【あの時・素顔の北の湖】(5)13歳から名乗ったしこ名、最長48年10か月の誇り

2016年11月20日14時0分  スポーツ報知
  • 川崎大師の墓所にある北の湖墓碑
  • 北の湖新聞2003年夏場所号

 国技館が蔵前から両国に移転した1985年の初場所で「新国技館で横綱土俵入り」という夢を果たし、2日目に引退した横綱・北の湖。一代年寄・北の湖として日本相撲協会の幹部候補になる一方、翌春場所から報知新聞の評論家となり、理事長に就任する直前の2002年初場所まで17年間務めた。その縁で部屋の後援者に配る「北の湖新聞」の制作を請け負った時期があった。03年夏場所号では50歳の誕生日(5月16日)を部屋新聞で祝っている。

 両国国技館のエントランスに展示されている「織田信長上覧相撲図」の前で、50歳の5を指で示して記念撮影。日本史が大好きだった北の湖はこんなコメントを寄せた。「1582年に本能寺の変で自害したとき、信長は48歳でした。志半ばでこの世を去りました。ちょうど私が理事長になったのが48歳でしたから、これからやらなければ、という思いが強いのです」。そして、こう話した。「13歳で北の湖というしこ名をいただいてから、現役時代、そして親方になってからも名前が変わっていない。それだけが誇りです」

 13歳から名乗っているしこ名を、誰よりも長く相撲協会で名乗ることを、ひそかな目標にしていた。横綱名のまま親方を名乗れる一代年寄は大鵬に続いて2人目、その後は貴乃花がいるだけ。先人の大鵬に気遣い、あまり公言してこなかった夢だ。その後、この記録が話題になることはなかった。北の湖が亡くなってから、相撲協会広報部で資料を突き詰めてみた。

 大鵬は1940年5月29日生まれ。定時制高校1年だった16歳で入門し、56年秋場所の初土俵は本名の「納谷」だった。十両に昇進した59年夏場所(5月)から大鵬に改名し、71年夏場所で引退。一代年寄・大鵬を襲名し、05年5月28日の定年(65歳誕生日前日)まで名乗り続けた。翌日から本名の納谷幸喜として、相撲博物館館長に就いた。つまり、大鵬を名乗ったのは、59年5月から05年5月までの46年ということになる。

 北の湖は1953年5月16日生まれ。中学1年だった67年初場所(1月)に北の湖として初土俵を踏み、85年初場所で引退し、一代年寄・北の湖を襲名。在職のまま15年11月に亡くなった北の湖がしこ名を名乗った期間は48年10か月だった。ここは北の湖の気遣いに倣い、あえて差を求めないでおこう。

 北の湖は「弘照院殿北偉徳実法湖大居士」として、神奈川・川崎大師の墓所に眠り続ける。大きな手形が入った土俵のように丸い石碑は、何歩も下がって支え続けた、愛妻・とみ子の自信作だ。来年には境内に横綱姿の銅像が建つという。(酒井 隆之)=敬称略、終わり=

あの時

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