筆者は何年も前にジャーナリズム学校を卒業したとき、「真実の訓練」と題した修了証書を受け取った。昔からメディアは第四の権力だという強い信念――ただし、多くの人にとっては誇大な考え――がある。メディアの目的は権力に対して真実を語ることだ。
メディアがこの役割をどれほどうまく果たしてきたかについては、際限なく議論できるだろう。真実が何たるか満足のいく合意に達するには、それ以上に長い時間がかかるかもしれない。だが、戦後の時代の大半を通して、英米世界の主流メディアは国家の語る共通のストーリーを描くことで政治的な議論を形づくることに貢献してきた。
■フィルターバブルの世界にいる
ところが今、旧来メディアが細分化され、ソーシャルネットワークが普及することで、我々が皆、自分自身の「フィルターバブル(検索結果などあらかじめ情報を取捨選択=フィルタリング=されていることに気付かず、都合のいい情報だけ与えられ操作されている状態のこと)」の中に住んでいるといわれる。テクノロジーによって真実が大量消費されてしまい、人は気に入らない事実を無視し、自分たちが望む、個々人に合わせられた物語にひたることができる「ポスト真実(真実以後)」の世界に暮らしているというのだ。
もし真実に対して合意の基盤がないのだとすれば、なおさら民主的にまとめられた結論に至るのは難しい。英国の欧州連合(EU)離脱に関する議論や米大統領選の最中に見てきたように、政治的な議論の大半は、ただ単に政敵の頭越しに話をし、データによって特定された自分の支持者層にアピールすることから成り立っている。専門家はペテン師として一蹴される。あからさまなウソは何の影響も結果ももたらさない。
だが、我々の時代にいえる逆説は、どう定義されようとも、真実を掘り出したり、広めたりすることが今ほど容易だったことはなかったというものだ。データはユビキタス、どこにでもある。人生は記録されている。主張と反論の真偽は即座に確認できる。テクノロジーは少なくとも解決策の一端を担うはずだ。
広く受け入れられる真実を社会が再構築するのをテクノロジーが手助けできる――そうした願いを裏付ける一番の証拠が、オンライン百科事典のウィキペディアだ。ウィキペディアの使命は、人類の英知の要約をすべての人が自分の言語で、無料で読めるようにすることだ。
ウィキペディアはオンライン生活のごくありふれた一部になったため、創設されたのがわずか15年前とは信じがたいほどだ。同サイトの成長は目覚ましい。何万人もの積極的なウィキペディアン(ウィキペディアの執筆・編集者)を抱える非営利共同体は、250言語で4000万本以上の記事を作成した。月間ユニークユーザーが5億人を数えるウィキペディアは、訪問者数が最も多い世界上位5位のウェブサイトに入る。