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真顔日記

三十六歳女性の家に住みついた男のブログ

パン屋のおばさんにオシャレな問いかけをされた

日々と思考

現在、私の右ほほには傷がある。

誰かとケンカしたわけではない。飼いネコに引っかかれたのである。抱きかたがまずかったのか、ネコが落ち着かないようすでピョンと飛び降りようとし、私のほほに爪をたてたのだ。マンガでしか見たことのないような分かりやすい傷である。しかし今の生活では、顔に傷があってもたいした問題ではない。一週間もすれば消えるだろう。

今日、パン屋のおばさんに言われた。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

このオシャレな問いかけはなんなのか。ちょっと笑いそうになったじゃないか。完全に不意をつかれたから、「いやあ、ネコに引っかかれちゃって……」と、ものすごく凡庸な返答しかできなかった。ぜんぜんオシャレじゃなかった。

あれはどうすればよかったのか。向こうがオシャレに問いかけてきたんだから、こちらもオシャレに返すべきだったんだが、いまだに正解がわからない。帰宅後もずっとモヤモヤしている。始まるはずだったオシャレなやりとりを、私はだいなしにしてしまったんじゃないか。一体、どうすればよかったのか。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

「あなたの美の理由を教えてくれるならね」

そしておばさんにキス。

これはちがうだろう。パン屋のレジごしにキスしてどうする。「オシャレ=キス」という認識も我ながらひどい。別のパターンを考えねばなるまい。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

「ネコですよ。うちには悪さをするネコがいるんです。もっとも僕の目の前にも、わがままな子ネコがいるみたいですけど」

そしておばさんにキス。

どうも私は、キス以外でオシャレなやりとりを終わらせる方法を知らない。キス以外のまとめかたが分からない。これはちょっとひどすぎる。そもそもこんなものは単なる性犯罪だろう。しかも供述内容が「オシャレな問いかけをされた。キスするしかないと思った」である。馬鹿の犯行である。

オシャレに関するイメージが貧弱だから、少ない武器で戦おうとするとキスしかなくなるのかもしれない。くちびるを重ねときゃオシャレになるんだろ、という発想だ。そんなわけがない。他のパターンはないのか。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

「心の……傷ですか?」

これはうっとうしい。こんなうっとうしい男はブン殴りたい。しかし、あの店員はナチュラルにドラマチックな言い回しをするようだった。これくらいの返答のほうがよかったのかもしれない。

「ううん、まだそこには踏みこめない。まずは右ほほの傷のことを教えて?」

そんなふうに返してきたのかもしれない。

なんだか、オシャレのイメージトレーニングをしている気分になってきた。相手がこう来れば、こちらはこう返して、というふうに。この鍛錬を繰り返すことで、オシャレなやりとりができるようになるのか。

ちょっと、自分のなかでパン屋のおばさんもモーフィングし始めている。明らかに、ここまでキザと気取りをグツグツに煮詰めた女ではなかった。しかしすでに頭の中で見た目が麻生久美子になっている。自分の願望に影響されすぎである。共通点は細身だったことくらいだ。

しかしもう仕方ない。この路線で突き進んでみる。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

彼女に言われたとき、私はしばらく質問の意味をはかりかねた。彼女はパン屋をしていた。小さいが、品のいい店だ。私はたまに訪れてパンを買った。そのうち少しの会話をかわす関係になった。その日の天気のこと、新しく売りはじめたパンのこと。

しかし今回の問いかけは普段とちがった。私はしばし絶句した後、ようやく右ほほの傷を思い出し、経緯を説明した。抱きかたを間違えて、飼いネコに引っかかれてしまったのだと。彼女はほほえんで言った。

「大丈夫なのかしら?」

「ご心配なく。一週間もすりゃ消えますよ」

「しかし消えない傷もある」と彼女は言った。

「もちろん」と私は言った。「人は多かれ少なかれ、傷を抱えて生きているものです。これは一般論ですがね」

私はトレイを置いた。「クロワッサンを二つ、それに少しの愛を」

彼女は小さく笑うと、「馬鹿ね」と言った。

「ねえ、あなたの傷が消えることはあるのかしら? もうひとつの傷が消えることは?」

「コロネパンにでも聞いてください」

「パンは言葉を持たないもの」彼女はクロワッサンをひとつずつ紙袋に入れていった。その指先はとても器用に動いた。私はしばらく見取れていたが、やがて横で寂しそうに放置されているトングを手に取った。

「不思議ですね、このトングでどんなものでもつかめると思っていたのに、人の心だけはつかめない」

「私はね」と彼女は言った。「この店でたくさんのお客さんを見てきたの。トングの使いかたひとつとっても様々だったわ。不器用な人もいるし、乱暴な人もいる。そんなにつかまなくてもパンは落ちないと言いたくなるくらい、ぎゅっと強くつかむのよ。そういうお客さんは接客するときも緊張するの。でもあなたは――」

そこで彼女は言葉を切った。

「あなたはトングを使いながら、パンではない何かをつかもうとしているように見えた」

「僕は」と私は言った。「僕は、すでに終わってしまった人間なんです。本当に大切なものを、ずっと昔になくしてしまった。だからトングでパンをつかみながらも、いつも心はどこか別のところにあるのかもしれない。そしてあなたも――」

私はしばらく次の言葉を探した。

「気を悪くされたら申し訳ないです。あなたもまたそうなのかもしれないと僕はずっと思っていました。あなたの焼くパンはすごくおいしい。でも同時に、僕はあなたの焼いたパンを食べながら、深い悲しみを食べている気分になることがあるんです」

「そんな感想をもらったのははじめてよ」彼女はそう言って笑ったが、ほほえみは持続しなかった。「たまにね、パンを焼きながら空白を焼いているような気分になるの。何もないものを、虚無を、ただの無を焼いているような気持ちになるのよ」

「エンプティ」と私は言った。

「このかまどの中には本当は何もなくて、ただけむりだけが天にのぼっていくのかもしれない。あるいは、わたしが本当に焼いているのは、わたしの心なのかもしれない。そんな日は、すこしだけ泣くの」

彼女は私の手からトングを取った。クロワッサンはすでに紙袋に入れられていた。私たちはしばらく見つめあった。「へんな話になっちゃったわね」と彼女は言った。

「こんなことが言いたいわけじゃなかったの。わたしの話の要点はね、あなたのトングは何もつかめなかったわけじゃないということ」

彼女はまっすぐ私を見つめていた。二対の瞳の深淵。

「あなたのトングは、わたしの心をつかんでいたのだということ」

彼女は店の入口を閉めた。すでに外は暗くなっていた。

「いいんですか? まだ閉店まで時間があるでしょう」

「どうせお客さんは来やしないもの」

彼女は歩幅を確認するようにゆっくりと三歩歩き、私の目の前に立つと、右ほほの傷にふれた。彼女に人差し指の先端でなぞられると、それは自分の傷でないような気がした。

「ひどいことをするネコね」と彼女は言った。

「普段は大人しいやつなんですよ。僕が悪かったんです。変なふうに抱いちまったから」私は愛猫を弁護した。

彼女は私の胸におでこをつけると、小声で言った。

「今度は抱きかたを間違えないように」

私は彼女を抱き寄せた。店の外を一台の車が走り過ぎる音がした。排気音がしばらく耳に残り、ふたたび完全な静寂がやってきた。時計の鐘が七時を打った。それが合図だった。私は彼女の髪をなでると、そのくちびるにキスをした。

以上です。

これ、結局キスでまとめるしかなくないですか?