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【伝言 あの日から70年】

4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇

全身に飛び散った手りゅう弾の破片が、今も体内に残るという仲本政子さん=大阪市で

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 太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民が根こそぎ軍事作戦に動員された。このため、投降する住民を日本兵が「スパイ」と見なし、殺害する事件が相次いだ。背景には、軍事機密の漏えいを防ぐ法律があったが、被害者のほとんどは正当な理由もなく、口封じのために殺された。加害者側の日本兵も飢えや恐怖に追い詰められていた。そんな中で起きた残虐な行為が、戦争の陰惨さを浮き彫りにする。 (安藤恭子)

 七十年前、全身に飛び散った手りゅう弾の破片が、今も体をむしばむ。「私は、四歳で『スパイ』として処刑された」。沖縄県読谷村(よみたんそん)出身の仲本政子さん(74)=大阪市=は、悲しげに笑う。日本兵が住民を虐殺した「渡野喜屋(とのきや)事件」で生き残った。

 一九四五年五月、米軍に捕らえられた仲本さん一家は、県北部の渡野喜屋(大宜味村(おおぎみそん))の集落に収容された。村議だった父が、米兵にもらった食料をほかの人に配るのを、山に隠れた日本兵がじっと見ていた。

 「おまえたちは、こんないい物を食っているのか」。兵隊たちは夜中、一家が休む民家に踏み込んだ。仲本さんは母と兄、妹の四人で、砂浜に連行された。数十人いた周りも年配者や女性、子どもばかりだった。

 「アメリカの捕虜になって、恥ずかしくないのか!」。兵隊が怒鳴り、「一、二、三」の合図で手りゅう弾を何発か投げ込んだ。二歳の妹は死んだ。日本兵が引き揚げた後、米兵が倒れていた仲本さんを箱に入れ、テントに運んだ。

 父は別の場所で、首に短刀を突き刺されて殺された。両ひざは丸くくりぬかれ、「日の丸だ。勲章だ」と日本兵が持ち帰ったという。血の海に浮かぶ遺体を見つけた母と兄は、あまりのむごさに気絶した−。

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 これが、仲本さんが二十歳の時、兄から打ち明けられた話だ。三カ月後、兄は心を患い、入院した。

 「渡野喜屋はスパイ集落」という密告が事件のきっかけだった。「私たちがスパイだなんて殺す言い訳だ。戦争は悪魔を生む。人間を信じられない私は、今も暗闇の中にいる」。仲本さんは苦しみを明かす。

 事件の正式な調査は行われていない。県史編集委員の大城将保(おおしろまさやす)さん(75)は、真相を知ろうと証言を集め、「飢えに苦しんだ日本兵が、食料強奪のために集落を襲った。スパイへの過剰な警戒もあった」と結論づけた。少なくとも死者は三十〜四十人と推測する。

 背景には軍事上の秘密を漏らせば「死刑」と定めた「軍機保護法」があった。しかも、軍の内部文書では、沖縄の方言を話す人や敵のビラを拾った人まで、処刑することを認めていた。

 渡野喜屋のように、スパイとされた住民が殺された事件は、大城さんが確認しただけで四十六件ある。

 「住民がスパイの汚名を逃れるには、投降せずに自ら死ぬしかない。住民虐殺と集団自決の根は同じ。コインの表と裏だよ」。大城さんは、住民の四人に一人が死んだとされる沖縄戦の悲劇をこう解き明かす。

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◆翁長さん 女学生さえ「スパイだな!」

傷を負い米軍に投降した沖縄の住民ら。投降は「スパイ」と見なされる危険もはらんだ=1945年6月25日撮影、沖縄県公文書館所蔵

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 投降した味方を疑い、「スパイ」と決め付けて殺害する。沖縄戦で悲劇が相次いだ裏には、秘密の漏えいを最高刑で「死刑」と定める軍機保護法があった。日本兵が住民に不信を抱く中、戦場をさまよう少女までもスパイ視された。殺害する側にいた人も戦後、悔いを感じ続けている。

 「貴様、スパイだな。立て!」。五月末、那覇市郊外の一日橋。第一高等女学校二年だった翁長安子さん(85)=同市=は、日本兵二人に突然、腕をとられ、銃剣を腰に突きつけられた。「撃たれる」。翁長さんは血の気が引いた。

 翁長さんは、寺の住職だった永岡敬淳大尉率いる郷土部隊に所属していた。第三二軍の司令部が置かれた首里攻防戦で、背中を撃たれて気絶。気付いた時に仲間の姿はなく、血なまぐさい死体の中や墓地をはうように進んだ。その激戦地で、日本兵に捕まった。

 「ただ者じゃない」と兵隊がにらむ。「永岡隊の者です」「他の隊員の名前を言え」…。押し問答の後、ようやく解放された。

 数日後、南部の糸満市の壕(ごう)で再会した永岡隊長は「よくぞ生き延びてくれた」と涙を流して喜んだ。隊長には翁長さんと同い年の娘がいた。

70年前、1人で逃げた道に立つ翁長安子さん

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 暗い鍾乳洞をつたう水のしずくと塩をなめて、過ごす日々が続いた。米軍に包囲された六月二十二日の明け方、隊長は翁長さんらに、「君たちは若い。死んではいけない。捕虜になりなさい」と諭した。

 そして翁長さんの決意を促すように、隊長は自分の数珠をそっと翁長さんの首にかけた。「生きて私の家族に巡り合うときがあるはずだ。よろしく頼む」と形見を託した。翁長さんは腰に付けた自決用の手りゅう弾をその場に置き、光が差す外へと向かった。

 「隊長が私を導いてくれた」と感謝する一方で、最近、気付いたこともある。

 翁長さんは戦闘中、隊長の近くにいて、首里の激戦で、軍司令部が郷土部隊より先に、南へ撤退したことを知っていた。軍の配置が分かる航空写真も見た。どれも、軍の機密になる。

 「知らないうちに、こんな小娘でも軍機に触れていた。『情報を漏らされると困る』と思われ、問答無用で撃たれていたかもしれない」と振り返る。

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本島南部に追い詰められた瑞慶覧長方さん

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 翁長さんが投降したのと同じころ、本島の南端、糸満市摩文仁では、スパイのぬれぎぬを着せられ、沖縄の人が殺されていた。

 雨上がりの蒸し暑い朝だった。戦況は静かで、十三歳の瑞慶覧長方(ずけらんちょうほう)さん(83)=南城市=は「弾が一発も降らない朝は、何カ月ぶりだろう」と不思議な気持ちでいた。その時、数百メートル先の丘に米兵がずらりと並び、こちらを見ているのに気付いた。

 白旗を持った中年の男性が、上半身裸でこちらに歩いてくる。「私は捕虜になった」。投降を呼び掛けに来た沖縄の人だった。「ひどい目に遭うことはない。食べ物も配られる。私が案内する」と続けた。

 その時だった。「スパイ野郎、売国奴!」。岩陰に隠れていた日本兵三人が飛び出し、刀で男性の首を切った。「貴様みたいな人間がいるから、日本はこうなるんだ!」。投降しようとした別の男性も殺した。

 「地獄だ」。瑞慶覧さんは、生きた人が切られる光景に凍り付いた。女性たちは震えて泣き伏した。

1945年6月25日、本島南部の海岸沿いで日本軍の壕に火を浴びせる米軍戦車=沖縄県平和祈念資料館所蔵

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 じきに米軍の攻撃が始まった。弾が一帯に降り注ぎ、戦車からの火炎放射が、人も、草木も、岩も、なめるように焼きつくした。瑞慶覧さんは三十メートルもの断崖を下りて海に飛び込み、一週間後に投降した。

 摩文仁で死んだ住民は、一万人ともされる。「もの言えば『スパイ』と、口を封じられた。でも、投降して殺された男性は、本当のことを言っていた。本当のことを言える世の中であれば、もっと多くが助かったはずだ」と振り返る。

 瑞慶覧さんはかつて、自宅の壕を追い出した日本兵を恨んでいた。土下座する母に刀を抜いて、「軍の命令を聞かないのは天皇陛下への反抗だ。スパイだ」と脅し、激しい弾の中へと放り出した。一緒に逃げた親族六人が死んだ。

 しかし今は、壕を追い出した日本兵も、死を恐れる犠牲者だったと思っている。「戦争犯罪者は、無謀な戦争を始めた政治家だ。本当の加害者は、決して戦場にいない」

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◆宮平さん 「終戦」の声疑い 射殺止めず

投降を呼びかける日本兵を恐れた宮平盛彦さん

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 「殺した側」も「スパイ」への恐怖心で疑心暗鬼になっていた。

 当時十五歳で学徒隊員だった宮平盛彦(みやひらせいげん)さん(85)=西原町=は、殺害の謀議に加わった。「生きて返せば、自分たちの居場所が米軍にばれて殺される、と思った」と当時の思いを明かす。

 四五年十月、すでに終戦したことも知らず、大人の兵隊六人と南風原(はえばる)町津嘉山(つかざん)にある旧日本軍の壕だった洞窟に身を潜めていた。

 ある日、「山、山」と合言葉を言い、奥へと入ってくる二人がいる。「戦争は終わった。本土に一緒に帰ろう」。投降を呼び掛けに来た日本兵だった。

住民が追い詰められた沖縄本島南端の摩文仁の丘

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 洞窟の奥で、兵隊たちが話し合い、結論はすぐに出た。「日本が負けるはずはない。米軍のスパイに違いない。生きて返すわけにはいかない」。入り口を土の塊でふさぎ、出ようとした二人を背中から射殺した。宮平さんの耳にも、発砲音は届いた。

 戦後五十年がたち、宮平さんが新聞に証言したことで、殺された一人が北海道の人と分かった。今も毎年、慰霊の花を手向ける。

 「戦争はやるか、やられるか。投降はできなかったし、射殺を止める気もなかった。それでも、何か方法があったんじゃないか…」。罪の意識に、深く息をついた。 (安藤恭子)

◇秘密は拡大する 石原昌家さん(74)沖縄国際大名誉教授

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 私は戦前の軍機保護法を調べてがくぜんとした。軍機保護法が対象地域の一つとする「北緯三〇度以南」は、首里(那覇市)に司令部を置いた第三二軍とぴったり重なる。七十年前、沖縄にいた住民はみな、「スパイ」として死刑になりうる立場にあったのだ。

 なぜか。沖縄の日本軍は、戦闘に必要な物資を現地調達する方針の下、民家を借りて住民と暮らし、飛行場や防空壕(ごう)づくりに動員した。住民も「日本兵が自分たちを守ってくれる」と信じ協力した。

 だが、こうした軍の動きは、漏らすと死刑を科されることもある軍事機密に当たる。実際、スパイ視されて殺される住民もいた。「住民にスパイがいるから、日本が負けている」と兵隊に言われ、悔しい思いをしたという学徒隊の女性の証言もある。

「軍機を語るな」と書かれた沖縄県のポスター=沖縄県平和祈念資料館所蔵

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 当時の軍の資料からは、軍がいかに沖縄県民を信用していなかったか分かる。差別どころか、迫害の対象だったと私は思う。皇民化教育や「鬼畜米英」への恐怖心は、以前から住民に植え付けられてきたが、沖縄戦では「軍機を守れ」という強迫も加わった。

 一九四四年十一月、軍は「軍官民共生共死の一体化を具現する」と記した「県民指導要綱」を極秘に出している。兵隊向けのこの要綱には、極秘のうちに県民を指導することで軍民一体意識を育て、住民が自ら死ぬように仕向けさせる意図が読み取れる。

 軍機を抱えた住民は「前門の虎(鬼畜米英)・後門の狼(おおかみ)(日本軍)」に挟まれ、逃げ場を失っても投降できなくなった。恐怖と絶望の中で、親子や知人同士が殺し合う「強制集団死」が起きた。

 つまり、日本軍は「住民を守らない」ばかりか、「住民を殺したり、集団死に追い込んだりした」ということだ。数千人の沖縄戦体験者への聞き取りを重ねて行き着いた結論だ。

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 民間人に対し、私は皇国史観に基づく「集団自決」という言葉は使わない。住民は決して「自決」したのではない。国策で死にからめとられたのだ。

 特定秘密保護法は、軍機保護法をなぞる内容だ。秘密は拡大解釈される。沖縄戦の実態を隠した教科書が国民を覆い、安全保障関連法制の整備が進められている。戦争は、目前に迫っているように見える。

 <沖縄戦> 1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸して始まった。4月1日に本島に上陸。日本軍は住民を巻き込む持久戦を展開し、「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の猛攻を受けた。県の推計によると、沖縄戦の死者は20万人余。内訳は県外の日本兵6万6000人、米兵1万2500人に対し、住民の死者が9万4000人と上回り、沖縄出身の軍人・軍属も2万8000人亡くなった。沖縄を守備する第32軍司令官、牛島満中将が自決し6月23日、沖縄本島での組織的戦闘は終わった。

 

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