いったん見たり読んだりしたらそれだけでおしまいなところだと思う。
「こんなバカがいるぞ!」
と晒されれば、そのブログの過去記事やそれ以降の記事なんかチェックされず、
ただひたすらバカとして叩かれまくる。
その記事がたまたま曖昧だったり、よくわからなかったり、ある種の人々の癇に触れるようなものだったら即アウトだ。
それ以外の記事でいかに誠実で、理知的で、有用なことを書いていようが無視されて、
一発で「こいつはアホ」だとインターネットで晒されて消費される。
仮に著者が「ああたしかにあの記事はよくなかったかもしれないな」と反省してちゃんと弁解してももう遅い。
余程話題になった人か、有名人がやってるのでもないかぎり、継続してそのブログをチェックする人なんていないからだ。
誰の話をしているというか、有名はてなーであるコトリコさんの話だ。
先日、彼は
戦争と敗戦ですごく傷付いてたんだって認めたほうが良い気がする - 山下泰平の趣味の方法
という記事を書いたのだけれど、これを読んだ人たちが起こった。
ざっと読んだだけだけど、この国が主にアジアの人たちをたくさん殺したりいろんなものを奪ったんだという加害の視点が全くなくてひどい。/戦争と敗戦ですごく傷付いてたんだって認めたほうが良い気がする
戦前の加害責任にあまりに無頓着だったので80年代ごろから自省的な視点が出てきたって流れを正反対に語ってる。戦後の歴史まで修正されるというわけか。
何を元に書いた文章なんだろう。
要するに、コトリコはネトウヨに与する糞野郎だと思われたわけだ。
たしかに当該記事は全体的にふんわりしていて、論旨がわかりにくい。
コトリコさんは最初、自身のtwitterで「日本語の読めないクソ野郎が」みたいな感じで怒ってきた人たちに対して怒っていたけれども、
自分でも何か思うところがあったのか、そのあとでそのツイートを削除し、新しい記事を立てた。
箇条書きにしているので、言いたいことがわかりやすい。
わかりやすくしたところで、怒ってきた人たちは「いや、私たちが怒ってるのはそういうところじゃないんだよ」と反論してきて、
コトリコさんも「やっぱりあいつらはクソだった」と爆怒りしそうだけど、
それはそれでいいんだと思う。
コトリコさんはえらい。
怒られて、一旦ぶちぎれたのに、
「そんなつもりじゃなかった、というのは全然弁解にならない」という論法が流行っているけれど、
たしかに差別とかはそういう面があるけれど、なんでもかんでもその論法を当てはめるのは極端すぎる気がする。
相手が歩み寄れる徳と知性を持っているなら、「そんなつもりじゃなかった」を聞くのも悪くないんだ。
「そんなつもりじゃなかった」相手に傷つけられた、ということは、自分の気持をわかってもらえなかった、ということでしょう?
自分の気持をわかってもらうために、相手の気持ちも聞きにいく、というのはコミュニケーションのあり方としては常道なんじゃないんですか。
そもそも「そんなつもりじゃなかった」という人の八割は
「ナイフで刺したら漠然と相手が大怪我するだろうな、とは考えてたけど、死ぬまでとは思わなかった」
みたいな人です。
程度問題として「そんなつもり」じゃなかったのであって、「それがナイフだとは思わなかった」とはまず考えていない。
「ナイフだと思わなかった」と弁解する人はほんまもんのバカか、うそつきです。
そういう意味において、コトリコさんは「そんなつもりじゃなかった」とは言っていない。
「おれの持っていたコレを見て、ナイフだと怯えていた人が出てきたけど、俺的にはコレはカステラです」
と淡々とそれがカステラである理由を補強する特徴を述べているにすぎない。
誠実だと思う。
それを読んで、「なんだやっぱりこいつはナイフをカステラだと勘違いしてる狂人じゃないか」と考える人も出てくるだろう。
コトリコが持っているものがナイフかカステラかの判断はどうつければいいかは、まあ、読んだ人とコトリコさんの問題だ。
でも、コトリコさんを批判してた人はコトリコさんの新しい記事を読まないんだろうなあ、と思う。
たぶん、みんなコトリコさんのブログを初めて読んだ人で、twitter で「こんなバカがいる」とそれまでの自分の経験に基づく類型に押し込めて消費して、
まあ、それは敵にしろ味方にしろバカばっかり相手にしてきたせいで、
それはそのとおりだとおもう。
でも、そのバカがこちらの気持ちを慮って行動を取ってきた場合、
それは誰でもわかっていることなんだろうけど、
いったんバカと認定したらその人間の言葉は永遠に聞かないでいいことになっている。
誰が悪いわけでもないけれど、
病んでるな、と思います。