宮﨑駿はハウルの頃から、あるいはそれよりもっと前から自分とスタジオを重ねて投影してきた。
だから戦争に巻き込まれようとしている、負ける、という台詞は宮崎監督のせいで才能が去った一件とも大きく関わっている。
男はやるとなったら何人もの敵がいて、結果的にぼろぼろになる、といハウル解説がかつてあった。押井守によるものだ。
同じように自己投影=パンツを脱いだ堀越宮崎(※)が、スタジオ生存戦争に突き進む自分の周辺世界を見ていたと考えるのは不自然でもない。
作中の堀越は超然としていて、スタジオの闘争なんかどうでもいい、鈴木さんに任せてあるから、という態度を一貫して取り続ける。
だから岡田斗司夫は宮﨑駿を「不謹慎」とのべたし、深刻な話題をネタ元にしてほくそ笑むのが作家の性だと語った。
しかし実際の戦争兵器は自分が作り上げ、若手を追い落としている=戦争を進めている、という内容が『風立ちぬ』だった。
そもそも『風立ちぬ』レビューは山ほどあるので、自分がやることでもない気がして真面目に見てないけど。
それと全く関係ないけど、岡田斗司夫は例のNHKですら出汁にして解説していて、いい加減ちょっと嫌だなと思った。
まあこれは感情的な部分。
※みんな知ってると思うけど、庵野秀明の弁。