木村荘平氏の功績を偲ぶ
木村荘平氏について
牛肉を食べる習慣のなかった日本。明治の中頃、東京に「いろは」という牛鍋屋が繁盛していました。これぞ文明開化。人々は入れ込みの座敷で気やすく鍋をつつく楽しみをおぼえました。最盛期の明治30年頃には20店舗を持ち大繁盛しました。人々はその店の主人を「いろは大王」と呼びました。
その人は明治時代の実業家であると共に男13人,女17人の計30人の子供を持ったことでも知られ、現在のサッポロビールの前身日本麦酒醸造会社二代目社長を務め、日本最初の火葬場を経営し東京市議会議員や東京府議会議員に当選、衆議院議員選挙に出る前に亡くなりました。
昭和44年には『妾21人ど助平一代』のタイトルで東映で映画化もされています。子供も男13人の中で8番目の子供は有名な画家となっています。
平成25年3月~5月東京駅ステーションギャラリーでの絵画展には天皇・皇后両陛下もお見えになられました。
10番目の子供は昭和16年に第13回直木賞を受賞。牛肉王、色豪、投機師、巨商、文明開化の奇傑とも言われ、宇治田原出身で明治時代東京で活躍した人物です。
荘平氏は宇治田原町南に今も実家がありますが、宇治田原町の人は荘平氏のことはご存知ないと思われます。私はある書物で荘平氏のことを知り、この2年間宇治田原町南にある木村さんの御協力を得て色々調べました。
平成25年秋には、荘平氏の孫が住んでおられる茨城県や荘平氏のお墓がある東京芝高輪にあるお寺にも行ってきました。
宇治田原からこんな人が誕生し活躍したということを住民の人々に知っていただきたいです。
魅力的なエピソードの数々
【エピソード・1】
◎神戸時代、ある年の茶商組合の新年宴会で、余興の順番が荘平に回って来たとき、彼は座の中央に進み出て、「諸君、この席でご一同に即座に実行していただきたいことがある。ご承諾願えるか。」と。一同酔いにまかせて提案内容も聞かずに賛成した。と、やにわに控えの間から五~六人の理髪師がとびだして、列席者の丁髷(ちょんまげ)をチョキチョキと切落としてしまった。そして一同に帽子を進呈した。これは神戸における散髪普及の話題にもなり神戸の丁髷が減るようになったと言われている。
【エピソード・2】
◎ある夜、第七番支店である深川店が多くの客で立て込んでいた。4~5人連れの若者と他の客との間で喧嘩が始まったものの、帳場の仲裁で一件落着したが、夜半4~5人の若者が大勢の仲間を連れて支店の戸を叩き帳場の奴を出せと言って騒ぎ立てた。その日は荘平が泊まりに来ていた日なので、荘平は「ヨーシ、今開けるぞ」と大声をあげ、大戸を開け放した。年を老いても元気な荘平は「サァ入れ。言い分があるなら聞いてやる」と、仁王立に突っ立たので、若者たちは恐れをなし蜘蛛の子を散らすがごとく逃げた。
【エピソード・3】
◎明治26年頃、第十三支店へ賊が忍び込んで備え付けの金庫を店前に運び出したが、開けることも運び出すことも出来ないのでその場に捨てて行った。翌朝雇い人等が発見し驚いて金庫を元の場所へ戻そうと2~3人が必死に動かしていたところへ荘平がやってきて、それを見て笑いながら「ドケ、ドケ!弱い奴ばかりだ」と言い双手を伸ばして金庫を抱えて元の場所へ持って行った。その場にいた者は荘平の怪力に驚いた。
(出典)
著者名:茨木輝樹
出版年:平成26年6月10日
書 名:宇治田原出身の実業家 木村荘平の生涯「いろは大王」と呼ばれた男の物語
総ページ数26ページ
茨木さんインタビュー
すき焼き大好き人間の私が、すき焼きの歴史を調べていくうちに、
木村荘平氏が宇治田原町出身と云うことがわかり2年をかけて
調べ、まとめたのが「木村荘平の生涯」という冊子です。宇治田原と
すき焼きの関係は木村荘平氏から始まり、一口に言ってとてつもない
器の大きな人物で故郷の先輩として敬服したく思います。
宇治田原の歴史を語る会
副代表 茨木輝樹