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2016年3月14日 (月)

野球殿堂記者投票への考察⑭(1972年度) 監督、コーチで功績の石本秀一が2年ぶり競技者当選。 特別は別名「中野老鉄山」、「太田四洲」を選出

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 プロ野球創設直後のタイガース監督で打倒・沢村栄治を果たして2年連続制覇、戦後は広島カープ初代監督で陣頭指揮で球団存続の道筋を作った石本秀一が2年ぶり当選。前年はトップ得票も24票不足だったが、この年は当選への規定票数111を1票クリアの112票を獲得した。以下②浜崎真二91票、③中上英雄89票、④千葉茂66票、⑤西沢道夫53票、⑥蔭山和夫51票、⑦横沢三郎41票、⑧新田恭一18票、⑨御園生崇男、谷口五郎各12票、⑪荒巻淳、土井垣武各11票、⑬岩本義行10票、⑭飯島滋弥7票、⑮杉浦清、深見安博各6票、⑰津田四郎4票、⑱田中義雄、川崎徳次各3票、⑳井野川利春、南村侑広各1票。呉昌征が資格を失い、西沢が候補者として再び入った。

 石本は母校・広島商の監督として1924年に夏の甲子園初優勝。日本刀の刃を上に向け、その上を歩く“真剣の刃渡り”をさせ精神を鍛えたという逸話が有名である。その後も29、30年夏連覇、31年春にも南海ホークスの名将として1965年度殿堂入りの鶴岡一人、エースの灰山元治(プロ入り後は元章)らを擁して史上初の夏春連覇を果たした。つまり、アマチュア野球、プロ野球どちらでも、日本野球界に多大な功績のあった人物。1970年に殿堂入りした天知俊一は、石本の当選発表に「なんといっても、選手作りのうまさ、とくに若い投手を育てる才能は抜群だった。西鉄が初優勝した1954年の主力投手だった河村(英文)、西村(貞朗)。1961年、35勝をあげて新人王を獲得した中日の権藤(博)、現在広島のエースとして活躍している外木場(義郎)らはすべて“石本ピッチング・コーチ”が手がけた男だ」と報知新聞に寄稿している。後に三原脩監督は、「投手コーチだけでなく、戦術、打撃、走塁などでも知識は豊富だった」と述懐している。1965年広島のヘッドコーチに就任すると68歳の老体を押して、衣笠祥雄ら若手の前でスライディングの実技指導をして見せたという。

 12月15日に開かれた特別表彰委員会は、大和球士議長以下12委員全員の満場一致で元一高コーチの中野武二、元国民新聞記者の太田茂を選出した。中野は一高の名二塁手として好守を誇り、難攻不落の旅順の要塞にちなんで“老鉄山”の呼称もついたほど。その後、一高のコーチとして大正年代に打倒早慶を果たした。また、名審判としても戦前のビッグカードを多く裁いた。太田は中断前の早慶戦(1903~06年)時代から、“太田四洲”のペンネームで国民新聞の名文記者として活躍。明治、大正、昭和と3代に渡って、東都の野球ファンを沸かせたスポーツライター。また、雑誌「運動界」を編集。発行し、数字を駆使した独自な野球論を展開した。選手、監督、経営者などの経験がない報道関係者として殿堂入りした第1号である。

【注】敬称略。写真は1960年代の石本秀一。

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蛭間 豊章

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