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THE TOKYO GAMES FOR THE PHYSICALLY HANDICAPPED
PARALYMPIC
TOKYO 1964
パラリンピック 国際身体障害者スポーツ大会 写真集
No.1
財団法人国際身体障害者スポーツ大会運営委員会
失ったものを数えるな!
残ったものを生かそう!
■はじめに
国際身体障害者スポーツ大会会長 葛西嘉資
パラリンピックということばは,非常に語呂がよいといわれ,これほど人々にアピールしたことはあるまいといわれた。パラリンピックは,下半身マヒのパラプレジアのパラとオリンピックのリンピックをつなぎ合わせたもので,車イスを使う下半身マヒ者の国際スポーツ大会という意味で,今回の,大会の第1部にあてはまることばである。しかし,身体障害者はそれだけではない。ほかにも,手足や目や耳の不自由な人々も,たくさんいる。そして,せっかく身障者の国際スポーツ大会を日本でやるのであるから,これらの人たちにも,ぜひ,参加して貰いたいということで,第2部の国内大会を設け,ひろくすべての身体障害者のスポーツ大会にしたわけである。
さいわい,東京パラリンピック大会は,皇室の御援助と,国民各層の協力を得て,予想以上の効果を収めて終わることができた。とくに名誉総裁をおひきうけ下さった皇太子殿下は妃殿下とごいっしょに,つねに率先して大会の進行に心をくばられ,盛りあがりに尽力された。このことが,いかに参加選手たちを感激させ,われわれ関係者を奮起させたか,はかり知れないものがある。また10の部会にわかれて,それを担任した各種団体の努力と政府,オリンピック組織委員会,日本自転車振興会,そして一般寄付者の善意にみちた力添えも,この大会を成功のうちに終らせることができた大きな力であった。
いまここに,パラリンピック東京大会の次第を記録した写真集をおくるにあたって,この大会に参加した選手をはじめ世の身体障害者諸君の幸福を祈るとともに,かげになりひなたになって,大会の進行をたすけて下さった方々に,心からの感謝をささげるものである。
■目次
- ● パラリンピックへの歩み
パラリンピックの歴史的展開とその受入れ準備
- ● ようこそいらっしゃい
海外選手団の羽田空港到着,出迎陣,輸送班の活動,宿舎とその設備,日本選手団結成式,レセプション,選手村の朝,会場装飾の状態
- ● 上を向いて歩こう(第1部開会式ひらく)
開会宣言,式辞,お言葉を述べれらる皇太子殿下,選手宣誓,各国選手団整列行進。北から南から,この感激をいつまでも,会場側面
- ● 参加することに意義がある(第1部 国際競技)
洋弓,槍正確投げ,槍投げ,こん棒投げ,砲丸投げ,円盤投げ,記録は二人でつくられる。
- ● 閉会式
日本の秋を楽しむ箱根遊覧,サヨナラ
- ● 社会復帰への希いをあつめて(第2部 国内競技)
第2部開会式次第,親しく激励される皇太子ご夫妻,各都道府県選手団整列行進
-
● 第1部・第2部入賞者氏名録
編集〈パラリンピック・国際身体障害者スポーツ大会〉編集委員会
氏家 馨・富田忠良・田原円十・増田弥太郎・川鍋康治・込山武雄・星野昌哉・井手精一郎・荒井賢太郎・小谷博夫・高橋春人
スタッフ
構成 高橋春人
表紙デザイン=高橋春人
編集=広報デザイン研究所(高橋春人・牛沢利正・須田正博・小谷博夫)
写真=パラリンピック写真班・高橋春人
印刷=水野写真工芸印刷所
〈パラリンピック プログラム〉
■ 国際大会日程
11月7日(土)
- レセプション
11月8日(日)
- 開会式
- ダーチャリー・槍正確投
- 五種競技(フィールド競技)
- 車イススラローム・フェンシング
- 重量挙・卓球
11月9日(月)
- 槍投・砲丸投・円盤投・棍捧投
- 卓球・フェンシング・スヌーカー
- バスケットボール・五種競技(洋弓)
- 重量挙・フェンシング・水泳
- 五種競技(水泳)・表彰式
11月10日(火)
- 卓球・スヌーカー・フェンシング
- バスケットボール・洋弓
- 水泳・表彰式
11月11日(水)
- 卓球・スヌーカー・フェンシング
- バスケットボール・洋弓
- 車イスリレー・車イス競走
- 車イススラローム・重量挙
- 表彰式
11月12日(木)
- 卓球・スヌーカー・フェンシング
- 洋弓・バスケットボール
- 車イス競走・車イスリレー
- 車イススラローム・バスケットボール
- 閉会式
■ 国内大会日程
11月13日(金)
- 開会式
- 100米競走(肢体不自由 男)
- 三段跳(視力障害 男)
- 走高跳(視力障害 男)
- 砲丸投(聴力障害 男・女)
- 60米競走(肢体不自由 女)
- 100米障害競歩(肢体切断・機能障害 男)
- 走高跳(肢体不自由 男)
- 立幅跳(肢体不自由 男・女)
- 走幅跳(肢体不自由 男・女)
- ソフトボール投(視力障害 男)
- 砲丸投(視力障害 男・女)
- 卓球(聴力障害 男・女)
- 卓球(視力障害 男)
- ハンドボール投(視力障害 女)
- 100米競走(視力障害 男・女)
- 1,500米競走(視力障害 男)
- 棍捧投(肢体不自由 男・女)
- 砲丸投(肢体不自由 男・女)
- 槍正確投(肢体不自由 男・女)
- 立幅跳(視力障害 男・女)
(水泳)
- 100米自由型(聴力障害 男)
- 50米自由型(肢体不自由 男)
- 50米自由型(肢体不自由 女)
- 100米平泳(聴力障害 男)
- 50米平泳(肢体不自由 男)
- 100米背泳(聴力障害 男)
- 50米背泳(肢体不自由 男)
- 50米背泳・平泳(聴力障害 女)
- 45米自由型(視力障害 男)
- 25米自由型(肢体不自由 男)
- 25米平泳(肢体不自由 男)
- 25米背泳(肢体不自由 男)
- 25米自由型・背泳(肢体不自由 女)
- 25米自由型(視力障害 女)
11月14日(土)
- 100米競走(肢体不自由 男)
- 洋弓(肢体不自由 男)
- 走幅跳(聴力障害 男・女)
- 60米競走(肢体不自由 女)
- 棍捧投(肢体不自由 男)
- 車イススラローム(肢体不自由 男)
- 槍正確投(肢体不自由 男)
- 砲丸投(肢体不自由 男)
- 走幅跳(視力障害 男・女)
- 立幅跳(肢体不自由 男・女)
- 走幅跳(肢体不自由 男・女)
- 100米円周走(視力障害 男・女)
- 1,500米競走(聴力障害 男)
- 5,000米競走(聴力障害 男)
- 卓球(肢体不自由 男・女)
- 400米競走(聴力障害 男)
- 200米競走(聴力障害 男・女)
- 100米競走(聴力障害 男・女)
- 走高跳(聴力障害 男・女)
- 三段跳(聴力障害 男)
- 閉会式
パラリンピックへの歩み
パラリンピックの沿革
身体障害者のスポーツ大会といえば,誰でもちょっと不思議な感にうたれるであろう。また,危険だという人もあろう。しかし,身障者のスポーツは,切迫したタイムやレコードを相手とあらそうのではなく,自分自身の能力の最善をつくし,自分の可能性を知るためのスポーツである。相手に勝つより,自分にうち克つよろこびを味あうスポーツである。ずっと昔,ヒポクラテス(紀元前300年)の時代から,すでにエラジスッレエトスなどが医療の目的でスポーツを行なった記録がみられ,それを近代医療スポーツとして科学的に礎をつくったのはルネッサンス以後であるといわれる。また,相当以前からドイツなどには医療体操師という職域もあり,患者の機能回復のためにスポーツをとり入れていた。そして,1880年にはイギリスで下肢切断者が木製義肢をつけて最初の身障者スポーツ会をひらいたが,これらの動きをはじめて組織化したのが,ストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センター長のルードイッヒ・グットマン博士である。1948年,グットマン博士は,下半身マヒ者のための療法として,毎年7月,ストーク・マンデビルで競技会をひらいた。この競技会がだんだん一般に知られるようになり,1952年からはオランダの弓術チームが参加して,国際的な競技会に発展し,1960年のローマオリンピックから,オリンピックの年は,同大会のあとにひきつづいて,同じ場所でストーク・マンデビル大会を開催することになった。グットマン博士は,ちょうどオリンピックのクーベルタン男爵と同じで,身体障害者スポーツの振興者である。
ストークマンデビルゲーム(英)の実況
L・グットマン博士パラリンピックの名称
パラリンピックは,下半身マヒのパラプレジア(PARAPLEGIA)のパラとオリンピックのリンピックをくみあわせたもので,東京大会ではじめて,国際身体障害者スポーツ大会の愛称として使われるようになった。パラリンピックは国際競技であるばかりでなく,開催の目的などもオリンピックと共通するところがあり,1956年にはオリンピック委員会からファンレーカップを受けた。これはオリンピック精神にもとづいたスポーツ活動に与えられるもので,パラリンピックとオリンピックの関係はいよいよ深いといわなければならない。オリンピック直後,同じ場所でひらかれるパラリンピックは,イギリスの国際ストーク・マンデビル競技委員会本部からその国の委員会がいっさいの委任をうけ,本部の援助をうけて開催することになっている。東京パラリンピック大会の場合も,日本の委員会と本部の共催で行なわれるわけである。
ストークマンデビルゲームと活躍する派遣日本選手、下左は派遣選手を激励される皇太子殿下
東京大会の足がかり
1960年以来,日本からストーク・マンデビル病院を訪れた人々は,グットマン博士から1964年には東京で身障者スポーツ大会をひらいてほしいという希望をもらされていた。しかし,当時の日本では,パラリンピックをどうするということは,あまりにもヒヤクしすぎる。まず,国内の身障者スポーツの振興を推進すべきだという意見が強く,とりあえず1961年8月10日,身障者関係の24団体が中心になり「身体障害者スポーツ振興会」を結成したが,役員の人選,経費の出所などに時間を費やし,実質的活動に入ることができず開店休業の状態であった。このころ大分県で,わが国はじめての身障者体育大会がひらかれ,身障者スポーツの振興と,パラリンピック開催の促進に大きな刺激をあたえた。
そうこうしているうちに,東京パラリンピック開催の気運は,関係者の間に深く静かに浸透し,1962年4月,朝日新聞厚生事業団,NHK厚生文化事業団が中心になり,関係官庁,団体の代表者が集って「国内の身障者スポーツ振興をはかり,その結果をみて,パラリンピックを引きうけるという線は,実際問題として手ぬるい,むしろこの際,はっきりとパラリンピックをやる線をうちだして国内態勢を整備して行く方が早道であろう」という方針をきめ,さらに東京パラリンピックは,単に下半身マヒ者ばかりでなく,肢体不自由,盲,ろうあを含む全身障者のスポーツ大会にすることにして,関係官庁の了解を得「国際身体障害者スポーツ大会準備委員会」を結成することになった。準備委員会の結成と活動
そこで,1962年5月10日,朝日新聞社6階第一談話室に代表21名が集まり準備委員会を結成し,その事業として 1資金の獲得につとめ,2イギリスで7月に開催される第11回ストーク・マンデビル・ゲームに日本選手を参加させる,などを重点とすることを申し合わせた。資金獲得は一般の理解や支援を得なければならないので,基本的な広報活動を開始し,資金難を克服してポスター・パンフレットなどの製作にあたった。そして,活動がいそがしくなるに従い,法人化の必要に迫まられ,翌1963年2月12日「財団法人国際身体障害者スポーツ大会運営委員会」の設立総会をひらき,4月5日付で正式に認可された。
海外用ポスター(1962年発行)
運営委員会の発足
運営委員会の設立と同時に,広報活動を活発にし,一般の理解と支援を得るため,1963年5月14日新宿区体育館で財団法人の発会式を挙行し,身体障害者の模範演技などで式を盛りあげ,席上,パラリンピック大会開催を正式に宣言した。
発会式が終ると,資金獲得を訴えるとともに,1.第1回国際身体障害者スポーツ大会選手派遣,2.第12回国際ストーク・マンデビル競技会選手派遣,3.全国身障者スポーツ大会開催などの事業に忙殺され,ロンドンの大会には会長はじめ8名の役員も参加して,東京大会の打合せ,資料収集などを行なった。
一方,資金獲得のため大蔵省に申請中であった免税措置が8月21日付官報告示で認められ,大口寄付に明るい見とおしがもたれると同時に,オリンピック組織委員会との選手村借用交渉も進められた。このころまでは,国立身障センターが事務局を引きうけていっさいの進行をはかってきたが,関係方面との折衝も具体的になり,事務も複雑になってきたので,11月7日に開催された企画委員会で,10の部会をつくり,次の各団体に分担してもらうことになった。(指弧内は分担の団体)企画調整部会(事務局)官庁連絡部会(社会局更生課)選手村運営部会(東京都)競技部会(国立身体障害者更生指導所,国立東京光明寮,国立ろうあ者更生指導所)資金対策部会(社会福祉事業振興会)広報部会(社会福祉広報室)通訳部会(日本赤十字社)サービス部会(鉄道弘済会)国内選手強化対策部会(全国社会福祉協議会)研究視察部会(厚生団)医療救護班(日本赤十字社)
また全面的な支援を自衛隊に依頼し,部会を担当した団体はその担当業務の企画,立案,準備を行なうことになり,11月8日の閣議決定で,関係行政機関は,パラリンピック大会開催に必要な便宜供与と協力をするようにきまり,東京大会への準備は進んで行った。
外国との交渉
財団法人国際身体障害者スポーツ大会の運営委員会の発会式は、昭和38年5月14日午後、東京都新宿区西大久保の“新宿区体育館”で行われた。葛西会長代理のあいさつ、東都知事らの祝辞のあと、NHK厚生文化事業団から車イス15台が贈られた。なお、身障者の模範演技として洋弓は国立箱根療養所で治療を受けている人たちによって、また卓球は国立身障者更生指導所などで訓練を受けている人たちで、それぞれ写真のように演じられた。
東京パラリンピックを引きうけたという正式な通知が,グットマン博士に送られたのは1963年5月13日のことである。通知には,日本に運営委員会が組織されたことと,そのメンバーが紹介され,1964年東京オリンピックのあとをうけて国際身障者スポーツ大会を東京でひらく旨が述べられ,ストーク・マンデンビル委員会本部の指導と支援を希望する葛西会長の依頼が記されていた。
この通知に対し,グットマン博士からは,5月27日付で運営委員会の結成を祝福し,東京大会がひらかれるよろこびが述べられ,打合せのため日本の役員がストーク・マンデビルを訪れてほしいと希望してきた。そこで,1963年7月,第12回大会に2人の日本選手を派遣するとともに,会長はじめ役員8名が同行し,競技会を参観するとともに,東京大会の詳細な打合わせを行なった。
こうして,本部との連絡もつき,国内の準備の進展とともに1964年を迎え,4月25日,31カ国39団体に東京パラリンピックへの招待状を発し,早くも5月13日のイスラエルをはじめ各国からつぎつぎに返事が到着した。そのころ,グットマン博士一行3名も大会支援のため6月1日来日,関係機関や団体を訪問,競技場や大分県を視察した。
通訳奉仕団(通訳部会)の結成にあたって、お言葉を述べられる皇太子妃殿下。(於、日本赤十字社講堂)
その前夜
10の部会に分かれて,東京パラリンピックの準備も急速に進捗した。大会の日程,プログラムの決定をはじめ,外国選手の受入態勢,選手村の改造も,車イスで出入する選手たちのための特殊なスロープ加工が行なわれ,競技場も,いろいろ検討された結果,選手の搬送に便利な織田フィールドが選ばれ,観衆のための仮設スタンドも急造された。
車イス使用の参加選手を送迎するリフト付特殊バス9台も,自動車工業会の寄付で勢揃い,外国選手の来日は予定より1日早く,11月4日,アルゼンチン11名の第1陣とイタリアが到着,5日にはグットマン博士が率いるイギリス選手をはじめ5カ国123名,6日にはオーストラリアをはじめ15カ国,7日朝には参加選手のほとんどが選手村に入り,午前中には日本選手の結団式,午後1時からは都知事主催のレセプションがひらかれた。広場のポールには大会旗,SMG旗,日章旗,東京都旗,参加22カ国の国旗が掲げられ,初冬の空をいろどった。グットマン博士一行の会場予定地の視察。(64年6月)
ポスター 左、 一般用、B全判カラー写真。右、室内用で、パラリンピックの競技を、具体的に表わしたもの。グラビヤ三色印刷。(デザインは高橋春人氏)
ポスター写真の撮影
パラリンピックの広報材料に使った写真は、すべて“実物”であって、たとえばモデルの人物なども、実際の選手である。
写真上はポスター原画の撮影風景であるが、モデルとなった方々は国立箱根療養所の斉藤、松本、藤倉、安藤の各氏。なお、制作スタッフは事務局関係、選手、附添、洋弓指導(千島基嗣)、演出(高橋春人)カメラ(塚原啄也)など17名。パラリンピックの“パブリシティ”活動は全国の報道機関や各界出版関係など1854部門を対象として行われた。資料は各部会から提出されたものであるが、その窓口である広報部会では、この大会のもつ本質的な意義についての理解を深めるために、厚生省記者会、日本ニュース協会、民放報道協議会、東京新聞通信放送写真記者協会、日本外人記者協会、雑誌協会などの関係者との連絡会をひらき、調整をはかった。(写真下はパラリンピック、パブリシティ資料のいろいろ)。
大詰の協議に苦闘する各部連絡会議。大会実施本部にて(朝日ジャーナル所載)
左、民間協力により発売された賛歌レコード。
右、東京パラリンピックの歌専売公社の協力により記念タバコ発売(品質ピース、150万箱、デザインは真赤な地色に白ぬきの鳩)。
日本バーテンダー協会が寄金募集に使った箱。
千羽鶴や人形などの寄贈品が続々と本部に寄せられた。
歌手や喜劇人などの募金サイン会などが開かれたが、写真は寄金募集のリサイタル(坂本九)のもの。この他、民間個人より“無料奉仕”の申し出が数百件もあった。
肢体の完全な者と、そうでない者との違いこそあれ、ともに“人間の健康”を希い、そして讃える行事ということでは、オリンピックもパラリンピックも変りはない。しかし、現実では、この両者に“差別”がなかったわけではない。それはオリンピック予算に示されたものが天文学的数字であるに対し、このパラリンピックに示されたものはまことに僅かなもので、いうならばそれは、オリンピック記録映画のフィルムの端の費用にも及ばないものであった(国費2千万円、東京都1千万円、競輪益金4千万円、その他民間団体や個人の寄金3千万円)。したがって、それはようやくジャーナリズムの指適するところとなり、世論が喚起されて“パラリンピックを成功させよう!”という声が街に高まった。ちなみに、この大会に参加したすべての人は、原則としてすべて“奉仕者”として働いた。
会場
パラリンピックの会場は、上図のように旧オリンピック選手村あとに配置された。このうち、第1会場になったオダ・フィールドは、メイングランドとしてフィールド・ならびにトラック競技が行われた。ここはオリンピックのときの練習場であって、マラソンのアベベも、100メートルのヘイズも、みなここで練習にはげんだところである。(写真はオダフィールドで練習するアベベとヘイズ、アサヒグラフ所載)
右、第2会場(国立屋内綜合競技場)。左、第3会場(綜合競技場附属体育館)
(第3会場)内部。
上2枚、假設スタンドを急設中の第1会場(オダフイールド)。この他に先のパラリンピック会場配置図のような第4、第5、第6、第7の各会場がある。
●スタンド設営は徹夜の突貫工事で
各会場のうち、メイングランドをどこにするか、ということは最後まで検討された。それは、このような特殊な(車イス競技)スポーツをやるにふさわしい既設の会場が無かったからである。もちろん、オダフィールドは当初からその最有力候補地ではあったが、そもそもここは練習場であって、スタンドもなにもなく 国際競技を行う場所としては、必ずしも満点ではなかった。しかしながら、その他にも適当なところが無かったから、結局はここにスタンドその他を急設してメイングランドにすることになった。ところで、その工事期間は2日間しかなく(オリンピック選手村を閉村して2日後がパラリンの開会式)、そのために神技的なスピード工事で、スタンドや会場装飾を行うことになった。
国名 選手数 付添数 計 イタリア 34 21 55 フィリッピン 10 10 20 オーストラリア 15 8 23 セイロン 1 0 1 アイルランド 5 3 8 イスラエル 20 7 27 オランダ 11 6 17 イギリス 70 33 103 マルタ 2 0 2 ベルギー 2 0 2 スエーデン 2 0 2 スイス 3 1 4 ローデシア 6 3 9 アメリカ 68 24 92 フランス 20 11 31 ドイツ 24 11 35 オーストリア 7 5 12 南アフリカ 9 6 15 アルゼンチン 14 3 17 フィジー 1 0 1 メキシコ 0 3 3 日本 53 30 83 国名合計 選手合計 付添合計 総合計 22 377 185 562 ようこそ・いらっしゃい…
〈羽田空港から宿舎へ〉
高まるパラリンピックムード
東京パラリンピックに参加の各国選手団は11月4日6時50分羽田空港に到着したアルゼンチンチームを第1陣として、続いてイタリア、イギリスなどと続々と到着。左ページ表のように7日朝までに予定者のすべてが無事に到着した。
これに対する空港配備の出迎陣は、運営委員会本部、サービス部会、陸上自衛隊パラリンピック支援群、通訳部会(日赤語学奉仕団)、広報部会などの約100名がこれに当った。なお、各新聞雑誌のニュース班も待機して、さかんに取材活動、パラリンピックムードは、まず羽田空港のウエルカム!から高まった。上左、出迎えの陸上自衛隊“送迎支援群”。上右、通訳部会(語学奉仕団)。
羽田空港の出迎体制は、大会本部役員をはじめ、サービス部会(鉄道弘済会)が中心となって待機した。総指揮は長尾理事が当り、総務、国内身障、送迎、配車、輸送、介助、などの各班に編成され、また陸上自衛隊支援群、空港側、警視庁、などがこれに協力した。なお、通訳部会(日赤語学奉仕団員)や広報部会、救護班(日本赤十字社)がそれぞれ活動して万全を期した。上左、到着機の側まで乗り入れて活動したリフト付バス。上中、車イスも同伴。
特製“リフト付バス”の活動
車イス選手の一時的大量輸送ということはこの大会の一つの宿題であった。そこで、車イスのまゝ車内に入れるバス(後部が開き、昇降機により、車イスのまゝ車内に入れる)を、自動車工業界のあっせんで特製した。写真右がそれで、全部で9台が用意された。このバスが到着機に横付けにされ、車イス選手がこれに移乗するわけだが、それにはいったんハイ・リフト・カーを使って(写真左上、中上)エレベーター式に地上に降りる。そしてさらに車イスのままバスに移乗する(写真左下)という段どりである。なお、この式のバスは在来のわが国には無く、また前回のローマ大会の折には1台しかなかった。
足で、この車イスで日本の土をふみしめる
続々と到着する各国チームのなかには、用意されたハイ・リフト・カーの箱にはいらず、自ら不自由な足をふみしめてタラップからおりる選手もいた。それは、自らの足で、東京への第一歩をふみだしたい、というねがいからであった。この希望をかなえてあげたいと、介添係(陸上自衛隊支援群員)は、お母さんのように親身になって活動した。
イギリスチーム
アルゼンチンチーム
上、イギリスチーム。下、イタリアチーム
“ハローよろしく”と活躍する通訳部会
(日赤語学奉仕団)。羽田到着の選手たちは、みんな千羽ヅルのレイをかけて貰って大喜びだった。このレイは全国の青少年赤十字会員が作ったものだが、この他にも一般からたくさんの千羽ヅルなどが寄せられ、選手たちをよろこばせた。
左、来日第一陣のアルゼンチンチーム。 右、グットマン博士と再会をよろこびあう葛西会長。
左、日本赤十字社島津忠承氏(現名誉会長)も出迎え。右、レイを貰ってうれしそうなグットマン博士、寺田(朝日)堀場(NHK)の企画委員も歓談しきり。
到着した選手たちは、航空機から直接にリフト付バスへ、そこで入管、税関などの手続きは代表がまとめてすることになり(写真左上)選手たちはフリーパス。上右、グットマン博士夫妻と、出迎えの中村裕(日本選手団長、国立別府病院整形外科医長)氏。左は葛西会長。
リフト付バスの内部。
宿舎に到着して係員の案内説明をきく選手団。宿舎へ
外国選手はなべて陽気だが、とくにラテン系の人々は明るい。その中でもイタリア選手は、セルリアンブルーのトレーニングシャツを着て、歓迎に明るくこたえていた。もっとも、これはたんに人種的な性格の差ばかりではないだろう。彼らはすでにりっぱに社会に復帰している人たちで、いわゆる療養者ではないからである。
宿舎では、さっそく旅の疲れをいやすための軽い体操などを行ったが、その堂々たる体格をみて、看護婦さんたちはビックリ仰天。もっとも、この人たちが身障者になった原因をみると、疾病によるもの26%、交通災害21%、労災18%、戦傷14%、スポーツ外傷8%、等であって、その過半数は、もともと普通以上の健康な体であったことがわかる。
東京の宿
宿舎についてほっとすると、まず、時差が気になり、身ぶり手ぶりでトウキョウタイムを確かめる。(下左)言葉は通じなくとも、親しくなるのは案外に早いものだ。女子選手には、女子向きのプレゼントが用意されていて(上、左右)、東京の宿はしずかに更けてゆく。(下右)、それでは第一夜をオヤスミナサイ。
パラリンピック設備の特長は“車イスの操作”の可能を原則とすることである。そこで、たとえば入口とか、階段とかには橋(軽金属製)をかけ、すべてをスロープ化する必要があった。また、トイレなども普通のものでは役に立たないので、これも特製した。もっとも、工事期間が2日間しかなく、突貫で作った。
上の三枚は中央食堂(富士レストラン)とそれに附属させたブリッジ(スロープ)。下は選手村宿舎の入口ブリッジ、トイレは車イス式の特殊スタイルのもの。
東京広場で“日本選手結団式”
パラリンピック参加の日本選手は、全国都道府県から選ばれた53名である。これらの選手は、11月7日午前9時、選手村内“東京広場”に集合、常陸宮ご夫妻をお迎えして、結団式を行った。広場にはパラリンピック東京大会旗(緑地に白い鳩、車イスをシンボルした赤い丸)をはじめとして、参加各国旗がへんぽんとひるがえり、ムードを盛りあげた。
式次第は選手紹介、葛西会長ならびにグットマン博士のあいさつ、常陸宮さまのおことば、選手代表中村団長の宣誓、などがあり、常陸宮さまより中村団長に団旗(大日章旗)が授与された。 写真上、大分、北海道方面の選手は飛行機で、その他は鉄道、バスなどで順次上京してきた日本選手団。下左、おことばを述べられる常陸宮
ユニホームはエビ茶色
日本選手団のユニホーム(トラックスーツ)は上下ともエビ茶色(布地はエクスラン)で、胸にNIPPONの文字が白ぬきにされている。なお、競技用のシャツ(コットン)は黄色で、胸に日章旗がつけられている。靴は真白いバスケットシューズ。帽子はエビ茶色のスポーツ帽である。
パラリンピック選手歓迎レセプション
東京都知事主催の選手歓迎レセプションが、11月7日午後3時から、村内食堂(フジレストラン)で開かれた。これは、前夜祭をかねたもので、会場には大会名誉総裁皇太子殿下ご夫妻をお迎えし、選手、役員、付き添え、関係者など約800人が出席。約1時間あまりにわたって、なごやかな親善風景がくりひろげられた。(詳細は次ページへ)
写真上はメーンテーブルで、グットマン博士夫妻と歓談される皇太子さまご夫妻。下左、会場への橋(スロープ)を登ってくる色とりどりの正装の各国選手。下右、入口では主催者の東都知事夫妻が一人一人に握手。
東都知事の案内で、各選手のテーブルを訪問、親しく握手される皇太子さまご夫妻。
通訳部会の語学奉仕団の女子学生も和服姿で活躍、記念写真のモデルに一役。
皇太子さまは濃いグレーのダブル、美智子さまは淡い真珠色に白菊地紋の訪問着を召され、東都知事の案内で五つに別けられた各部屋をおまわりになり、近くの席の選手たちと握手をかわして激励された。とくに美智子さまの気品あふれる和服姿の美しさには、思わずワンダフル!とさけぶ外国選手もいて、女子選手などはたいへんな感激ぶりであった。
各テーブルには、それぞれ日本選手が配属されていたが、オスシ、テンプラなどの日本料理のたべ方などを教えて、さっそく親しくなった。とくに“お箸”の使い方では、笑い声がたえなかった。
午後四時すぎにパーティは楽しく終ったが選手たち一同は主催者からのおみやげ(版画の掛け軸その他)を貰って大喜びだった。なお、ロビーではしばらく歓談がつづき、記念写真などを撮りあった。
選手村の朝
選手村運営部会(東京都)は、北見本部長指揮のもとに3部11係から編成され、選手の受入れや関係施設の運営に当った。なお、建物などは、オリンピック選手村のままであるが、もちろんその一部は車イスの生活に必要なように改修された。受入れた各国選手の数は、宿舎113棟に568名であった。
朝、静まりかえった原宿ゲート附近(写真左上、左中)。特異な建物として評判になった屋内競技場の屋根や、待機するリフト付バス(左上)やトラック群の屋根に、初冬の朝日が反射する。トレーニングをかねた散歩の選手たちが、選手村中央のロンドン通りにチラホラ。車イスの影が長い。なかには故国への便りを一生懸命に書いている者もいる。
左上、オリンピックからパラリンピックへとバトンタッチされた正面ゲート。その下渋谷口ゲート。右、正面ゲートの装飾塔。
右、左正面ゲート前通りの各国旗。 左、 東京広場の各国旗。
オダ、フィールドの入場門。いよいよ開会式を明日にひかえて、式典係関係者は夕方おそくまでリハーサルを行った。パラリンピックカラー
パラリンピックの各装置はすがすがしい色彩効果を重視した。
とくに、一つの会場でそれぞれ言葉の違った数百人の選手や役員が活動することが予想されたので、役職標示などを視覚化することを企った。たとえば色彩記号の方法をとり、選手、審判役員、通訳、報道、医療、介添えなどは、それぞれ色の違ったスポーツ帽をかぶり、遠くからでもこれが識別できるようにしたことなどである。右の参加章はその一例で、周囲のリボンの形や色を変えることによって、各役職を区別したものである。(なお、大会旗・参加章・装飾塔などのすべてのデザインは、大会企画員アートデレクター高橋春人氏が担当した。)
オダ・フィールドのメインポールの大会旗。左がパラリンピック東京大会旗、中は主催国々旗。右がSMG旗。
参加章、ワッペン
各競技場、ゲート附近に立てられた装飾塔。
シッピッグセンター内の案内所。(但しこれはオリンピック当時のもの)カラーでみる開会式
左:整列した各国選手。右:貴賓席の大会名誉総裁皇太子殿下ご夫妻。
参加22カ国の国旗。
四枚は入場行進する各国チーム左よりイギリス、アメリカ、フランス、日本。
主題:
PARALYMPIC TOKYO 1964 パラリンピック 国際身体障害者スポーツ大会 写真集 No.1
1頁~34頁編集発行者:
パラリンピック・国際身体障害者スポーツ大会編集委員会発行年月:
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