夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
僕の郷里は信州上田。2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」。“真田イヤー”などとも称され、我が故郷は空前の盛り上がりを見せたようだ。
しかし、映画「サマーウォーズ」、ゲーム「戦国無双」・「戦国BASARA」を経てのこの盛り上がりを裏返せば、2017年以降はこれまでの“幸村(信繁)さんに負んぶに抱っこ戦法”はそうそう通用しなくなるということだ。まさに乾坤一擲。わが故郷の上田衆、この後が正念場ですぞ。おのおの、抜かりなく。
【組織戦略】原型:“真田丸”
それはさて置き。
何年か前、上田城築城前に真田父子が根拠地にしていた、真田本城跡に登ったことがあった。上田市の中心地から見ると、北東の山上にある城跡である。駐車場にはいくつかの県外車。ここ数年の“真田人気”を実感させる光景だった。
たまたまある親子連れと挨拶を交わしたところから、僕がガイドをすることになり、上田城、砥石城、神川などを遠望しながら、少ない知識を振り絞って第一次・第二次上田合戦の解説をしたのだが、ふと閃くものがあった。自分で解説しながら“なるほど”と頷いた。真田の軍勢が、なぜかくも強かったのか、その謎の一端がストン、と納得できてしまったのである。
真田昌幸公・信繁(幸村)公父子が、武将としての天稟に恵まれていたのは確かだろう。が、特に信繁の場合、彼を歴史上の名将たらしめたのは、ここ上田の地で兵を指揮した経験だったのではあるまいか。大坂の陣での彼の活躍は、第一次・第二次上田合戦をベースに考えると、非常に分かりやすくなる。
軍事戦略上で考えた場合、ここ上田の地は、二つの極端な特徴を持っている。一つには日本で最も晴天率の高い土地である点、二つには地形の複雑な山に囲まれた、さほどに広くない盆地であるという点である。
晴天率が最も高いということは、最も空気が乾燥していて、さらに言えば“日本で最も遠目が利く場所”でもあることを意味する(その分、女性のお肌にはシビアな地かもしれない)。また、地形が出入りの大きい複雑な山に囲まれているということは、兵力を山襞に隠しつつ、盆地の中央部に展開せざるを得ない大兵力の敵軍勢を上から見下ろし、その全体像を把握する視点を常に保てるということでもある。この二点を組み合わせれば、寡兵(少ない軍勢)をもって大軍にあたる場合、ここ上田の地は「日本で最も早い段階で、相手に気づかれずに敵を発見して、その動きを把握し、迎撃の準備時間を確保できる場所」ということになるだろう。ちなみに、第一次上田合戦では信繁の兄信之(信幸)公が、第二次上田合戦では信繁公が、その将兵とともに潜んでいた砥石城(典型的な山城)から上田城までは、直線距離で3キロ余り。騎兵はいうに及ばず、歩兵でも駆け足なら30分余りで到着できる距離だ。敵の動きを確認しつつ姿を隠せる山地から主決戦場まで30分という“狭さ”は、動きの鈍い大軍を邀撃(迎え撃つこと)する上で、まず戦機を逃すことがないという意味で、極めて有利な条件だったはずである。上田盆地よりもはるかに広い善光寺平、松本盆地、あるいは甲府盆地なら、こうは運ばなかっただろう。村上義清も上田の地で二度にわたって、かの上杉謙信公ですら勝てなかった武田信玄の大軍勢を撃退し得たことを思い合わせるなら、信州上田は日本戦国史上最大最強の軍勢を四度挫いた場所ということになる。こうした“ミラクル”に何らかの原因を求めるなら、先に挙げた条件も勘定に入れて差し支えないのではあるまいか。
そう考えれば、信繁が大坂の陣で“真田丸”を築いた理由も想像できる。ここ上田で兵を指揮し、天下の大軍を邀撃した経験を持つ将にとっては、敵の動きを高い視点からいち早く捉えることが、戦略上の基礎となっただろう。その“上田的な戦い”を展開する上で不可欠だったのが、“真田丸”だったのではないだろうか。
NHKの歴史番組によれば、最新の研究で、謎であった真田丸の位置や広さ・形状についての新たな説が登場したという。これまで真田丸は、大阪城に付属した軍事施設であり、広闊な野に面していたと考えられてきたが、実際は大阪城から隔たりのある、独立した要塞であった可能性があるそうだ。その場合は、市街地に面していたはずだという。とすれば、上田城の立地条件と、きわめて似ていたことになる。
さらにいえば、将である信繁本人は無論のこと、第一次・第二次上田合戦を経験した真田の将兵は、おそらく戦略・戦術についての概念が、他の軍勢のそれとは根本的に異なっていた可能性がある。通常であれば、目の前の敵と直接刃を交える末端の兵士が、戦の基本方針である戦略(戦争を全局面にわたって運用する方法)を知らされることはないし、またその必要もない。自軍の方が圧倒的に有利な状況なら、布陣を含めた大局や戦況を伝えることにも意味があるが、そうでない場合、自軍の不利な状況を伝えることは、最前線の兵を怖気づかせることにしかならず、多数の逃亡者を生んでしまう。だから兵にはあえて多くを伝えず、将の命令に従って戦術(一個の戦闘における戦闘力の使用法)面のみを担当させるわけだが、ここ上田の兵はその基礎が異なっていただろう。たとえば、第一次・第二次上田合戦で砥石城に埋伏していた兵なら誰でも、敵の徳川勢の数、動き、布陣等の全体を克明に見ていたはずであるし、指揮官たちもそれを隠すことはできなかったに違いない。その状況下で「どこそこに向って進撃せよ」と命じられれば、多少の気働きのできる者なら、自分の軍事行動が戦局の全体の中で、どのような位置づけと意味を持つのかは、即座に理解できたはずである。さらには、自分が受け持つポジションにおいて、担当するべき具体的な戦術を判断し、それを同僚と共有することも容易だったろう。
上田の地では、戦略は教えられなくても“見える”のだ。だから担当するのは戦術でも、戦略的な視野が、末端の兵にもごく自然に身についてしまう。となれば、他の軍勢にはあり得ぬことながら、真田勢は「戦略をつくり、命じるのは将だが、その戦略は末端の兵に至るまで自分の目で確認でき、また共有している」状態が普通だったのではないだろうか。またそれを当然のこととして発想の基礎に置いていた集団が、大阪の地で独立した戦闘単位を任せられれば、自分たちの“常識”に従って敵軍勢を俯瞰できる視野を確保しようとするのは、ごくごく自然な判断だったに違いない。その結果として出現したのが「真田丸」であったとしても、さほど突拍子のないものではなかったのかもしれない。
現代において、少人数で立ち上げたベンチャー企業や零細企業が、高いパフォーマンスを発揮し成功する場合、その原因として“メンバー全員が経営者的視点、つまり戦略眼を持っていた”ことはよく指摘される。翻って考えれば、上田の地で徳川の大軍勢を二度にわたって撃退した真田勢は、そうした現代的成功者たちの要件をごく自然に身につけていた。上田城に拠って関八州の精鋭を寡兵で挫き、大阪で敵軍の総大将:家康公を自害寸前まで追い詰めた要因は、こんなところにあったのではなかろうか。一兵卒に至るまで戦略的な視野を持ち、また持てるのが当然と考えている軍勢と、そうでない軍勢とでは、一定の人数単位で発揮できるパフォーマンスに大きな差がでるのは当然といえば当然である。そして、その要件をもたらしたのが、上田の地勢と気候、つまり風土であったと仮定するのは、さほどの的外れではあるまい。
「真田丸」の原型は、まさに我が故郷、上田の地にあったのだ。