【あの時・素顔の北の湖】(3)怪童スカウトも育成法も師匠譲り
史上最年少の21歳2か月で綱を張った北の湖。原点は13歳、中学1年での入門と初土俵だ。1966年4月、北海道有珠郡壮瞥(そうべつ)町で「怪童」と呼ばれた小畑敏満は、年寄・三保ケ関(元大関・初代増位山)のスカウトを受ける。弟子として旧北の湖部屋を継承した日本相撲協会理事の年寄・山響(元幕内・巌雄)は、師匠の実体験を同じ中学1年の時に聞かされている。
北の湖が現役横綱だった83年夏、師匠・三保ケ関の地元・姫路市に怪童がいると聞きつけて“将来の弟子”をスカウトに行った。それが朝日中1年の山響、平野建司だった。175センチ、85キロの少年に、北の湖は中1時代170センチ、75キロだった自身の姿を重ねた。
まげを結い着物姿の北の湖は、土俵では見せない人懐っこい笑顔を浮かべ、建司の父・辰雄に語りかけた。「私は中学1年で入門しました。今は義務教育が終わらないとだめなんですけど…」。北の湖は13歳で壮瞥中から両国中に転校し、中学に通いながら初土俵を踏んだ。学業を優先し、稽古は日曜だけ。春(大阪)、名古屋、九州の地方場所は早めの春休み、夏休み、冬休みとして相撲を取った。
三保ケ関が最初に北の湖に会いに来た時、両親は不在で5歳上の姉・やす子が対応した。「うちは田舎ですから、東京の人がハイヤーで来たもんだから、敏満も緊張して、何も言わずただ聞いているだけでした」。黙って聞いていた怪童は、17年後には師匠のしぐさをまねるように、建司を口説いていた。「太ももを見せて」「相撲とか柔道はやってないの?」
2年後に建司を迎えに来た北の湖は「息子としてお預かりしますから何も心配しないでください。持っていくものも何もいりません」と自分が師匠に言われたように言った。弟子を「ケンジ」と下の名前で呼んだ。その年、北の湖の父・勇三と師匠・三保ケ関がくしくも同日(85年10月21日)に亡くなったが、北の湖は師匠の葬儀を優先させた。
建司が入門した時、北の湖にはすでに内弟子が数人いた。兄弟子たちは、三保ケ関部屋所属として初土俵を踏んだが、建司は同期の北斗龍(45歳で最年長現役)らと、創設されたばかりの北の湖部屋の新弟子第1号となった。部屋の教えは「自分がされて嫌なことは、絶対に人にするな」。建司は巌雄として北の湖部屋の幕内第1号に育ったが、北の湖2世となる横綱は生まれていない。巌雄は旧北の湖部屋を継承し、山響部屋を興した。「姫路の師匠」が育む「北の怪童」という系譜は、まだ途切れたわけではない。(酒井 隆之)=敬称略=
あの時