【あの時・素顔の北の湖】(2)最年少横綱は「誰も抜くことはできない」
九州場所の番付発表に先立つ10月2日、神奈川・川崎大師で北の湖の一周忌法要と納骨が行われた。儀式後の食事会で献杯の音頭を取ったのが、日本相撲協会理事で元横綱の一代年寄・貴乃花だった。北の湖が「和」と毛筆でしたためたラベルの吟醸酒をゴクリと飲んだ。
北の湖の弟子で協会理事の年寄・山響(元幕内・巌雄)と貴乃花は現役時代から仲が良く、北の湖は一門の枠を超えて、引退後の貴乃花を弟子のようにかわいがり、帝王学を注入した。「実務を教えていただき、たくさん勉強させていただきました。理事長として相撲協会を守り抜くという意志を感じました」。貴乃花は背筋を伸ばして述懐する。
北の湖と貴乃花、そして貴乃花の父である元大関・初代貴ノ花は年少記録をめぐって因縁がある。“怪童”北の湖がスピード出世で十両昇進(17歳11か月)と幕内昇進(18歳7か月)を決めた時、どちらも初代貴ノ花(当時・花田)の記録(十両18歳0か月、入幕18歳8か月)を抜いて、年少記録を更新している。その後、貴乃花(当時・貴花田)は、17歳2か月で新十両、17歳8か月で新入幕を果たし、いずれも北の湖を抜いて、史上最年少記録を作った。
子どもの時から、父・貴ノ花から「北の湖は強さのレベルが違うぞ」と聞かされていた。父が引退した時に巡業に連れて行ってもらい、横綱・北の湖を初めて見たが「とても近づけなかった」。少年時代の貴乃花(花田光司)が「大きくなったら北の湖を倒す」と言ったとされるエピソードも残るが「それはよく報道されましたが、まだ力士になるかも分からない子ども時代の話ですから」と首を横に振った。横綱・輪島とともにCMに出演するなど人気大関だった初代貴ノ花。その「貴輪(きりん)」の時代に割って入り「輪湖(りんこ)」の時代を築いた北の湖。マスコミが光司少年に「北の湖を倒す」と言わせたとしても不思議でない背景が、当時はあった。
貴花田として入門した時、すでに北の湖は引退しており、師匠(父)と同じ審判部にいた。付け人として師匠の身の回りの支度をしていた時、北の湖は自身の付け人に「貴花田みたいにやるように」と本人に聞こえるように言って指導した。怖そうに見えて、細やかな気配りを感じた。
2代目貴ノ花として20歳5か月で大関に昇進するなど、貴乃花は史上最年少記録を次々と塗り替えたが、北の湖の持つ史上最年少横綱(21歳2か月)の記録は破れなかった(貴乃花は22歳3か月)。「無理ですね。こればかりは、誰も抜くことはできないでしょう」。貴乃花は目を細めて遠くを見つめた。(酒井 隆之)=敬称略=
あの時