ここから本文です

「アンカレッジ」なぜ聞かなくなった? 日本に縁深かった空路の要所、その「いま」

乗りものニュース 11/20(日) 14:00配信

実は縁深い「アンカレッジ」と日本

 2016年11月12日(土)、JAL(日本航空)の「東京~ニューヨーク線」が開設50周年を迎えました。1966(昭和41)年11月12日に開設された同路線は当時、JALが1960(昭和35)年に日本で初めて導入したジェット旅客機、ダグラスDC-8型機による運航で、東京~ニューヨーク間を、ホノルルとサンフランシスコの2地点を経由して結ぶルートでした。

【地図】絶妙な位置のアンカレッジ

 その後、JALの「東京~ニューヨーク線」は1968(昭和43)年にサンフランシスコのみの経由となり、1972(昭和47)年には米・アラスカ州南部のアンカレッジへと経由地を移行。1977(昭和52)年からは、DC-8型機の後継機であるDC-10型機が就航します。そしてJALは1983(昭和58)年、当時の新型エンジンが搭載され、燃料タンクも増設されたボーイング747-200LR型機を投入し、ニューヨーク線は直行便で運航されるようになりました。

 この直行便が誕生するころまで、特に1970年代初頭から1980年代半ばにかけては、ニューヨークに限らず日本から欧米へ行く旅は、前述のアンカレッジ国際空港、正式には「テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港」経由が主流でした。これは、「日本の航空会社が運航する国際線定期便」をJALが独占していた時代であり、日本の年間出入国者が100万人を突破した1980(昭和55)年前後、大多数の日本人にとって海外旅行が少しずつ身近なものになり始めた時期と重なります。

 それゆえ、たとえばある程度の年齢以上である日本人にとって、「アンカレッジ」という地名はとてもなじみ深いもののようですが、最近あまり聞かなくなったとも。実際、それよりも年下の世代になると、さほど耳にする地名ではなく、まさに「世代間の隔絶」ともいえるでしょう。

経由するにも、なぜ「アンカレッジ」なのか

 時代をさかのぼって1950(昭和25)年ごろ、日本と欧州をつなぐ空路は、領空の制限によりソビエト連邦(当時)の上空を通るシベリアルートが使用できず、アジアを経由していく南回りルートに加え、北極圏を通る北回りルートが使われていました。これらのルートは遠回りで時間がかかるうえ、当時の航空機は航続距離が十分なものではありませんでした。

 JALが1966(昭和41)当時、ニューヨーク線で運航していたDC-8型機で見ると、その航続距離は8700km。現在、同じ路線で運航されている777-300ER型機の1万4340kmと比べ、その差は歴然です。当時のように航空機の航続距離が長くなかった時代、日本から欧米へ向かう旅客便は、一度アンカレッジ国際空港に寄港し、燃料補給を行なってから北極圏を通過するルートをとっていたのです。

 その後、日本とソビエト連邦とのあいだで行われた航空交渉の結果、1972(昭和47)年よりJALがシベリアルートの運航を徐々に開始。1990年代初頭に冷戦が終結すると、旧ソ連政府は「領空通航料」を外国機から徴収するため、シベリアルートを積極的に開放するようになります。JALもまた、1991(平成3)年には、アンカレッジ経由の北回り欧州線を完全に廃止しました。

 このような事情から、1990年代初頭に至るまでは、アンカレッジ経由便が数多く運航されていました。同空港で乗機が燃料の補給中、その旅客はいったん降機し、ターミナル内の免税店やレストランなどで2時間ほど過ごすスケジュールでしたが、これが面倒だったという人もいれば、実は楽しみだったという声もちらほら聞こえ、いまでもそんな当時を懐かしむ人さえいます。利用の多かった日本人客のためか、片言でも日本語を話す従業員が多く見られ、お世辞にも美味しいとはいえないうどんなどの和食メニューでも、長時間のフライトのあいだについつい手を伸ばしてしまった、という話も聞きました。

 現在は、旅客機の技術やエンジン性能の向上によって航続距離が伸び、世界中のほとんどの主要都市へ直行便が運航されています。こうして、日本において「アンカレッジ」という地名は、あまり聞かれなくなっていきました。

1/2ページ

最終更新:11/20(日) 19:21

乗りものニュース