週刊通販生活トップページ  >  読み物:連続インタビュー企画「憲法と京都」(4)蒔田直子さん

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同志社大学の女子学生たちと暮しながら、多忙な毎日を縫って市民活動に参加する寮母の蒔田直子さん。在日コリアンの女性たちの識字教室「オモニ学校」や外国籍の家族を持つ女性たちによる「国際結婚を考える会」など、さまざまな運動の原点には、「奪われてきた人たち」との出会いがありました。

――蒔田さんは、1973年に静岡から同志社大学に入学するために京都にいらして、その後京都で暮し、働き、子育てをし、活発に市民活動の場に登場しています。京都に来た当時はどのような時代でしたか。

蒔田 ベトナム戦争が終盤を迎え、軍事政権下の韓国で民主化闘争が巻き起こったときでした。71年、京都で生まれ育った在日韓国人の徐勝(ソ・スン)さんが、ソウル大学大学院に留学中に逮捕され、大火傷を負う拷問を受けました。詩人の金芝河(キム・ジハ)さんらも民主化運動に連座して逮捕され、後に大統領になる金大中氏の拉致事件や、同志社大学の同年代の在日韓国人の学生たちが、韓国留学中に政治犯として逮捕される事件も起こりました。
 鶴見俊輔さんをはじめ、京都のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の人たちが、その当時京都で「金芝河氏らを殺すな」というデモを始めたのです。私は大学が面白くなかったので、「ほんやら洞」(※)という喫茶店でアルバイトをしていたら、鶴見さんから「僕たちはこういうことで街を歩きます」と誘われて、初めてデモに参加したのです。拷問とか「政治犯」という言葉に震え上がり、頭ではなくて先に体で動いてしまった。気づいたらもうそこにいる(笑)。
 その後、同志社大学は学費値上げ反対のストライキになりました。そのときに、「誰のために何のために学ぶのか」と学生たちが自主ゼミを開き、自分自身に問うたのです。それは私にとってとてもしんどい自己否定の作業でした。全共闘運動の一つの思想の流れだったと思います。全共闘運動って私が高校生のときにすでに終わっていましたが、同志社には残り火がありましたから。

※ほんやら胴…70年代からの京都の市民運動、反戦活動、南ベトナム・韓国の政治犯救援運動や詩人たちのポエトリー・リーディング等の中心的拠点、若者の対抗文化の象徴的な喫茶店だった。2015年1月不審火により全焼。

――学生運動を知らない世代としては、「自己否定」「挫折」というのは、実感としてはわからないのです。「挫折」も何も、実経験のない年齢ですよね。

蒔田 私の場合は、在日朝鮮人の存在や差別の現状を何も知らずにのうのうと生きてきたそれまでの自分は何だったのかという問いと重なりました。当時の大学生は、やはり恵まれた階層だったと思うし、社会の中で構造的に誰かを踏みつけて生きてきたのではないかという思いもありました。今の学生たちは、ここの寮生も奨学金とアルバイトで仕送りなしで卒業していく人たちも多いけれど……。当時、若くて激しかったから精神的に自分を追いつめてしまって、崖っぷちに立っているような、人生で一番死に近いところにいました。私は病んでいった方だけれど、そういう状態で運動に参加するのはよくないですね。罪悪感が根底にあると過激になってしまいますから。
 引きこもりに近い状態で休学し、働いていたころに牧師さんに誘われて大阪の生野区のキリスト教会で行なわれていたオモニ(韓国語:お母さん)たちの識字学級「オモニハッキョ」に行ったのです。そこには頭でっかちではなく、生活感を持って「生きている人」「あたたかい人たち」がいた。オモニたちは、在日朝鮮人一世で、日本語の読み書きができない。ちょうど今の私と同じ、60歳前後の方たちでした。日本人の自分の「差別者」の立場に恐れおののきながら行ったわけですが、私は「若い先生」なんて呼ばれて迎えられて。私たち日本の若い学生は、普通に年上の女性に対する態度でいただけなのに、オモニたちに「こんな風に大切に扱われたことはない」と言われる。今までどんなふうに扱われていたのだろうとショックでした。私はとても罪悪感をまとって行っているのに、そこに行ったとたんに、自分が丸裸にされて抱っこされてしまうような安堵がありました。
 喜ばれて大事にされたからといって、日本人の私が喜んで行っていいのだろうかと悩みました。でも、一週間に一度、オモニたちと出会うのが、どうしようもない喜びだったのです。

――オモニハッキョの様子を教えてください。オモニたちと出会う喜び。それはどんなことだったのですか。

蒔田 どのようにして日本にきて、どのように生きてきたのかということを、オモニたちと一緒に朝鮮料理を食べながら聴き、それぞれの思いを語り合うことがとても貴重な経験でした。オモニたちは半世紀を日本で暮しながら学校に通うことができず、文字を持つことができませんでした。読み書きを勉強したいという強い願いがありました。
 その後、京都の東九条でもオモニ学校が始まり、東九条に通うようになりました。「文字を学んだら、世界が白黒写真からカラー写真になったように思えた」「文字を知ったら世界が明るい」と言われて、ハッとして。「あのバスがどこに行くバスだか分かるようになった」「切符が買えるようになった」と話してくださる。そのリアリティーと詩的想像力にうたれました。私はその経験を共有できないけれど、そばにいて全力で聴く。聴く人がいなかったら、語られない言葉というのがあるでしょう。
 朝鮮半島と日本の歴史を、生きているオモニたちの深い愛を注がれながら教わる場。在日も日本人も、世代も超えて、色々な方が参加して、会話をしながら意識の塀を超えていく試みだったと思います。私たちも朝鮮語を学んで、相手の言葉を知る。在日の若者たちは、「在日一世のオモニが、なぜ今さら日本語を学ばなくてはならないんだ」とたまらない思いをぶつけることもありました。その怒りの感情の背景を考え、日本人の参加者は生きた学びをする。そこでは恋愛がたくさん生まれました(笑)。お互い枠を超えて出会う場だったのでしょう。自分が新しく産みなおされていくような経験でした。

――オモニたちにとっても、文字を学び、日本の若者たちと出会い、それまでとは異なる日本社会と世界に出合う、産みなおされる場だったのかもしれないですね。日本語の読み書きが切実に必要というだけでなく、仲間に会えてお喋りや相談ができる場は大切だったのでしょう。

蒔田 オモニたちも、踊ったり食べたり楽しそうでした。女性たちが休むことを許されないしんどい暮しの中で、家族のしがらみからも自由な、解放区のような場所だったのかもしれません。
 「なぜ日本に来たのか」という自分自身の歴史を語る中で、「挺身隊に取られるから、親がそこから逃すために結婚させ、日本に渡った」というオモニたちも多くいました。オモニたちが挺身隊と言っているのは、いわゆる「従軍慰安婦」のことです。当時、オモニの親たちは「挺身隊にとられる」=「慰安婦にされる」ととらえていたのです。時代の中で、朝鮮半島の女性たちが個人ではなく世代として経験したことなのだということに初めて気づいたのです。

蒔田さんが編集・解説をした、在日一世の皇甫任(ファンボ・イム)さんの手記『十一月のほうせん花 在日オモニの手記』(径書房)。表紙と挿絵は丸木俊さんによるもの。

皇甫任さん(左)と蒔田さん(右)

――被差別の経験は、あまりにひどいこともあって、聴くと怒りを感じることもあります。でも、蒔田さんは、自分自身が与えられてきた喜びをお持ちなのですね。

蒔田 高校生のときに、山崎朋子さんの『サンダカン八番娼館―底辺女性史序章』を読んで、文字にならない歴史があることを知ったのです。だから、聴きたいという気持ちが強くて私は飛び込んでしまう。知識がほしいのではありません。
 後年、若い人たちと「従軍慰安婦」にされた女性たちの話を聴く場も作ってきました。辛い体験を語る被害女性たちは「サバイバー」(※)で、語ることで大きなハードルを越えてきた人たちでした。人間が尊厳を取り戻していく過程に立ち会わせていただいたと思っています。語ることによって、人間が尊厳を獲得し変身していく姿のそばにいて、痛みを感じながら自分たちも育てられたのだと思うのです。
 オモニたちの被差別の体験はあまりにも凄まじいものだったし、文字が書けないことを馬鹿にされてきたり、暮しのあらゆる場面で襲いかかる差別の屈辱にじっと耐えてきて、澱のように体の中に苦しみがたまっている。それが、言葉にできたことで、オモニたちの体から、言葉から、ぬくもりから、痛みと尊厳が立ち上がってくるのが感じられました。
 言葉を持って話し、書けるのは普通のことではない。もの申すことができるのは「特権階級」だと思いました。一世のオモニたちが黙って忍んできた理不尽を、「私はもう黙らない」と決めたときがありました。

※サバイバー(survivor)…戦争や災害、事故、事件、虐待などから、奇跡的に生還を遂げた人のこと。

 84年と88年に、在日朝鮮人のパートナーとの間にふたりの娘を産みました。日本の戸籍制度と結婚制度は、日本国籍のある人たちを前提としたものです。彼は韓国籍だから日本の戸籍はない。当時は父系血統主義の国籍法だったから、私に子どものいる形跡は、婚姻届を出してしまうと戸籍にも住民票にも全くなくなってしまう状態でした。
 日本人だけが対象の血統主義の家制度。戸籍は誰のための制度なのだろうと思いました。少なくとも私のためではない。産休や職場の出産祝い金を申請したくとも、私と子どもたちの関係を証明する公文書がないのです。
 結婚しなかったら、私の苗字で日本国籍の婚外子になる。彼と結婚すると、その子は韓国籍になり在日三世になる。子どもを日本人として育てるのか、在日朝鮮人として育てるのか、選択しなくてはならなくなりました。そのころ、国籍法がもうすぐ変わるという情報もありましたから、迷った末に出産のひと月前に婚姻届を出して、娘を韓国籍にしました。
 1985年に国籍法が変わった後に、娘は「経過措置」で日本国籍も取得しました。下の娘のときは、出生届を出すことで日本国籍を取得し、韓国との重国籍となりました。日本でも22歳以降も重国籍が認められる社会を目指して「国際結婚を考える会」は30年来活動していますが、いまだに叶いません。
 「国際結婚」でなくても、戸籍って誰かを排除したり差別する以外に使われることってあるのでしょうか? 親の関係で子どもが差別されたり、いったい誰が必要とする制度なのかと根本的に疑問があります。

――インタビューの最中ですが、寮生の高亜美さん(4回生)にも少しお話を聞いてみましょう。高さんは中学まで朝鮮学校に通っていたんですね。

 ちょっと前、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチの動画をネットで見たんですけど、私、もう在日は、在日の権利を主張する必要もないんじゃないかなって思う。日本で生まれ育って、今さら韓国にすがりつく気もないし。日本人として生きたらよいと思う。

蒔田 亜美ちゃんがヘイトスピーチの動画を見たと聞いたとき、あれだけは見せたくないと心底思ったの。直接の、ずっと消えない暴力を受けることだから。そして、現に亜美ちゃんたちは選挙権もなくて、無権利の状態に置かれているわけでしょう。何代重ねても自分の住んでいるところで使える権利がない。
 奪われているのは事実だから、持つべき権利をまだ持っていないということは、否定してはいけないと思う。フェアな関係ではないところに立たされているのだから。日本か韓国かという話ではないと思うよ。「権利をよこせ」って言っていいんだよ。

――中国も韓国も、遣唐使や朝鮮通信使を通じて日本が学んできた国なのに、日本で生まれた在日三世、四世の時代になっても、まだ差別している。非寛容な無知性ですね。

蒔田 最近訪ねたドイツの友人は、アイスランド、フランス、ドイツなど、複数のルーツであっても、住んでいる自治体や国において選挙権があって住民としての権利があります。ナニジンかと問われても、ルーツは4つくらいあるけれど……という感じで、日本のように「人権」が血統主義ではない。

 アイヌも沖縄も全く別のルーツですよね。日本ではほかの民族・国籍の血が流れていたら、「クォーター」とか「ハーフ」とか言われるけれど。

――世代も立場も超えて、寮でも蒔田学校が繰り広げられているようですね。オモニハッキョから始まって、国際結婚と戸籍の話もお聴きしました。そのほかに、阪神淡路大震災のときのボランティア、最近では脱原発運動、安保関連法廃止に向けて声をあげておられます。蒔田さんにとっての市民運動や憲法の本質は何ですか。

蒔田 生きることを阻むものは、すべて同じ。押し返したい(笑)。色々なところに走っていってしまうのは、人の命を削るものを押し返すという体の反応です。でも私、市民運動ってほんとうは苦手なんです。

――ベ平連のときから関わっているのに、ですか(笑)。

蒔田 運動のわけ知り顔のことばではなくて、生きて暮す人間のことばを聴きたい、語りたい。オモニたちのすべてのことばが私にとっての学校で、よりよく生きたいという憲法なのです。
 「指紋押捺をするとき、わたしのこどうがきこえてくる。こういうことはよくありません」(『オモニ学校 宝のくら』九条オモニ学校発行より)という言葉をオモニが書く。嫌なことを嫌だと言えるようになる。
 それまであげられなかった声の重さを思うとき、やっと立ち上がってきたオモニたちの言葉が、人権を守る憲法の言葉に思えて。憲法の主語は、国民ではなくて、peopleです。あのときのオモニたちが願ったところには、今の社会は全く到達できていない。むしろ逆行してしまっている。でも、黙らない。あきらめず押し返しに行きます(笑)。

(取材・文/中村純)

「憲法と京都」は今回で最終回となります。今後、ウェブ連載に書下ろしを加えて、京都に本社のある「かもがわ出版」から単行本として出版される予定です。それぞれの場で、憲法を語り、考える場が拡がること、平和の思想としての日本国憲法が世界に広がることを願っています。

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