【あの時・素顔の北の湖】(1)熱狂を呼ばなかった最年少横綱の誕生
日本相撲協会前理事長の北の湖敏満(本名・小畑敏満)さん(享年62)が亡くなって20日で1年になる。闘病中の北の湖さんに当欄の企画を伝えていたがインタビューはかなわず、直後に天に召された。電話越しに聞いた「今さら話さなくても書けるだろ」という“遺言”を支えに、史上最年少21歳2か月で横綱となり、歴代最長63場所の横綱在位を誇った“怪童”の素顔を振り返る。
北の湖は21歳2か月で横綱に昇進した。大鵬の21歳3か月を更新する史上最年少での綱取り成就。この記録は現在も破られていない快挙だ。しかし、最年少の先人・大鵬や、後に最年少記録を大関まで更新した貴乃花の時のようなフィーバーとしての記憶は薄い。
昇進を決めたのは1974年名古屋場所。当時の報知新聞のとじ込みをめくって、あることに気がついた。名古屋場所千秋楽(7月21日)は新聞休刊日で、翌22日はあらゆる新聞の発行がなかった(スポーツ紙の休刊日特別版もなかった)。
直前の夏場所で2度目の優勝(13勝2敗)を飾った北の湖は、綱取り大関として名古屋に挑んだ。千秋楽を13勝の単独トップで迎えたが、本割で横綱・輪島の左下手投げに敗れた。2敗で並んだ優勝決定戦も同じく輪島の左下手投げに転がされ、まさかの2連敗という最悪の千秋楽だった。
「同じ技で同じように負ける。悔しいなんてもんじゃなかった」。20年以上たってからそう聞いた。北の湖は記者会見や解説など、かしこまって話す時に「やはり」という接頭語をつけるのが癖だった。それが言葉を慎重に選ぶ「間」になっていたが、手さばきを再現しながらあの2番の悔しさを吐露した時「やはり」の口癖は吹き飛んでいた。
14日目に13勝した時点で優勝同点以上が確定しており、千秋楽翌日(22日)に横綱審議委員会(横審)が開かれ北の湖の推薦が決定した。休刊日明け7月23日付の報知新聞では「最年少横綱誕生」(7面)と報じている。9面に掲載された「21日のスポーツ」では、千秋楽の結果を「輪島の逆転優勝」として伝え、北の湖の“屈辱の千秋楽”は打ち消された形だ。
当時大相撲担当として千秋楽の記事を書いた大野修一(68)は「まったく覚えてない」と首をひねり「北の湖フィーバーといえば、その年の初場所だった」と証言する。74年初場所の千秋楽(1月20日)。関脇・北の湖は、三重ノ海を寄り切って14勝1敗で初優勝を飾り大関昇進を決めた。翌21日の報知新聞は「北湖 満開の20歳」と1面で伝えている。北の湖は大関をわずか3場所で通過して横綱に駆け上がった。
北の湖が生きていれば2年後に定年を迎え、相撲博物館(両国国技館内)の館長に就いたことだろう。歴史好きだった北の湖が、自身の史料と興味深く向き合う姿が想像できる。生涯、自伝を書かなかった北の湖。部屋を継承した弟子で協会理事の年寄・山響(元幕内・巌雄)は「オヤジ(師匠)は長年、報知新聞の評論家でしたから、オヤジの言葉をよみがえらせてください」と懇願した。(酒井 隆之)=敬称略=
あの時