前畑遺跡で見つかった土塁の断面=福岡県筑紫野市で2016年11月28日午前10時55分、須賀川理撮影
福岡県筑紫野市教委は28日、同市の前畑遺跡で、丘陵の尾根に築かれた7世紀の土塁を約500メートル確認したと発表した。九州に置かれた出先機関・大宰府の政庁の南南東7キロの位置にあり、市教委は「大宰府一帯の南側を守る防衛施設の可能性がある」と判断している。大宰府の防衛については、周囲を土塁や山城で囲んでいたとする学説があり、今回の土塁はそうした研究に一石を投じそうだ。
土塁は標高61~49メートルの丘陵の尾根上にあり、南北約500メートルを確認。土塁は2段構成で下段の幅13.5メートル、上段の幅8メートル。上部は削られており、現存する高さは1.5メートル。2メートルはあったと推定される。砂や粘土などを交互に突き固める「版築(はんちく)」工法を使っていた。遺跡内で建物跡は確認されていない。東側が急斜面、西側が緩斜面で、東からの敵に備えたとみられる。
日本書紀によると、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた倭(わ)(日本)は、大宰府の防衛施設として、北に山城・大野城、平地をふさぐ土塁の水城(みずき)(いずれも福岡県)、南に山城・基肄城(きいじょう)(佐賀、福岡県)を造った。大宰府一帯をこの三つを含んで土塁などで囲む防衛ラインがあったとする学説が唱えられたが、発掘成果が今までなかった。
今回の土塁は丘陵上にある初めての例。市教委の小鹿野亮係長は「自然の地形や山城、水城と連動させて大宰府一帯を囲んだ防衛ラインや境界線の一部だった可能性がある。学説の検証が必要だ」と話した。現地説明会は12月3、4日の午前10時、午後2時の2回ずつ。【勝野昭龍、大森顕浩】
小田富士雄・福岡大名誉教授の話
大宰府一帯は山などの自然地形も利用して防衛していたと考えていたが、丘陵の上にも土塁があることがはっきりした。やぶを伐採しないと分からなかった。他の地域にも土塁が延びているのではないか。