PFUのハッピーハッキングキーボード(HHKB)シリーズが20周年を迎えたそうで、その歴史を辿る特設サイトができております。
で、その伝説を辿るパーティにお招きいただきましたので、その様子を少々。
そもそも、20年に渡って、ひとつのキーボードシリーズがずっと作られているというのがすごいわけです。
初代は約3万円。時代は1996年ですから、Windows 95でインターネットが爆発的に普及し始めた頃で、格安なパソコンが山ほど出て、キーボードなんてとっても安価になっちゃった頃です。そこに3万円という超高級キーボードを、しかも限定500台で出すという酔狂。
全般にこの酔狂は20年間踏襲されて、2003年には静電容量無接点方式を採用した、続いて無刻印モデル、2006年にはアルミ削り出しシャシーのHG、そして世界最高額のキーボードとしてギネスブックにも載っている漆塗りモデル『HG JAPAN』と、ユニークなモデルを次々とリリースしている。
でも、それは単に奇をてらったわけではなくて、常に最良の使い心地を追求しての結果だというところが道具好きの心を揺さぶり続けているわけです。
パーティの会場には、それら伝説のキーボードが展示されました。
さて、ハッピーハッキングキーボードは、日本のコンピュータのパイオニアである計算機科学者である和田英一東大名誉教授が、'90年代のコンピュータの進化とともに、パソコン本体が多様化し、機種ごとにキーボードの仕様が変わって使い難さをを感じたということにあるルーツがある。
そこで ’92年に和田教授が書いた論文『けん盤配列にも多いなる関心を』がすべての始まりだった。
3年後、’95年に和田教授とPFUの技術者が出会い、和田教授がポストスクリプトで描画した、理想のキーボードである『Alephキーボード』を元に試作が始まった。
そして、1年半後、最終試作機が出来あがり、'96年の冬にファーストモデル『KB01』が発売されたのだそうだ。その時に和田教授がPFUの技術者に送った言葉が、有名な『馬の鞍』の逸話だ。
『アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインタフェースだからだ。いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインタフェースであることを忘れてはいけない』
以来、パソコンは猛烈に進化したけれども、『馬の鞍』は20年間担いで歩かれたことになる。
ちなみに、初代は500台しか作られなかったけれど、そこに投じられた開発費は2000万円! とうてい元の取れるハズのない酔狂なプロジェクトであったが、利害を気にせず『本物の道具』を追求したことで、結果として当時の周囲のパソコンをはじめとしたいろいろな製品をはるかにしのぐ20年続くプロダクトになったというところには注目すべきだろう。
なんと、会場には、和田教授もいらっしゃっていた!
なんと御歳85歳だが、かくしゃくとして、「最近の楽しみは、3Dプリンターで色々作ること」とおっしゃる。手にしてらっしゃるのは、ご自分で作られた3方向から違う文字が見える立体構造物。「こんなものも簡単に作れるし、今ならHHKB初代のプロトモデルももっと簡単に作れただろうね」とのこと。御高齢なのに、おどろくほど柔軟な発想をお持ちなようだった。
そこに登場したのは、なんとハッピーハッキングキーボード20周年を記念するキーボード。
なんと、キートップの文字まで再現されていたのには驚いた(笑)
さっそくiPhoneで撮影する和田教授。
実は会場にはHHKB20年の歴史を彩どるいろいろな方がいらっしゃって、その波乱万丈(何度も生産中止の危機があったようだ)な、歴史が語られたが、それはこちらを読んでいただきたい(もちろん、現場ならではの『書けない話』もあったのだけれども)。
代表して、おなじみ松本秀樹事業部長の言葉を
「最近、『モノ』より『コト』を売るっていうけと、HH
松本部長も『オレが諦めたら、HHKB生産中止だな』と思う瞬間は何度もあったという。でも、その時に頭に浮かんだのは、『馬の鞍』だから手放せない、『腕の先、唯一のコンピュータとのインターフェイス』と言ってくれるプログラマーや執筆家のひとたちだったという。
これからも、PFUさんに応援の声を送り続けよう(手始めにこの記事をシェアするといいと思います(笑))。