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「日本版モウリーニョ」オシムの言葉を紡いだ男が歩む監督道 間瀬秀一氏 オシムの通訳になり人生の目標が一変 間瀬秀一は、ブラウブリッツ秋田(J3)の監督就任会見の席上で、こう挨拶をした。 「もしイヴィツァ・オシムさんと出会っていなかったら、この席に着くこともありませんでした」 2003年、29歳の時に、ジェフ市原(現千葉)でオシムの通訳の仕事に就いた。 そしてその1年後には、人生の目標が一変した。 「監督の仕事って、こんなに凄いことなんだ、と思ったんです。 オシムさんが指導したことで、プレーしている選手、携わっているクラブの社員、観戦に来るサポーターやファン、さらにはジェフには縁の薄い観客も含めて、凄く多くの人たちが幸福を味わえた。 それを見て決めたんです。10年後には資格を取って監督になるんだ、って」 ちょうど10年後にS級ライセンスを取得し、11年目に監督のオファーを受けた。 まだ通訳から監督に転身して成功した日本版モウリーニョは誕生していない。 「だからその使命感には燃えていますよ」 師は誰よりも他人の真似を嫌い、日本は日本のスタイルを生み出すべきと主張して来た。 「だから僕もオシムさんを、そのままなぞるわけではありません。 一応僕には海外で7年間の現役生活と、オシムさんと離れてから8年間の指導者人生がある。 出来るかどうかは別として、弟子は師を超えるつもりでやるべきだと思っています」 ちょうどインタビューをしたのが、間瀬の秋田での初練習の日だった。 「岡山でコーチをしていた時に、若手7人の特別練習を任されました。 そこでオシムさんがやっていたメニューに取り組ませてみて、初めて本当の意味がわかったんです」 師は言っていた。 「トレーニングについては、ノートに書くな。書いた瞬間に、それは過去のものになる」 間瀬が続けた。 「教えを守って僕は書かなかった。すると頭にトレーニングの原理が残った。 原理を理解すれば無限に組み替えが出来る。明日は、そのトレーニングをするんですよ」 監督を志して10年、本当に長かったと思う。 しかし着任早々の度重なる戸惑いさえも歓びに変え、間瀬は新しい人生を歩み始めている。 荒波に飛び込む契機を与えたのは、 バルセロナでフランク・ライカールト監督の右腕として欧州制覇を支えたヘンク・テンカーテだった。 間瀬は日体大サッカー部の一員としてオランダ遠征に出かけた。 一軍に名を連ねていても、まだベンチ入りもしていなかった。 だが指導に来たオランダ人コーチが「アイツが一番いい」と自分のことを指している。 それがテンカーテだったと知ったのは、後にテレビに映るバルセロナのベンチに発見した時だが、 とにかく国内で誰にも認められた経験のない大学生は人生が変わるほど勇気づけられた。 「海の外に出れば、可能性が広がると思ったんです。 日体大サッカー部は辞めて、米国へ行くことを決めました。 日本人が誰もプロで成功していない国だったからです。 でも何の伝手もありません。母があまりに心配して、ロスに遠い知り合いを探してきた。 だからスーツケース1個を転がしてロスに行きました」 グアテマラでは2つのクラブでプレーをした間瀬 語学学校へ通いながら、手当たり次第草サッカーに飛び入りしているうちに、 2か月半で日常会話には不自由がなくなった。 そこで米国協会に電話をしてみると、ロスで2部相当のゴールデンイーグルスというクラブが発足するという情報を得た。早速テストを受けて合格。同時に監督に就任したのが、前清水監督のアフシン・ゴトビだった。 「スクールで教えていたゴトビ監督は、それが初めての大人のトップチームの仕事でした。 フォーメーションは、当時としては斬新な3‐6‐1。米国籍の選手は見当たらなくて、僕以外はイタリア、英国、アルゼンチン、コロンビア、ブラジル、ガーナ、エルサルバドル…と、まさに多国籍軍でした。 そこで僕は10番をもらいました」 フィジカルに長け、運動量にも自信のある間瀬は、本職のFW以外も全てのポジションをこなしてきた。 「プロでやっていないのはGKとCBだけで、この2つのポジションも高校の公式戦ではこなしたことがあります」 ただし米国では、サッカーだけでは生活が成り立たなかった。 「お恥ずかしい話ですが、ちょっとしたモデルもしたし、古着やシューズの買い付けなど、 いろんなアルバイトをやりました。 そのうちに、チームメイトのメキシコ人が一緒に母国でプレーしないか、と誘ってくれたんです。 1週間でアパートを引き払い、車も売って、メキシコに飛びました」 だが第1回クラブワールドカップ(2000年)に出場したネカクサのセカンドチームに合格しながら、 数か月の差で年齢制限(23歳以下しか契約出来ない)にかかり契約に至らず、 次に2部のクラブと契約が決まったが、サインをする前日に足首を骨折して破棄された。 「メキシコではフットサルリーグに出て、出場給やゴール給を稼ぎました。 またメキシコシティのソカロ広場でリフティングを披露し、多い時には100人近い観客を集めて小銭を稼ぎ、 食いつないでいましたね」 さすがに長続きはせず1度は帰国するが、今度は知人からグアテマラ2部のクラブの話が来た。 グアテマラでは2つのクラブでプレーをしたが、その映像がエルサルバドルへ流れ、 同国2部のクラブからオファーを受ける。 「グアテマラでは2部リーグでもテレビ中継があり、子供からおばあちゃんまで街中の人が僕のことを知っていました。エルサルバドルでは、おばあちゃんが分析して批判をしてくる。 ヘディングシュートを外したら“おまえはヘディングが下手だ”と直接ダメ出しをされましたよ」 「サッカーに生きた自分に、少し納得出来たんです」 しかし中南米の2部リーグは熱狂的だが、自分に適したレベルだとは思えなかった。 もう少し高いレベルでプレー出来ないかと1度帰国すると、知人からクロアチアリーグの可能性を示唆された。 「K-1のブランコ・シカティックの友人のライターの方が、彼になら頼めると言ってくれたんです。 実際シカティックは空港に迎えに来てくれて、その晩は泊めてくれた。でも翌日からは拠点を決めて、 自分でチームを探しました。3部の4つのクラブを転々としました。 つ目のノヴァリャでは、リーグ2位で入れ替え戦に回り、僕のゴールで2部昇格を決めた。 そして最後はザグレブのトゥルニエという2部のクラブに所属し、3試合連続ゴールなどもあり、 充実したシーズンを送ることが出来た。 最後の試合ではキャプテンマークを巻いていましたね。 それが27〜28歳、そこで引退を決めたんです」 最高潮を迎えたところで、間瀬はあっさりと現役生活にピリオドを打った。 なんだかコリンチャンスの絶頂期に引退して就職したセルジオ越後の決断を彷彿とさせた。 「5か国でプレーをして言葉も覚えた。 サッカーに生きた自分に、少し納得出来たんです。 一方で20歳代の後半に差しかかっても日本代表に入っていない。 次のステップを踏み出すなら、早い方がいいと考えました。結局僕は勝利と敗北を両方認めたわけです」 心身ともに激務だったオシムの通訳 現役時代は身体を使って戦って来た。だから引退後は、頭を使って稼いでいこうと思った。 「最初に思いついたのが貿易ビジネスです。 どこの国のどんなところに何がある。僕だけが知っていることがたくさんあるので、 きっと大金を得られるチャンスが転がっている。 でもサッカーの知識があり語学が出来るという現状を冷静に考えると、通訳が理に適っていると思いました。 それに現役時代は1度も日本のサッカー界に関わることがなかった。 これを機にJリーグと接点を持つのも悪くないと考えたんです」 通訳という目標を定めると、間瀬はアルバイトで貯蓄し、再びクロアチアへ飛んだ。 ザグレブの語学学校でクロアチア語に磨きをかけるためだった。 「日本人が言葉を覚えるには、ヒアリング先行型としゃべり先行型で2つのパターンがあると思うんです。 僕の場合は、完全に後者。まず“伝えたい”から入るアウトプット型です。 だから指導者なのかな、とも思います。 海外に出て困った時には、まず自分の状況を伝える必要がある。 オレは、いつ、どうしたいんだ、と。 アウトプットの方が重要なんですよ」 間瀬が続ける。 「言葉を覚える原点は好奇心じゃないですかね。 どうしてもこの人の言っていることを理解したい。 恋愛が最たるものですが、異性に限らず、心を通わせた相手のことをもっと知りたいと思う」 フットボールプレイヤーという職業柄もあり、間瀬は常に現場での会話から入り、 後から文法を確認し語学をマスターして来た。 「とにかく最初は絶対的に単語量です。並べれば通じる。 優先順位を考え、使用頻度の高い単語から覚えていく。 そして世界中で女性は最高の語学の先生です。 横断歩道を渡っている最中でも言葉のことで疑問が浮かべば、必ず近くを歩く女性に尋ねました」 語学習得への執念 好奇心に加え、おそらく間瀬には語学習得への執念があった。 クロアチア滞在中に、路面電車の中で酔っ払いに絡まれたことがある。 相手は聞いたことのない罵声を浴びせて来た。 そこで間瀬は、相手の胸元を掴んで叫ぶ。 「てめえ、もう1回言ってみろ!」 帰宅すると、再度吐かせた罵声を早速ノートに書き留め、調べて覚えるのだった。 こうしたプロセスを辿るから、クロアチアを再訪した時も、圧倒的に会話能力が筆記能力を凌駕していた。 「入学して初日に筆記と会話の試験がありました。 筆記試験では、ほとんど何も書けなかった。 でも僕は文法を丁寧に学びたかったので、6段階で一番下のクラスで良かったんです。 ところが会話のテストでは、自己紹介などでしゃべりまくった。 すると一番上のクラスに入れられてしまったんです。 このクラスは、クロアティスカといって文法どころか、クロアチアの文学などを学ぶクラスでした」 担当するのは年配の女性教師。 間瀬はもっと下のクラスに入れて欲しいと直訴した。だが彼女は、全く譲歩しなかった。 「あなたはなぜここにいるの?」 「通訳になるためです」 「だったら私のクラスにいなさい。絶対に損はさせないから」 仕方なく文法は図書館で独学した。 一方で間瀬は、旧ユーゴ系の選手が在籍歴を持つJクラブに片っ端からEメールを出した。 公式ホームページに載っているアドレスなので、担当者に届く保証はない。 唯一返答が来たのがジェフ市原(現千葉)だった。 面接の場はオーストリアのグラーツで、間瀬はクロアチアからバスで向かった。 ジェフ側からは祖母井秀隆GMと寮長、新監督のオシムが次男セリミルを伴って現れ、昼食会を行った。 当時間瀬はオシムの存在を知らず、直接は一言も交わさず、 年齢の近いセリミルと他愛のない話をしただけだった。 ところが昼食会を終えホテルに戻ると「帰国後にスタッフと話し合って(採用の是非を)決めるから」と話していた祖母井が、前言を翻し「やってくれ」と即答して来た。 オシムの通訳は、心身ともに激務 舞台裏の事情を聞かされたのは、それから3年半後のことである。 オシムがジェフから日本代表監督に転身することを決め、お別れ会の席でのことだった。 「あの時のことを覚えているか? 実はお前がトイレに立った時に、次男に“アイツ、どうだ”と聞いたんだ。 クロアチア語はあまりうまくないけれど、人を騙すタイプではないので、いいと思うよ、と言っていた」 間瀬は、クロアチアで目にした新聞記事を浮かべていた。 「パナシナイコス(ギリシャ)時代のオシムの失敗は、通訳が原因だった」 ザグレブに戻り、語学学校で報告すると、女性教師は目の前で初めて嬌声を上げた。 「ホラ見なさい。私のクラスにいて良かったじゃないの!」 ただしオシムの通訳は、心身ともに激務だった。 「通訳として、人間として、あれほど鍛えられたことはない。 もしこの仕事を楽しいと感じられる日が来たら素晴らしいだろうけれど、とてもそういう日が来るとは思えなかった」 特にオシムは、監督就任から数か月間は単身赴任状態だったので、 練習を終えると買い物に付き合い夕食も共にした。もっともオシムの料理は絶品で、テーブルにはしっかりとデザートまで並んだ。 「監督でなければ数学の教授になっていた人ですからね。 最初はオシムさんの頭の回転スピードについていけなくて、僕は速読と数学を勉強しました」 オシムの言葉は格別だ。記者会見になれば、唐突にウィットに富んだジョークも、諺も飛び出す。 ジョークの後に笑いに包まれなかったり、諺の後に納得の様子が窺えなかったりすれば、通訳の責任になる。 「ジョークは先回りして予測する必要があります。 諺はオシムさんの口から初めて聞くものがほとんどでしたね。 でも僕はちゃんとリアクションを引き出せるようになった。 そして1度、そういう流れが出来ると、もう聴く側も笑ったり、感心したりする準備をしてくれるようになるんです」 だがクラブのホームページ上でアップされ大きな話題を呼んだ「オシムの言葉」については、 どうでもいいと思っていたという。 「今振り返れば、あれも国民に向けたメッセージとして重要だったんですけどね。 当時の僕は、あくまで自分の仕事は、トレーニング中に選手に向けたメッセージをしっかり伝えることだと思っていたんです」 「だったら他の通訳でやってくれ!」 しかも間瀬の仕事は、オシムの通訳にとどまらなかった。 「ジェフには5か国語をフル稼働させる環境がありました。 ガブリエル・ポペスクとはスペイン語で、ドイツ語が母国語のマリオ・ハースとは英語で、 ブルガリア人のイリアン・ストヤノフとはクロアチア語で、マルキーニョスとはポルトガル語で話すわけです。 一時期ポーランド人のフィジカルコーチがいて、その頃は彼と話すためにドイツ語も独学しました。 日本語をクロアチア語に、さらに英語からポルトガル語に、となると、もう自分が何語を話しているのかわからなくなる。 動詞がクロアチア語で、修飾語がスペイン語になっていたり…、 それでも仕事を続けているうちに整理がつくようになりましたが、もう今は難しいかもしれない。 クロアチア語で一気に話され、即座にスペイン語という状況になったら、一瞬では切り替わらないでしょうね」 会見等では泰然自若として俯き加減でジョークや皮肉を繰り出すオシムも、 日常的には感情を露わにすることが少なくない。 「テレビを見ていて、レアル・マドリーの選手がミスをすると尋常ではない怒り方をしています。 僕やコーチ陣が一番怒られるのは、仕事の失敗よりトランプの切り方が間違っていた時ですね」 通訳でも年に1〜2度は、どうしてもうまくいかない日がある。 フクアリでのトレーニングでは、選手に内容をうまく伝えられずに2度続けて中断させてしまった。 オシムが激怒する。 「だったら他の通訳でやってくれ!」 間瀬は吐き捨ててピッチから出てしまった。 「クビだと思いました。 帰りのバスの中でも一言も話さなかったですからね。 でもバスを降りたら、寄って来て“ケーキ食うか”と声をかけ、わざわざ自分で買って来てくれたんです。 こうして大変なことをしても許す。だからこの人のために、と思うんですよね」 24時間サッカー漬けの指導者人生 オシムは就任早々の挨拶で「ストゥルプリーネ(忍耐)」を強調したそうだ。 間瀬は、なんだか通訳の自分に向けられているような気がした。 世の中うまくいかないことの方が多い。 オシムは、それを誰よりも知悉しているから、スタッフを寛容で包み込む。 「決して分け隔てをしない人です。 重いものを持っている人を見れば手伝おうとするし、いつも選手個々の生活を心配している。 誰にでも等しく罰走を命じるので、 チェ・ヨンスは不服そうな顔をしながらやりましたが、マルキーニョスは帰ってしまった。 ところが直後の試合で、そのマルキーニョスを平気で使う。 そしてマルキーニョスも活躍するんです」 名将に寄り添い、やはり監督は怖いだけでは務まらないと痛感した。 「物凄く怒っても、その裏に暖かみがないと人は動かない。 受け取る側が、感情をぶつけられているのではなく、自分のために怒ってくれている。 そう思えないとダメですね」 オシムの傍で3年間を過ごすと、 阿吽の呼吸が楽しくて仕方がなくなった。 就任当初は、とてもそんな日が来るとは思えなかった状況が、遂に訪れたのだ。 ところがそれから半年後に、阿吽の二人三脚は終幕を迎える。 オシムが日本代表監督に転身することになるのだった。 ちょうど岐阜でキャンプ中のチームは全員で記念撮影をすることになった。 もうチームの一員ではなくなるオシムは、そっと輪から外れる。 そしてオシムは間瀬にも「お前も外れろ」と指で示した。 「うれしかったですよ。 僕も日本代表に呼んでくれるんだと思いました。 でもその後オシムさんにも葛藤があったんでしょうね。 ジェフの後任が息子のアマルに決まるからです。 オシムさんの奥さんは、僕に代表とジェフの通訳を掛け持ちでやらせたかったそうです。 しかし日本協会は、そういうわけにはいかなかったのでしょう」 間瀬は、オシムから卒業したんだと感じた。 実際にオシムが代表に去ると、通訳兼コーチとなり、指導者としても歩み始めるのだ。 オシムを見て… 「実は初めてジェフの練習を見た時、クロアチアの2部の方がレベルは高いな、と思いました。 また最近当時のJリーグの映像を見たんですが、個々の質では対戦相手のG大阪とは比較になりません。 ところがジェフは次々に選手が飛び出し、運動量で上回ってリードする。改めてビックリしますよ。 キックオフから1分でCBがクロスを上げる。あるいはCBのクロスを、リベロが頭で叩く。 つまり3バックのうち2人が最前線に飛び出す。 そんなことが奇策ではなく、流れの中で効率良く行われていた。 練習試合では、相手と力の差があると思えば、平気でGKを下げて代わりにフィールドプレイヤーを入れることもありましたからね」 オシムからかけがえのない栄養を摂取し、 今間瀬は未来のサッカーをイメージできるものを発信したいと考える。 「世の中にはループになっている業界と、直線的な業界があると思うんですよ。 電化製品などは直線的で、携帯電話もテレビもどんどん進化していく。 一方でサッカーはループになっていて、旧(ふる)過ぎるものが逆に新しくなることもある。 例えば、僕の小学生時代は、みんな3‐3‐4で戦っていた。 そういうことを1度思い出してもいいかな、と考えているんです」 脳裏で革新的なアイデアが蓄積され蠢く。 「ただし絶対に簡単なことではない。それだけは判っています」 オシムを見て、監督という仕事をしているのではなく、人間そのものが監督だと思った。 間瀬も同じく24時間サッカーに浸っている。 またそれがとても心地良さそうに映る。 JEF通訳時代にオシム通訳として(トルコ合宿にて) 出逢いの深さが… 不思議なご縁で、春日イーグルス出身の半田選手(MF15)がそのJ3のチームで活躍中なのでした。 http://blaublitz.jp/score?game_id=972 Enjoy なべ |
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