2020年の東京オリンピックまで、あと約5年。交通網の新設や国立競技場の立て替えなど、町の表情がガラリと変わりそうな構想も多々浮上している。ということは、前回の東京オリンピック、つまり1964(昭和39)年以前の東京の姿も、今とはかなり違ったのかも? そんなオリンピック以前の東京の風景を、教えて!gooのQ&Aから探ってみよう。「1964年東京オリンピック以前の東京」
■池袋在住の人が見た、当時の東京
詳しい回答を寄せてくれたのが、yomyom2001さんとnoname#3394さん。まずは、池袋近辺に住んでいたというyomyom2001さんの回答から。
「オリンピックの前年までトイレが『汲み取り』でしたね。それと各家々の前に(道路上)にゴミ箱というものも常時置かれていました」
「御用聞き(ごようきき)という制度がまだ残ってましたね。うちの場合は、クリーニング屋、酒屋、乾物屋、八百屋、などが毎日や1日おきぐらいに、なにかご用はありませんか?といって注文をとりにきてくれるのです。もちろん配達もしてくれます」
「今からでは想像もできませんが、セスナ機から宣伝のビラをまく、という広告方法も結構一般的でした」
お得意先を定期的に回る「御用聞き」も、どの家にも日中に人がいた時代のもの。わかりやすい例を挙げるなら、サザエさんに登場する三河屋のサブちゃんだろうか。そして、ビラ撒き広告。郵便受けに入れるのも嫌がられる現代からは驚きだろう。
■池袋の隣駅・大塚在住の人から見た、東京の姿
続いて、同じように詳細な記憶をつづってくれた、noname#3394さん。こちらは大塚在住だったとのこと。
「サンシャイン・ビルもありませんでしたから空も広く、夜には天体観測もできましたね」
「下町の方(確か千住?)には『お化け煙突』なるものがあり、確か4本の高い煙突なんですが、見る方向によって2本に見えたり、3本に見えたりして結構不思議でしたね」
サンシャイン60が開業したのは、1978(昭和53)年。千住のお化け煙突は、オリンピックの年まであった火力発電所の煙突だ。「お化け煙突」のキーワードで画像検索をすると出てくる、モノクロ写真はだいたいこの千住の煙突、というくらい代表的なお化け煙突。
■色濃く残る「戦後」が印象的
「練馬区にある光が丘団地の場所は、グラントハイツという米軍の住宅地で、治外法権で日本人は入れませんでした。自動小銃を持ったMPがジープで巡回していました 」(yomyom2001さん)
「近くに空き地がたくさんあり当時の子どもたちはそれらを『はらっぱ』と呼んでいました。あとで親から聞かされたらそれらは空襲による焼け跡だったそうです」(noname#3394さん)
二人の回答で印象的なのが「戦後」を感じさせる光景。終戦から19年ほどたつ当時でもなお、日本人の入れない地域や焼け跡が、日常に溶け込んでいることが伝わる。
2020年、東京は大きく姿を変えるかもしれない。その時、私たちの記憶に残っているのはどんな景色だろうか。