最初のあなたの質問は『感情化する社会』という本の中身を「まだ読んでいない読者にわかりやすく説明してくれ」ということでした。けれども、そもそもそうやって書物を含むあらゆることばに「わかりやすさ」を当然のように、要求するという態度そのものをぼくがこの本で問題にしてはいませんでしたか?
ゲラの時点でインタビュアーである君のセリフが妙に「キャラ」になっていたのも含め「ユーザー」に対しての「わかりやすさ」の工夫だと思うけど、だったらいっそLINEでインタビューして欲しかった。ぼくはうちの猫のアイコンとか付けますから。
でも、なんで「ユーザー」は「わかりやすさ」をしばしば当然の権利として求めてくることがあるのか。あるいは、なぜ「わかりやすく」と君は脊椎反射的に思ってしまうのか。そこでいう「わかりやすさ」とは何なのか? その背後にあるものを考えて下さいというのがぼくが「わかりやすく」いえることのひとつ(あくまでひとつ)です。
ぼくはそれを随分前に「書物のサプリメント化」という言い方で比喩していた記憶があります。今、書物に限らず、webも含め、あらゆることばに求められるのは「わかりやすい効能」です。「泣ける」「感動する」「鳥肌が立つ」「癒される」、まるで「ダイエット」「パソコンで疲れた目がすっきりする」「抗酸化作用」と「効能」をうたったサプリメントや機能性食品のような「効能」が書物に求められる気がしませんか。
そして、サプリメントとしての書物は何より「わかりやすく」なくてはいけない。web上のヘイトや左翼批判も「サプリメント化」したコトバだよ。韓国、中国にからんだり、「ミンス」「プサヨ」とか、言ってて気持ちいいんだよ。もちろん、日本はこんなに凄いっていう自画自賛も。愛国ももはやサプリメントと化している。オールドスクールの右翼のひとは生きにくいと思うよ。
「わかりやすさ」に戻ればね、webの記事でも、ひどくどうでもいい芸能記事について箇条書きで3点ぐらいに要点をしぼった「まとめ」が文章の初めに付くというパターンをよく見かけますが、まず、口当りがよい。そして何かにすぐに「効いた」気がする、それが「本」や「ニュース」や「ことば」に求められているものです。
だから、それを問題提起した本のインタビューで「わかりやすく説明してくれ」と言われても、それではまずインタビュアーである君との対話が成立しない。何かを説明するのに一冊の書物がいるから一冊の分量を書くわけです。
さて、ここで注意して欲しいのは「わかりやすく」「すぐ効く」ことばはキモチが良く、わかりにくいことばはそれだけで不快なわけです。なぜ、わかりにくいかと言えば、それは、ことばは「他者」が発するものだからでしょう。
いま、web上ではみんな他人とぶつからないようにしているでしょ。炎上とかwebのイジメも、「みんな」とぶつからないように一つの方向を向き、しかも同じ方向をむいていても微妙に距離をとっている。
じゃあ何との衝突、出会いを避けているのかと言えば、他人の自我や現実、それらからなる世界そのものでしょう。
そして、例えば不愉快な自我をもって、『エヴァンゲリオン』で使徒がATフィールド破って侵入するみたいにあなたの自我を食い破って入ってくるのが「文学」です。だから、そもそも「文学」なんてわかりにくくて不快なものでしょう。イミわかんないし、何とも鬱陶しい澱みのようなものが読後、心に残ってしまう。
すっきりしないし、泣けないし癒されない。漱石の『こころ』を読んで「スッキリ」しないでしょ?
他者の自我なり思考なりが侵入してきて軋轢が起きる。その不快さや他者との軋轢こそが文学を読む経験だったはずで、元少年Aの『絶歌』が不快だったのは、彼の未熟な自我があの本を数頁読むと読者の中に侵入しようとしてくるからです。その拒絶反応があの本を生理的に拒否させた理由で、それを「被害者の人権」や彼が受けとる印税を持ち出して批判したひとがいましたが、要は彼の未熟な自我、未熟な文学もどきの文体が「不快」なんです。
みんな彼に「反省」がないとか言うけれど、読者が期待したのは、犯行シーンがどう描写されるかというグロテスクで悪趣味な期待、犯罪ポルノグラフィティとしての期待(ポルノも「機能」です)がなかったとは言わせません。それに裏切られて「つまらない」(当然「文学」としては出来が悪い以前です)元少年Aの私小説もどきを読まされてしまったことに憤っている。
別に元少年Aを持ち上げる気はさらさらないけれど、読んで人の心を掻き乱し不快にする文章は、彼のような犯罪を起こした連中が、たまに書く未熟な手記の中にしかかろうじて残っていない。今ほど文学者が健全化した時代はないですよ。無頼派気取ってもデリヘル呼ぶくらいでしょ。コンプライアンス化した文学っていうか。つまりは「文学」はもうないんだよね、ということです。
いや、別になくていいんだよ。
だいたい「文学」を書く奴なんて本当は社会的不適合者がかろうじて社会や他者と関わるツールみたいなものだから。そこに留まる限り、文壇的文学は必要とも思わないけれど、その一方でコンプライアンス化された文学とかことばがwebにもメディアにも溢れている。
でもね、別に書く方も読む方もそれでいいんだから別に知ったことではない。
結局、「わかりやすいことば」「良く効くことば」、つまりことばの「コスパ」が求められる。それはプラットフォームが受け手を「ユーザー」として持ち上げたことが原因でしょう。ユーザーはだから、いわば権利としてプラットフォームに「使い勝手」や「サービスの向上」を求める。
それがwebのことばにも同じように求められる。ヤフーニュースなんか見ていれば見出しに並んだ段階で、「泣ける」とか「神対応」みたいな反応がくるか、民主党か中韓にからむコメントが並ぶか、わかるじゃないですか。
webでプラットフォームが提供される「ことば」って、反応まで折り込み済みっていうか。するとユーザーは受けとることばだけでなく、自ら発することばも「わかりやすく」なる。コメントの「いいね!」の上位にくるのって、シンプルでわかりやすいものでしょう。サプリメントの広告の効能体験記みたい。
つまり、こうやってプラットフォームとユーザー、あるいはユーザー化した人たちが「サプリメント化されたことば」を互いに交換する関係(例えば「泣けることば」を提供し、「泣ける」とコメントする)、そういうコミュニケーションをしていく。
それがこの本の議論の出発点にあります。
次回【編集者への手紙その2】「感情労働としての天皇と『シン・ゴジラ』の天皇なき世界」は11/23更新予定