昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
以前このブログで、尾崎秀実を取り調べた特高の宮下弘氏の著書『特高の回想』を紹介したことがある。その宮下氏が右翼担当であった時に、皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れたことがあり、その時に真崎が宮下氏に語ったという言葉が印象深い。
「君、世間は知らないんだが、2.26事件の青年将校たちをふくめて、みんなアカなんだよ。統制派も皇道派もそんなものはありゃしないんだよ。アカがなにもかも仕組んでいろんなことをやっているんで、軍もアカに攪乱されているんだよ。」(『特高の回想』p.153)
軍を攪乱していたのは左翼であったと真崎は述べているのだが、よく似たことを書いている当時の記録は少なくないのだ。
例えば近衛文麿は、昭和20年2月に昭和天皇に宛てた『近衛上奏文』の中で、
「是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」
という下りがある。
近衛はこの上奏文で、軍部で革新論を唱えたメンバーが一部の官僚、民間人と組んで、意識的に共産革命に引きずり込もうとしていることを述べたのち、軍部からこの一味を一掃することの必要性を強調しているのだが、この重要な文書の内容を解説している本は極めて少なく、言及しても読者に原文を紹介もせずに一方的に近衛をこき下ろす文章がほとんどである。
今では『近衛上奏文』はWikipediaに全文が出ており、ネットで誰でも読むことが出来るのだが、解説もよく調べて書かれているので、先入観なしに是非一度は読んで頂きたいと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87
次に、軍隊に共産主義思想が水面下で浸透していった経緯について記すこととしたい。
以前このブログで、大正末期から昭和10年代にかけてマルクス、エンゲルス、レーニンの著作がわが国でバカ売れして、相次いで全集が出版されたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄は、昭和初期の思想状況について『昭和の精神史』にこう記している。
「インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』というふうだった。指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。しかしインテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されてしまった。
あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映し、その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した。すでに北一輝などの経典があって、国体に関する特別な観念を作り上げていて、国体と社会改造とは背馳するものではなかった。しかし、北一輝だけでは、うたがいもなく純真で忠誠な軍人をして、上官を批判し軍律を紊(みだ)り世論に迷い政治に関与させることは、できなかったに違いない。…いかに背後に陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が『青年将校』となることはありえなかった。これを激発させたのは社会の機運だった。このことは、前の檄文*の内容が雄弁に語っている。
…
青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、自分は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリの動機とほぼ同じだった。ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし、彼らが肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』のそれではなかった。」(講談社学術文庫『昭和の精神史』p45-47)
*五・一五事件の檄文
竹山氏が知るある青年将校に訊ねたところ、彼らが考える『天皇制』の『天皇』のポストに就くべき人物は、昭和天皇ではなく、スターリンのような人物であったのだそうだが、当時の日本軍には共産主義思想がそれほどまでに浸透していたのである。
<
以下の文章は昭和7年(1932)に起きた五・一五事件の檄文の一部だが、これを読めばこの事件の首謀者は共産主義思想の影響を受けていたことが明らかである。
「 … 国民諸君よ!
天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ!
祖国日本を守れ
而して
陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用し 朗らかな維新日本を建設せよ
民衆よ!
此の建設を念願しつつ先づ破壊だ!
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 威大なる建設の前には徹底的な破壊を要す…」
この檄文の全文は次のURLに掲載されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/39349617.html
次に、当時の新聞ではこのような左傾化の風潮をどう書かれているのか紹介したい。
『神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』という新聞記事のデータベースがあり、経済記事やその解説記事が中心にストックされていて誰でもネットで利用することが出来る。その「新聞記事文庫 簡易検索」を用いて「軍隊」「赤化」などのキーワードを入れて検索を実施すると、多数の記事がヒットする。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
その中から、当時のわが国の軍隊に共産主義が蔓延していたことを匂わせる記事を探していると結構面白い記事を見つけることが出来る。
たとえば、昭和3年(1928)4月14日の神戸又新日報の記事には、
「重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽」したと書かれている。
ちなみに「今回の共産党事件」というのは「3.15事件」のことで、この日に約1600人の共産主義者が全国で検挙されているのだが、この中に4月に入隊したばかりの現役兵がいたということである。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070587&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
また同じ年の9月25日の中外商業新報の連載記事『赤化運動の経緯』の2回目に、ソ連の5月24日付の『プラウダ』紙上で第三インターナショナル(コミンテルン)がわが国の軍人に対して「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と檄文を飛ばしたことが記されている。陸海軍によほど共産主義者がいなければ、こんな記事が、ソ連政府の半官報である『プラウダ』紙上に出るはずがない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070971&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
また同じ年の10月19日の国民新聞の記事だが、ソ連の共産党が6月以降、巧みに我軍隊に対して共産主義の組織的宣伝を開始したことが記されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=HTML_FILE&POS=1
そしてその翌年の昭和4年(1929)4月16日に共産党員の全国的な検挙が行なわれ(「4.16事件」)、この年には4942名が検挙されている。
また昭和7年(1932)2月11日の東京朝日新聞では、陸軍幹部養成の総本山である陸軍士官学校で赤化運動が起こり、連日所持品検査がなされて4名が放校処分された記事が出ている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070975&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
そしてこの年の11月の熱海事件で、党幹部が一網打尽にされ、獄中で指導部の佐野学・鍋山貞親が共同で転向声明を出し、「ソ連の指導を受けて共産主義・社会主義運動を行なうのではなく、今後は天皇を尊重した共産主義・社会主義運動を行なう」と宣言した。
そのために多くの党員が転向し、日本共産党は壊滅状態となったのだが、だからといって共産主義者が一掃されたわけではなかったのである。
三田村武夫氏はこう解説している。
「…昭和6年頃から一度検挙された共産党関係者で、所謂(いわゆる)、その思想の転向者と見られる人物については、司法省に於いても、あるいは警視庁の特高部に於いても熱心に就職の斡旋をしたものである。そして、それらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職していた筈である。更にまた、軍部にも同様にその調査事務には相当数の転向者が入っていた。そこで問題となるのは、この転向者の思想傾向であるが、司法省、内務省で転向者としてあつかったその所謂(いわゆる)『転向』の判定は天皇制の問題に重点がおかれており、天皇制否定の主張を訂正した者は転向者とみたのである。従って転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、また彼らは、所謂秀才型が多く、進歩的分子をもって自任し、これらの人々が戦時国策の名に於いてなした役割は軽視すべからざるものがある。」(『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.136)
当時の新聞記事を探すと、三田村氏の書いている通り、特高の職員が思想犯の就職あっせんをしていた記事がいくつか見つかる。
もちろん本物の転向者もいた事だろうが、口先では天皇制を肯定しても「頭の中はマルクス主義者」の転向者がかなり軍隊に入隊したと考えるのが自然だ。
それにしても、なぜこんなにひどくなるまで放置したのであろうかと誰でも思う。
三田村氏はこう解説している。
「…その第一は、思想犯事件の内容を総て秘密にしてきたことである。…三月事件、十月事件を始め、共産党関係の事件にしても政府、軍部または官憲の立場から発表することを好まない事件内容は、一切これを極秘扱いとしてきたのである。そこに認識に対する無智と、空白があり、意識して謀略に乗ぜられた条件があった。第二は、政治家の無智であり、事件内容を秘密にしてきたことと関連して、政治家はほとんど思想事件に無智であった。というよりも無関心であった。従って自分の身辺間近まで、あるいは自分の腹中にその謀略の手が延びて来ても気付かなかったのである。第三は役人の政治認識欠如であり、長い特高警察の経験を持った者でも、政治経験を持たないが故に、取締りの立場からのみ見て、政治的な角度から指向される謀略活動に気が付かなかった。また事件として検挙された場合でも、その事件が共産党関係のものならば治安維持法のケースにあてはめ、罪になるかならぬかのみ捜査の重点を置き、また、尾崎・ゾルゲ事件の如くスパイ関係の事犯に対しては、国防保安法という法律の適用面からのみ、これを見る習慣があったのである。」(同上書p.137)
軍人も政治家も役人も思想犯を甘く考えていて、思想犯事件の内容を極秘にして公開しなかったことが、尾崎・ゾルゲグループらソ連のスパイ連中につけ入る隙を与えてしまったと理解すれば良いのだろうか。
先ほど少し触れたが、日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは昭和3年(1928)から昭和10年(1935)。二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは昭和2年(1927)から昭和3年(1928)。この時期はマルクスやレーニンの書籍がバカ売れしていたのである。
そして1928年(昭和3)のコミンテルン第6回大会では、レーニンの「敗戦革命論」に基づいて、「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」との決議が採択され、この決議の通りに共産主義の影響を受けた一部の若人が軍人となることを志し、そのために士官学校等に入学した。
その後昭和7年(1932) 11月の熱海事件で日本共産党幹部が一網打尽にされ、、多数の共産党員は天皇制を否定さえしなければ転向したとみなされて、「天皇を尊重した共産主義・社会主義運動を行なう」メンバーが軍に入り、さらに士官学校の卒業生が任官したという流れである。
以前このブログで、昭和20年8月15日に予定されていた昭和天皇による玉音放送を阻止し、戦争を継続させようと目論んで皇居へと襲撃をかけた、『宮城クーデター』に関与した人物を中心に陸軍士官学校の卒業年次を調べたことがあるが、昭和5年卒業生の中には、宮城事件の立案者である稲葉正夫中佐、宮城事件の首謀者の一人である竹下正彦中佐、昭和7年卒業生の中には瀬島隆三中佐がおり、昭和8年の卒業生には朝枝繁治中佐のほか、宮城事件の首謀者の一人である井田正孝中佐、宮城事件で森近衛師団長殺害に関与した畑中健二少佐など、その前後の年次には明らかに左寄りのメンバーがいる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html
このような史実を拾っていくと、教科書やマスコミなどで拡散されてきた歴史叙述とは随分異なる世界が見えてくる。
私も長い間マスコミなどに洗脳されていて、『軍国主義』が怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると「軍」という組織は、国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではありえない。
いつの時代であっても、またどこの国にとっても、「軍」が恐ろしい存在となるのは、その組織の中に、他国の為に動こうとしたり、革命を夢見て権力を掌握しようとするメンバーが存在し、その目的のために組織的に武力を用いる意思を持つようになった場合であろう。
そしてわが国の場合において本当に怖かったのは、「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込み、最後にソ連を参戦させてわが国を共産主義の国にしようとした『軍』の兵士達」ではなかったか。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
ツイート
【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみて下さい。
「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html
尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html
『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html
特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-284.html
軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-285.html
- 関連記事
-
- 『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか (2013/10/12)
- 尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる (2013/10/18)
- ゾルゲ、尾崎らが一斉検挙に至った経緯について (2013/10/23)
- 尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後 (2013/10/28)
- 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか (2013/11/02)
- 特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党 (2013/11/08)
- 軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織 (2013/11/14)
- 昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える (2015/09/11)
- ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか (2015/09/17)
- 日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む (2015/09/23)
- なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む (2015/09/29)
- 南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか (2015/10/05)
- 日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか (2015/10/11)
- わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか (2016/05/06)
- 『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか (2016/05/13)
その中、3番目の歌詞は、次のようです。
「 観よ干城の健児らよ
己が雄飛の活舞台
東にパナマの落成を
西に自覚の革命旗 」
自覚の革命旗なんって件は、共産主義を敬ってませんか?
戦時中、歌うこと禁止されてたのでしょうか?
(戦友の歌詞の「軍律厳しきなかなれど・・・・」が、
戦時中NGでしたね)。
明治45年の作詞者がどの程度左翼的な思想であったかについては良く分かりませんが、軍歌として歌われた歌詞の中に『革命』という言葉が散見されるのは驚きですね。
この歌がどの程度広がっていたかどうかはわかりませんが、次のURLの村松陸軍少年通信兵学校を卒業した少年兵の記録では、昭和19年の卒業式の後の宴席でこの歌が斉唱されていることが分かります。禁止はされていなかったようです。
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=843&forum=13&post_id=3671#3671
調べると、明治40年の歌で「嗚呼革命は近づけり」という唄もあるようですね。この歌は完全に左翼運動の歌です。「当時堺利彦と出会い社会党ラッパ節を作った添田唖蝉坊が唄い広く知れ渡ったという」と解説されています。
https://www.youtube.com/watch?v=tpGGbqjWWRk
Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。
***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。
コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。
また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************
- 国立国会図書館デジタルコレクション(旧近代デジタルライブラリー)
- アジア歴史資料センター
- 神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫
- 西尾幹二のインターネット日録
- 国際派日本人養成講座
- 本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」
- 美の探求者、歴史と思想を語る 田中英道HP
- 株式日記と経済展望
- 余命三年時事日記
- 渡邉良明のブログ「日本の天命・日本人の使命」
- がらくた置場 (by minaga)
- electric-journal.
- しばやんの日々(旧メインブログ)
- 奈津子の徒然雑記帳
- キリスト教の問題点について考える
- Cyberlaw
- 黒田裕樹の歴史講座
- O-TUBE
- 観仏日々帖
- まーりたんの暮らし探訪記
- 歴史~とはずがたり~
- TEL QUEL JAPON
- 美雨の部屋へようこそ
- 田舎な歳時記
- 坂の上のサインボード
- 京都・町家ぐらし
- 日本たばこ党宣言
- rakitarouのきままな日常
- 中国通史で辿る名言・故事探訪
- タッチャンの散歩
- 別府葉子公式ブログ ~葉子通信
- お迎えが来ない居候hippoponの日常
- 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行
- 実業の世界
- 遊びをせんとや生まれけん! 戯れせんとや生まれけん!
- 難関突破~技術士番外編~
- 寺社建築と文化財探訪<TIAS>
- 見るは法楽 HDR
- 五月花の羊
- 東京近代史研究所
- 九州戦国史~室町末期から江戸初期まで
- 日本古代史つれづれブログ
- 授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」
- ブルガリア研究室
- 木庵先生の独り言
- 横須賀★久里浜☆温故知新
- 美しき世の面影
- 親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
- 失われた日本史 にきみたまの道
- 「しばやんの日々」今月の人気ページランキング (全)
- 管理画面
- しばやん:無人のキスカ島に上陸した米軍に多くの死傷者が出た事情……『キスカ戦記』を読む9 (11/18)
- かめいと:無人のキスカ島に上陸した米軍に多くの死傷者が出た事情……『キスカ戦記』を読む9 (11/18)
- しばやん:伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと (11/08)
- :伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと (11/08)
- しばやん:伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと (11/08)
- kou:伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと (11/08)
- しばやん:キスカ守備隊員の手記による奇跡の完全無血撤退作戦成功……『キスカ戦記』を読む7 (11/06)
- :キスカ守備隊員の手記による奇跡の完全無血撤退作戦成功……『キスカ戦記』を読む7 (11/05)
- しばやん:潜水艦によるキスカ島守備隊撤収が途中で中止された理由…『キスカ戦記』を読む5 (10/30)
- 荒木:潜水艦によるキスカ島守備隊撤収が途中で中止された理由…『キスカ戦記』を読む5 (10/29)
- しばやん:坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方 (10/22)
- 根保孝栄・石塚邦男:坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方 (10/21)
- しばやん:アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1 (10/10)
- :アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1 (10/10)
- しばやん:明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった (10/08)
- しばやん:アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1 (10/08)
- 失笑。:明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった (10/08)
- :アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1 (10/08)
- しばやん:アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1 (10/02)
- 時乃★栞:アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1 (10/01)
- ぼくあずさは地球人:是からの日越協力関係 (10/31)
- 失われた日本史 にきみたまの道:ミッドウエー海戦新聞報道からわかること (10/14)
- ぼくあずさは地球人:駿府の人、山田長政 (10/03)
- 失われた日本史 にきみたまの道:シベリア抑留調査を妨害する勢力について (05/08)
- 短詩集 「太古という未来」:V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳 (05/05)
- 哲学はなぜ間違うのか:ヨーロッパに関する侵略の歴史 (04/03)
- 目を押せば二つに見えるお月さま:間宮海峡を発見した幕府隠密 (03/31)
- 哲学はなぜ間違うのか:侵略を可能にする武力 (03/29)
- 失われた日本史 にきみたまの道:島原の乱は宗教的動機による内戦だった (01/23)
- 美しき世の面影:GHQが狙った洗脳のルーツ (11/24)