作曲やアレンジをやって、楽器も全て弾いていました。
--プロデューサー的だったんですね。
中西:ライブには出なくてもいいというタイプだったんです。
--結局、そのデビュー話はどうなったんですか?
中西:当然バンドのメンバーはみんな就職が決まっていましたし、僕も京都の某ホテルに就職が決まっていて、本来ホテルマンになる予定だったんですが、いまいち乗り気じゃなかったんですね。結局、ボーカルの女性と僕だけがやりたいと話をしたら「それでもかまわない」というので、2人組でのデビューが決まったんですが、当然父親はそのことを認めてなかったので、大学を卒業すると同時に、ワゴン車に荷物を詰め込んで、夜逃げみたいな形で上京しました。
--ユニットでのデビューだったんですね。ちなみにユニット名を教えて頂いてもよろしいですか?
中西:忘れました(笑)。
--わかりました(笑)。デビューのために上京されて、東京の印象はどうでしたか?
中西:「東京の人って冷たいな…」と感じましたね。例えば、ラジオ番組にブッキングされても、関西弁しか喋れなかったので、終わるたびに「何て喋り方をしているんだ!」と怒られるわけです。「関西弁を直さないと、東京じゃ通用しないぞ」と。
--それは辛いですね…。
中西:そういうことを何度も言われると、段々喋れなくなってしまって、「デビューするってこんなことなのかな…」と思いましたね。当然曲は売れてないですし、辛かったです。それで、デビューから半年くらい経ったときに、とうとうお金が尽きてしまったんですよ。
--事務所はついていなかったんですか?
中西:一応コロムビア預かりで、ある事務所に所属していたんですが、その事務所と相性が悪くて、しかも仕事のギャラも未払いだったりと、田舎で聞いていた「東京って怖いよ」という話が、全て身に降りかかってきたような感じでした(笑)。結局お金がないので、僕らのディレクターが心配をしてくれて、「知り合いがレコード屋を開くから、そこでバイトしたら?」と紹介してくれたのが、ディスクガレージだったんです。
--ディスクガレージって、もともとレコード屋さんだったんですか?
中西:だから「ディスク」の「ガレージ」なんです。'80年に吉祥寺にOPENしたんですが、そこのアルバイトとして僕が入りました。
--中西さんは最初レコード店の店員さんだったんですか。
中西:そうです。レジを打ってました(笑)。
--(笑)。それでバンド活動の方はどうなったんですか?
中西:その頃、もうバンド活動に対しては興味を失っていたんですが、作詞・作曲をしていたので、何曲か人に書いたりしていました。
--バンドの契約はアルバム契約だったんですか?
中西:そうです。シングル1枚、アルバム1枚出して、その次はなかったです。
中西:音楽は高校に入ったときからやってました。
--当時はどんな音楽をやっていたんですか?
中西:当時の京都は色々な音楽が流行っていたので、3つくらい違うパターンのバンドをやっていました。一つ目はシュガーベイブ系のちょっとおしゃれな音楽をやるバンドで、二つ目は当時すごくカントリーが流行っていたので、バンジョーとフィドルとフラットマンドリンを擁したカントリーテイストのバンド、あとは割と普通のバンドをやっていました。
中西:バンドによって楽器を持ち替えていました。ピアノをやったり、ギターをやったり、ベースをやったり。あとちょっとバイオリンを習っていたので、フィドルも少し弾きました。
--頂いたプロフィールには「'79年にメジャーデビュー」とありますが、これは大学卒業後ですか?
中西:大学卒業と同時にですね。僕は大学四年のときに就職を決めて、夏にアメリカのサンディエゴでホームステイをしていたんです。そのとき、お世話になった色々なホスト・ファミリーとのお別れパーティーのために曲を作って、みんなで合唱したらすごく盛り上がって、生まれて初めてのスタンディング・オベーションを何度も受けたんです。それで「音楽って世界共通だな」と感動しながら、ホスト・ファミリーの家に帰ると、母親から「"デビューしないか?"という話が来ている」と葉書が届いていたんです(笑)。音楽に感動した後に、こういう知らせが来るとはすごいなと思いましたね。
--そのデビュー話はどこからきたんですか?
中西:FM802の栗花落 光(現 FM802 常務取締役)さんが、当時ラジオ大阪にいらっしゃったんですが、ラジオ大阪の現場担当の方が僕らを大変気に入ってくれて、その話が栗花落さんへ行き、栗花落さんからフジパシフィックの朝妻一郎さんへ話が行ったんです。今から考えると栗花落さんと朝妻さんというゴールデン・コンビだったんですが、トントン拍子にコロムビアからデビューが決まりました。
--そのバンドで中西さんは歌われていたんですか?
中西:もちろん歌ってもいましたが、今から考えると小室哲哉的と言いますか、作詞・作曲やアレンジをやって、楽器も全て弾いていました。
--プロデューサー的だったんですね。
中西:ライブには出なくてもいいというタイプだったんです。
--結局、そのデビュー話はどうなったんですか?
中西:当然バンドのメンバーはみんな就職が決まっていましたし、僕も京都の某ホテルに就職が決まっていて、本来ホテルマンになる予定だったんですが、いまいち乗り気じゃなかったんですね。結局、ボーカルの女性と僕だけがやりたいと話をしたら「それでもかまわない」というので、2人組でのデビューが決まったんですが、当然父親はそのことを認めてなかったので、大学を卒業すると同時に、ワゴン車に荷物を詰め込んで、夜逃げみたいな形で上京しました。
--ユニットでのデビューだったんですね。ちなみにユニット名を教えて頂いてもよろしいですか?
中西:忘れました(笑)。
--わかりました(笑)。デビューのために上京されて、東京の印象はどうでしたか?
中西:「東京の人って冷たいな…」と感じましたね。例えば、ラジオ番組にブッキングされても、関西弁しか喋れなかったので、終わるたびに「何て喋り方をしているんだ!」と怒られるわけです。「関西弁を直さないと、東京じゃ通用しないぞ」と。
--それは辛いですね…。
中西:そういうことを何度も言われると、段々喋れなくなってしまって、「デビューするってこんなことなのかな…」と思いましたね。当然曲は売れてないですし、辛かったです。それで、デビューから半年くらい経ったときに、とうとうお金が尽きてしまったんですよ。
--事務所はついていなかったんですか?
中西:一応コロムビア預かりで、ある事務所に所属していたんですが、その事務所と相性が悪くて、しかも仕事のギャラも未払いだったりと、田舎で聞いていた「東京って怖いよ」という話が、全て身に降りかかってきたような感じでした(笑)。結局お金がないので、僕らのディレクターが心配をしてくれて、「知り合いがレコード屋を開くから、そこでバイトしたら?」と紹介してくれたのが、ディスクガレージだったんです。
--ディスクガレージって、もともとレコード屋さんだったんですか?
中西:だから「ディスク」の「ガレージ」なんです。'80年に吉祥寺にOPENしたんですが、そこのアルバイトとして僕が入りました。
--中西さんは最初レコード店の店員さんだったんですか。
中西:そうです。レジを打ってました(笑)。
--(笑)。それでバンド活動の方はどうなったんですか?
中西:その頃、もうバンド活動に対しては興味を失っていたんですが、作詞・作曲をしていたので、何曲か人に書いたりしていました。
--バンドの契約はアルバム契約だったんですか?
中西:そうです。シングル1枚、アルバム1枚出して、その次はなかったです。